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【コラム】止められない市場をどう統治するか:②規制では止められない金融市場

要旨:
前稿で示した「監督の本質は壊れ方の管理」という立場に対して、①リスク評価の不完全性、②資本規制による行動の同質化、③救済判断の恣意性、④監督シグナルの不安増幅という4つの主な反論がある。本稿ではこれらを一つずつ検討し、いずれも金融市場の創造性と非対称性を改めて浮き彫りにするものであることを確認する。結論として、規制で市場を完全に止めることは不可能であり、予測ではなく自己認識と説明責任を軸にした枠組みこそが、現実的な監督の在り方だと論じる。


前稿では、ティモシー・ガイトナーの回顧録を手がかりに、金融市場におけるプレイヤーと監督機関のあいだには深い非対称性があり、監督の役割は市場を統制することではなく「壊れ方を管理すること」に近いのではないかと論じた。そのうえで、金融機関に課すべき責任は「危険な行為の禁止」ではなく「何があっても自分で処理できるようにしておくこと」であり、ストレステスト的発想は現実的である、という立場を示した。

もっとも、この立場には当然ながら反論がある。とりわけ重要なのは、①リスク評価が不完全ならストレステストは無意味ではないか、②資本規制は金融機関の行動を同質化させるのではないか、③救済判断は結局恣意的ではないか、④監督の強いシグナルは市場不安を増幅するのではないか、という四点である。本稿ではこれらを順に検討する。


1 リスク評価が不完全なら、ストレステストに意味はないのか

第一の反論はもっとも直感的である。ストレステストは想定されたリスクに基づく以上、危機が想定外から来るのであれば無力ではないか、という疑問である。実際、過去の金融危機はしばしば、既存のモデルや前提が崩れることで顕在化してきた。

この指摘は正しい。しかし、それはストレステストの役割を「予測」に置いた場合の話である。重要なのは、ストレステストを未来予測の装置としてではなく、自己認識の申告装置として理解することだ。金融機関は、自らどのようなリスクを想定しているのか、そのリスクに対してどれだけの資本が必要と考えているのかを明示する。この「前提の可視化」こそが本質である。

そして危機後には、その前提と現実のズレが問われる。「何が想定と違っていたのか」「なぜその想定で十分だと判断したのか」という説明責任が生じる。ここで重要なのは、監督側がすべてを見抜くことではなく、各金融機関の自己認識と実際の行動の齟齬を検証できることである。

さらにこの枠組みは、救済判断の基準ともなりうる。事前の想定から大きく逸脱したリスクを取っていた場合、その不足は単なる不運ではなく、自己防衛義務の不履行と評価できる。逆に、想定の範囲内でのショックであれば、システム安定の観点から救済の合理性は高まる。つまり、リスク評価の不完全性は、この仕組みの限界ではあっても、その意義を否定するものではない。


2 資本規制は行動を同質化させるのではないか

第二の反論は、資本規制が金融機関の行動を似た方向に収れんさせ、市場全体の脆弱性を高めるのではないか、というものである。特定のリスクが強く警戒されれば、各機関は一斉にその領域から撤退し、別の領域に集中する可能性がある。

この懸念も理解できるが、金融機関は本来的に、他と異なるポジションを取ることで収益を得ようとする。したがって、完全な同質化が起きるわけではない。むしろ現実に起きるのは、監督が強く見ている領域から資金が引き、その外側で新たな収益機会が探索されるという構図である。

問題は「同質化」そのものより、監督の視野と市場の動きのズレにある。つまり、この反論はストレステストの欠陥というより、金融市場の創造性が常に規制の外側を生み出すという非対称性を示している。

また、一定の行動収れんが起きたとしても、それが過度に投機的な領域からの撤退であるならば、それはむしろ監督の意図に沿った結果でもある。もちろん、新たな歪みが別の場所に生じる可能性はあるが、それはストレステストの否定理由ではなく、監督が想定を更新し続ける必要性を示すにとどまる。


3 個別判断による救済は恣意的ではないか

第三の反論は、危機時の救済判断が結局は恣意的になるのではないか、というものである。実際、「なぜこの企業は救われ、この企業は見捨てられたのか」という問いは、どの危機でも必ず生じる。

この懸念は避けられないが、重要なのは裁量の有無ではなく、その基準である。単に「大きすぎるから救う」という説明では納得感は得られない。これに対して、事前の想定と事後の結果の関係を見るという枠組みは、裁量を具体的な内容に結びつける。

すなわち、どのようなリスクを想定していたのか、その想定に照らしてどのような行動を取ったのか、なぜ不足が生じたのかを問うことで、判断は印象論から離れる。特に、「想定していたのに備えていなかった」のか、「そもそも想定していなかった」のかという違いは、責任評価において決定的である。

もちろん、この基準でも境界をめぐる争いは残る。しかし、論点が政治的影響力ではなくリスク管理の中身に移るだけでも、裁量は大きく制約される。重要なのは、裁量を排除することではなく、どの論理に結びついた裁量なのかを明確にすることである。


4 監督のシグナルは市場不安を増幅するのではないか

第四の反論は、監督機関の強いシグナルが市場の不安を誘発するのではないか、というものである。確かに、資本基準の引き上げやストレステストの強化は、市場に「何か危険があるのではないか」という印象を与えうる。

しかしここでは、金融政策と監督政策の違いを区別する必要がある。利上げ・利下げは実体経済全体に作用する広範なシグナルであるのに対し、ストレステストは金融市場内部に対する注意喚起である。

監督機関の役割は、危険を隠すことではなく、危険に見合った備えを求めることにある。もし投機的な商品や過大なリスクが積み上がっているのであれば、それに対して資本の積み増しを求めるのは当然である。シグナルが市場に影響を与えるのは事実だが、それは危険が存在することの反映でもある。

したがって問題は、シグナルを出すこと自体ではなく、そのタイミングや強度の調整にある。監督が曖昧な態度を取り続けることの方が、結果としてリスクの蓄積を見逃す可能性が高い。


5 規制では止められない市場と監督の現実

以上の反論はいずれも妥当な側面を持つが、同時に、金融市場が事前のルールだけでは制御できないことを改めて示している。

リスク評価は不完全である。だからこそ、予測ではなく自己認識と説明責任が重要になる。規制は市場行動を偏らせうる。だからこそ、行為を細かく縛るより、耐えられるかを問う方が現実的になる。裁量は避けられない。だからこそ、それを事前の想定と資本に結びつける必要がある。監督のシグナルは市場に影響する。だからこそ、危険に応じた備えを求めることが本来業務となる。

結局のところ、金融監督は市場を理想通りに振る舞わせる仕事ではない。市場は創造的に動き、規制の外側へと逃れ続ける。その前提に立つなら、監督にできるのは、行為を完全に縛ることではなく、壊れたときの責任をどう配分し、どこで損失を吸収させるかを設計することである。

ガイトナーの発想が示すのは、この現実である。規制の強化だけでは市場は止められない。だからこそ、金融機関に自己防衛能力を持たせ、その不足を問うという形で責任を組み込む必要がある。

金融危機はこれからも繰り返されるだろう。問題はそれを完全に防げるかではなく、防げないことを前提に、どのように壊れ方を管理するかである。その意味で、ガイトナー的リアリズムは、いまなお有力な出発点であり続けている。

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