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世界史名将ランキング100 100位〜96位

評価基準は前回をご参照あれ。

みなさま、ご機嫌よう。今回はランキングの100〜96位をご紹介したい。Dランク帯は基本的に、でかい勝利が一、二回あるか、手堅く勝利を重ねた連中が軒を連ねている。ここらは有名どころもやはり多くなる。


100位 トラヤヌス帝(AD53〜117)

グリュプトテーク所蔵 画像はwikiより

【戦略】B【戦術】C【政治】A【天運】C
【魅力】B【成長】C【影響力】A【総合】B

ローマ帝国の最盛期を築いた五賢帝が1人、トラヤヌス帝に100位のボーダーを担ってもらった。彼は確かに強く、ローマ帝国の領土的最盛期を成立させた。兵たちに支持され、堅実な勝利を模索することに長け、ダキア戦争を勝利に導いた。ダキアは先代の皇帝が敗れ去った相手でもあり、手強い相手であったが、その雪辱を晴らした。パルティア戦役でも、アルメニア、メソポタミア地方に進撃、敗北を知らずパルティア軍を蹴散らした。

しかし、彼が率いたのは全盛期のローマ軍であり、しかも麾下の将卒も多くの戦いを潜り抜けた者たちである。失敗しないのは素晴らしいことだが、彼らを率いていたのではアドバンテージは極めて少ないと言えるだろう。また、パルティアとの戦いも必ずしも高評価できるものではない。結局のところ、パルティアの首都クテシフォンを攻略したものの、ユダヤやメソポタミア各地での反乱が相次ぎ、遠征目標は達成できなかった。彼はアレクサンドロスに憧れていたが(成功したものでも失敗した者でも、この憧れを抱く者は極めて多い。今後、この病をアレクサンドロス病と呼称する。)インドにまで向かうことはできなかった。

99位 バーブル(AD1483〜1530)

『バーブル・ナーマ」から 画像はwikiより

【戦略】B【戦術】C【政治】B【天運】E
【魅力】C【成長】A【影響力】A【総合】B

北インドの大帝国、ムガル帝国を立ち上げた開祖がバーブルである。彼は本来、中央アジアに勢力を置いたティムール帝国の貴公子であったが、内輪争いやウズベク人の侵攻により故郷を追われることになる。この若き日のバーブルは、才覚を窺わせるものの、政治的にも、軍事的にもミスを犯すことも多い。特にサマルカンド関連にはとことん縁がなく、何かにつけて追い出されている。

また、運もない。敵のウズベクには当時、極めて優秀な指導者シャイバーニー・ハンがいた。バーブルはこの男に散々辛酸を舐めさせられる。この名将シャイバーニー・ハンははるか先でもご紹介することになるだろう。ただし、それは敗北者としてである。シャイバーニー・ハンは、空前絶後の若き天才の手により屈辱的な大敗北を味わうのだ。バーブルはシャイバーニーを打ち破った者と同盟し、サマルカンドを奪還するが、またもや致命的なミスを犯し、この都市から追い出される。彼はこれを機に、故地であるマー・ワラー・アンナフルを諦めることに決めた。

しかし、中央アジアを捨て、アフガニスタンから北インドに侵入した頃には、彼は多くの苦難を乗り越えたことで優秀な指揮官になっていた。特にインドのロディー朝との決戦パーニーパットの戦いでは、10倍(疑わしいが、敵の方が多かったのは間違いないようだ)の敵軍を撃ち破るほどであった。その後の、インドにおけるラージプートとの戦いはほぼ負けなし、苦難を堪え新天地で真価を発揮したその忍耐を賞賛したい。

98位 エペイロスのピュロス(BC319〜272)

カピトリーノ美術館より

【戦略】D【戦術】A⁺【政治】C【天運】D
【魅力】B【成長】C【影響力】B【総合】B

ギリシアの西方にあった国家であるエペイロスの王ピュロスは極めて優秀な戦術家として知られている男だ。アレクサンドロス死後の大混乱、ディアドコイ戦争期に頭角を現した彼は、プトレマイオスやリュシマコスと同盟し、アンティゴノスの後継者たる「攻城王」デメトリオスに勝利している。

特にピュロス戦争での活躍は、長きに亘り語り継がれた。イタリア半島統一を目指すローマと、それに対抗しようとするスパルタ植民市タレントゥム(彼らは自軍を持たないため、名将として名高いピュロスを雇った)との間に起きたこの戦争は、ギリシアの民が初めてローマ人たちと干戈を交えた戦いでもある。ピュロスは幾度となくローマ人を打ち破った。特にヘラクレアの戦いは素晴らしく、戦象と騎兵の本髄を遺憾なく発揮しローマ軍を蹴散らした。

ただし、彼は優れた戦術能力とは裏腹に戦略性はお粗末だ。ローマに勝利を続けたものの、最終的に自軍の犠牲が嵩張り戦争はローマの粘り勝ちとなった。これらのことから、古代の格言では、割りに合わない勝利を「ピュロスの勝利」と呼んだ。この言葉は、軍事史の金言であり今後も登場するだろう。

そもそも、彼は致命的なミスこそしないものの、基本的に詰めも脇も甘い。ディアドコイ戦争期では、リュシマコスにいいように使い捨てにされ、イタリアでの敗北の後に乗り込んだシチリアでもカルタゴ勢力を滅ぼしたのにも関わらず政治的に失敗し追い出されている。戦術面は完璧なだけに惜しい人物だ。

97位 ウェリントン公(AD1769〜1852)

サー・ローレンス画 wikiより

【戦略】B【戦術】B【政治】C【天運】C
【魅力】D【成長】B【影響力】B【総合】B

ワーテルローにてナポレオンを破った。イギリスの誇るその名将こそ、初代ウェリントン公ことアーサー・ウェルズリーである。彼の強さは圧倒的な隙の無さだと私は感じる。彼が将校として最初に経験したのが負け戦であったことも、きっと無関係ではないだろう。インドでの素晴らしい勝利も、極めて優秀な指揮官に見られる機動を行っている。

しかし、最も彼の戦歴で輝かしいのはナポレオン戦争でのスペイン戦線、いわゆる半島戦争である。彼は不利な時期には徹底して防衛を重んじ、適切な時期に猛烈な攻撃を必ず加えた。この切り替えが本当に見事で、戦略的な思考と戦術的な鮮やかさを高度に持ち合わせてると言って過言ではないだろう

しかし、ナポレオンへの勝利は彼を必要以上の賞賛の嵐に巻き込ませたとも思う。確かに彼は優秀だ。しかし、彼が戦った時期のナポレオンは全く全盛期ではなかった。ワーテルローでの戦術は、どちらも精彩を欠く。また、半島戦争で彼が戦った相手も程度の知れた元帥が多い。ジュールダンやネイなどお話にもならない。マッセナとの対決は中々だが、お互い名将であるので決戦には至らなかった。スールトに対しては基本有利であったが、末期のフランス侵入を妨害され、してやられた感は否めない。もし、ランヌやスーシェ、バリバリ元気な頃のマッセナを退けていたなら、彼はもっと順位を上げることができたろう。
しかし、どんな相手にも油断なく立ち向かい、それを上回り続けたウェリントンという男は、どの時代、どの地域に生まれてもその名を偉大な者として残したことは間違いない。そんなオールマイティさが彼の魅力である。

96位 ファビウス・マクシムス(BC275〜203)

シェーンブルン宮殿 "Verrucosus" wikiより

【戦略】S【戦術】C【政治】A【天運】D
【魅力】D【成長】D【影響力】C【総合】B

ファビアン戦略の名で知られる古代ローマの戦略家。ポエニ戦争において、ハンニバルと対決し、最終的なローマの勝利に大きく貢献した。
彼はローマの国力を鑑みて、イタリア半島に侵入したハンニバルを軍事的に潰すのでなく、戦わずして干上がらせようとした。そのために、ローマやその同盟国の土地を自ら焼き払い、ハンニバル軍の補給を途絶えさせんとした。そのような対決を避ける消極姿勢が、ローマ市民には弱腰と捉えられ「クンクタトール(のろま)」と揶揄され、指揮官から外された。

しかし、ハンニバルの恐るべき実力がカンナエの地にて示された時、ローマ市民は誤りに気づき彼を最高指揮官にした。徹底してハンニバルとの対決を避け、彼のいない徴発軍に襲いかかり削るという彼の戦略はじっくりと、しかし確実にハンニバルを破滅へと追いやっていった。ハンニバルがイタリアから撤退する直前に彼はこの世を去るわけだが、彼の真なる慎重さは「ローマの盾」として語り伝えられた。

ただし、ハンニバルを倒したのは彼1人の功績ではない。ローマの盾と対応して「ローマの剣」と呼ばれたマルケルスや、奴隷軍団を率いたグラックス、カルタゴ側で暗躍したマケドニアを外交、軍事で翻弄したラエウィヌスらの活躍も、決して疎かにはできない。そしてヒスパニアを半年で攻略し、北アフリカにて常に不利な兵力でありながらハンニバルすら退けた大英雄スキピオ・アフリカヌスという存在との対立も言及しなければならない。ファビウスは真に国家を憂う賢人であるが、確かに慎重に過ぎる面も指摘できはする。戦術面も煌びやかさは全くないので、この順位となった。

まとめ

Dランク帯はあと5人。どんどん書いていくのでよろしく。コメントもお待ちしてる。さあ皆んなで楽しく喧嘩しましょう。読んでいただきありがとう!ではまた。

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