『グレート・ギャツビー』を読み終えて、こんなことを考えた。
①はじめに。
2025年2月15日に東京で開催された彩ふ読書会。その第2部、課題本読書会はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を課題本として行われた。しかも今回は中央公論新社から出版されている「村上春樹訳」に限定した選書がなされた。
②「村上春樹訳」ということ。
わたくし個人としては『グレート・ギャツビー』自体、今回が初読みとなったが、もしかしたら春樹訳からギャツビーを知れたのは良い読書体験だったのではと思った。
というのも、課題本読書会で同席した参加者のうち、何人かは村上春樹以前の翻訳を読んで「訳が古臭く分かりづらい」「話がよく分からなかった」という感想を抱き、なかには「途中で挫折した」という方もいて、そんな彼らが春樹訳を読み「やっと作品の全体像が掴めた」と口を揃えて言っていたからだ。
春樹自身も訳者あとがきでこのように書いている。
それからこれまでに刊行された『グレート・ギャツビー』のいくつかの翻訳書をひととおり読んでみて思ったのは、その翻訳の質とはべつに、「これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える」ということだった。
「ちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える」というのはあくまでも村上春樹の個人的なイメージをもとにしてではあるが、その意見は概ね正しかったのではないか。今のところ私は春樹訳の『グレート・ギャツビー』しか読んでいないので他の翻訳書に対してどうこういうことは出来ないが、ある意味では『グレート・ギャツビー』の物語的な本質を一番正確に翻訳することが出来たのが村上春樹であり、それによって他の翻訳では苦戦を強いられた方々も、春樹訳はすんなり読めたのではないかと思う。
さらに春樹はこうも書いている。
ただ、この『グレート・ギャツビー』に限って言えば、僕は小説家であることのメリットを可能な限り活用してみようと、最初から心に決めていた。超訳したとか、文章を作り替えたとか、そういうことではない。僕は要所要所で、小説家としての想像力を活用して翻訳をおこなったということだ。
過去に行ってきた翻訳作業では小説家であることを極力意識しないように心掛けてきた春樹が、『グレート・ギャツビー』に関しては「小説家としての想像力」を活用した。もしくは活用せざるを得なかった、と考えても良いのかもしれない。それだけ作者であるフィッツジェラルドの文章および『グレート・ギャツビー』という小説は難敵であり、それゆえ「小説家としての想像力」が活用された「村上春樹訳」そのものが、他の翻訳書と比べ、単純に訳者が違うということ以上の決定的な違いを生み出しているのだと思う。機会があれば「村上春樹訳」を通ったうえで、では他の翻訳書はどうなっているのだろうかと読み比べてみたいと思う。そう、機会があればね。
③感想ノート。
ここからは『グレート・ギャツビー』を読んで、課題本読書会用にノートにまとめた文章をほとんどそのまま引用する。中には読書会の時に話せなかった解釈等々もある。(引用しながら改めて考えを整理したことは※のあとに追記する)
・ある男(ギャツビー)の哀しき恋物語と強引に言えるかもしれないが、春樹が解説でも言っているように、人物一人一人の個が立っているので、ギャツビーひとりをあえて中心として読むこともないのでは?と感じる。
・物語構造として、僕(ニック・キャラウェイ)から見たギャツビー、デイジー、トムであり、おおむね誰をも均等に見ているとは思うが、やはりギャツビーへの肩入れはある。
・話し運びもまずギャツビーを謎めいた人物として登場させ、そこには悪評やら胡散臭い噂もあるとしておき、そこから本人が登場したときにギャップを狙った感はある。実は繊細で過去を引きずっている男。パーティーは見せかけであると。
・注意深い人間(僕)と不注意な人間(ギャツビー、デイジー、トム、ジョーダン)
・ギャツビーとデイジーが会う場面で雨が降っている(p158-160)
僕が外にいるあいだに二人が仲良くなる。
→雨が上がる(p166)
比喩としての雨の使い方。
・僕、ギャツビー、デイジー、トム、ジョーダンで街に出掛ける時(p207)は暑くてしかたがない。
→雨の比喩をもとに考えると、暑い日は何かが起こる予感がする。
→実際そうなる。
・ギャツビーが死に葬式の時も雨が降っている。
・巨大な目の看板(p288)「神様はすべてをごらんになっている」
→この話全体を見ているのは読者と、何より「僕」(ニック)
※ニックという語り手は直接自分が見聞きしていないことも、語っていることがある。まるで神の視点のように。
・ギャツビーとトムがお互いの車を乗り換えるところ(p219)
→車を性的なニュアンスで捉えることも出来る?
※トムがわざと自分の車をギャツビーに運転させようとするのは、車=所有物=妻のデイジー、と考えると、ギャツビーに「君は僕の車(デイジー)を上手く運転出来るのか?」と言いたげでもある。その後言い争いが起こり、デイジーがギャツビーの車を運転して帰るが、途中でマートル(トムの愛人)を轢いてしまう。反対にデイジーはギャツビーの車に(何よりギャツビーの思いに)上手く乗ることが出来ず、結果的に事故を起こす。二人の決定的な乖離がここで生まれる。
・なぜこの話は「僕」から見たという形式なのか。
→僕は彼らと関りを持つが、どこか一歩引いてる感もある。
最後にトムと会った時も、その真実は言わない。
※このニックの距離感が、まさに初期の村上春樹作品に見られるようなデタッチメントを感じさせる。
・春樹がこれほどまで推す理由は分からないが(とても面白いのは前提として)、のちの春樹っぽさ(喪失を抱えた男の話)はこの影響が大きのだろうと。
④「エピグラフ」について。
『グレート・ギャツビー』にはこのようなエピグラフがある。
もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい。
もし高く跳べるのであれば、彼女のために跳べばいい。
「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く跳ぶ人、あなたを私のものにしなくては!」
と彼女が叫んでくれるまで。
――トーマス・パーク・ダンヴィリエ
最初エピグラフを見た時、文章の意味は理解出来るが、それが作品の何を示しているのかはもちろん全く分からなかった。読み終わったあと、ふとパラパラと最初からページをめくっているときに再度エピグラフが目に入った。その時このエピグラフが示している意味が分かり、胸にじーんと来たのだった。
読み終わった人が見れば、これはギャツビーを示していることがすぐ分かるだろう。恵まれない出自のギャツビーは、自分とは階級が生まれながらにして違うデイジーに恋をし、それをずっと抱えたまま、その差を埋めるべく生きてきた。その方法はイリーガルではあるが、彼の半生のすべてはデイジーのためにあったと言っても過言ではない。彼女がいつか叫んでくれることだけを信じて。
だがギャツビーがどれだけ黄金の帽子をかぶろうとも、どれだけ高く跳ぼうとも、デイジーが「あなたを私のものにしなくては!」と叫ぶことなく、物語は悲劇的な結末を迎えてしまう。それを知ったうえでこのエピグラフを見ると、「ギャツビー、君って人は……」と讃えたくなる半面、「君の人生とはいったい……」とある種の愚かさも感じてしまい、胸がじーんとしたのだった。
そしてこれは今調べたことなのだが、この「トーマス・パーク・ダンヴィリエ」なる人物は、フィッツジェラルドのデビュー作『楽園のこちら側』に登場する人物(つまりは架空の人物)で、このエピグラフ自体がフィッツジェラルドの創作なのだということが分かった。なるほど、だからここまでギャツビーを的確に言い表せているのだなと、合点がいく。
余談だが、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では主人公の「僕」が文章について、そのほとんどを学んだ作家として「デレク・ハートフィールド」という人物と、彼の文章の一節が挙げられている。だがこの人物は実在せず、春樹のでっち上げである。架空の作家の文章を、あたかも実在するようにさらりと引用しているという部分で、この創られたエピグラフが少しはインスピレーションを与えているのかもしれないなと思ったりした。
⑤読書会メモ。
ここでは読書会中に同席した参加者の意見でメモしていたことをざっとまとめておく。
・ディカプリオの映画の予告編のイメージ。
・ヒューマン?恋愛?→恋愛
・不純だけとピュア
・デイジーは一途じゃない?
・ラストの前向きな文章
・複雑な小説
・破滅、純愛、いろんな側面
・別の邦訳は入ってこなかった
・デイジーの美しさ、映像が浮かぶ
・締めの文章として美しい
・別の訳だと分からん
・春樹訳で良さが分かった
・恋愛体験とも重なる
・お茶会の時のギャツビーが笑える
・オールド・スポート
・陽キャのドンチャンのイメージ
・中盤から物語が膨らむ
・ギャツビーのスケジュール表
・重層的。美文。
・物語メインだけではない、人物も。
・別の訳だと分かりづらい
・過去にとらわれた男
・p177末~178。幻想を引き寄せる力
参加者で特に多く聞かれた意見は、先述した通り、春樹以外の翻訳を読んでよく分からなかったというものと、文章が美しく、特に最後の文章が印象的で、悲劇的な物語ではあるが、ポジティブな読後感を与えてくれるというものだった。不可逆的な時間の流れを生きる我々は、前へ前へと進み続けるしかないのだ。時に「過去」が持つ引力が強くなろうとも。
⑥「グレート」ということ。
正直なところ、『グレート・ギャツビー』を読み終えても、ギャツビーのどこが「グレート」なのか、私にはよく分からなかった。
日本語訳された別のギャツビーでは、「華麗なる」や「偉大な」と訳されていたりする。
ギャツビーは確かに華麗なる男だったかもしれない。偉大な男だったかもしれない。だがそれを屈託なく言っているとも思えない。どこか皮肉めいたニュアンスも含まれたうえでギャツビーを「グレート」と言っているように思える。
そしてそれは「華麗なる」や「偉大な」にはない「Great」だけが持つニュアンスも多分にあるのだろう。春樹がギャツビーの口癖である「オールド・スポート」をあえて日本語に当てはめて訳さなかったように。
『グレート・ギャツビー』という題名は、もちろん作者であるフィッツジェラルドが付けたものではあるが、この「グレート(Great)」が持つアイロニカルなニュアンスは、作者本人から提示されているのか、それとも作中でギャツビーを最も近くで見続けたニックの視点から提示されているのか。
これがもし作者本人から提示されていた場合、作品そのものがアイロニカルな物語である印象を受ける。
だがこれがニックの視点から提示されていた場合、ニックとギャツビーの「オールド・スポート」な関係性から彼を「グレート」と呼んでいるのであれば、幾分アイロニカルさが混じったうえでの称賛すべき「グレート」とも捉えることが出来そうだ。
⑦映画の話。
小説を読み終えたあと、映像作品も気になったので、Amazonプライムビデオで配信されているレオナルド・ディカプリオが主演を務めた「華麗なるギャツビー」(2013年、監督:バズ・ラーマン)を観た。
映画では語り手であるニックが何やら精神的な病を抱えていて、それの治療の一環として何か物を書くことを精神科医に勧められる。そこで書かれることがつまりニックとギャツビーについての物語であり、回想録のような体裁で映画は進んでいく。
原作にあったニックとジョーダンの色恋はカットされてはいるもののほとんど原作通りで、特にギャツビーとデイジーの関係にスポットを当てている。文章だけでは捉えきれなかったものが、映像として立体的に捉え直すことが出来た。
特にディカプリオがギャツビーを体現しすぎている。作り上げられたギャツビーの胡散臭さを感じさせながらも、純粋で素直な男であるという二面性を表現している。
ギャツビーとデイジーが再会するお茶会の場面で、女性と会うというだけなのにあのレオナルド・ディカプリオが取り乱しているさまはまさにコメディでしかなく、その後二人の仲が縮まってデイジーとの時間を心から楽しんでいるディカプリオ・ギャツビーを見ていると、やがてやって来る結末を知っている者として胸が痛くなった。
⑥で書いた「グレート」がどちらから提示されたのか、という部分でこの映画ではある種の答えを出している。
ギャツビーとの回想録を書き終えたニックが、その原稿を箱にしまおうとする。原稿の表紙にはタイプライターで打ち込まれた「Gatsby」の文字がある。その表紙を見たニックは「Gatby」と印字された上に手書きで「The Great」と書き足して映画は終わる。
⑧おわりに。
今回は彩ふ読書会の課題本となった『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)を読んで思ったことを取り留めもなく書き連ねてみた。感想ノートと読書会メモ以外は、ここで書きながら思ったこと、考えたことなので、あまりまとまってはいないかもしれないが、「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」思って頂ければ幸いだ。
