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【読後雑記】資本主義が嫌いな人のための経済学 ― ②左派が陥る終末への誘惑

要旨:
前回の記事では、ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』を手がかりとして、右派はピースを集め、左派は完成図を描くという整理を試みた。右派は市場競争やインセンティブといった個別の制度や理論を重視し、左派は平等や公正といった社会のあるべき姿を重視する。しかし、その違いは単なる政策論争の違いではなく、社会をどのように理解しようとしているかという認識の違いでもある。

本稿ではその続編として、左派に特徴的な思考様式をもう少し掘り下げてみたい。ジョセフ・ヒースは『資本主義が嫌いな人のための経済学』第9章において、「資本主義は消えゆく運命にある」という考え方を批判している。この議論は、斎藤幸平『人新世の黙示録』を読み解く上でも興味深い視点を与えてくれる。

資本主義に問題が存在することと、資本主義が終焉へ向かっていることは同じなのだろうか。そして私たちはなぜ、社会の不調を見ると終末の物語を語りたくなるのだろうか。本稿ではヒースとクルーグマンの議論を手がかりに、この問いについて考えてみたい。


1.資本主義は消えゆく運命なのか

前回の記事では、左派の特徴を「完成図を見ること」にあると整理した。もちろん現実の左派思想は多様であり、一括りに語ることはできない。しかし少なくとも左派思想の一部には、「社会はこうあるべきだ」という理想像を出発点として現実を理解しようとする傾向が存在する。そしてその強みは、現実社会の問題点を発見する能力にある。

格差の拡大、環境破壊、労働搾取、社会的排除。市場や経済成長の恩恵だけを見ていると、こうした問題は見落とされやすい。しかし左派は、それらを可視化し、社会が本来向かうべき方向を提示しようとする。その意味で左派は、完成図を描くことに長けているのである。

斎藤幸平の『人新世の黙示録』も、その意味では非常に左派的な書物であるだろう。
本書が描く世界は決して楽観的なものではない。気候変動は深刻化し、資源制約は強まり、格差は拡大し、民主主義は機能不全に陥る。現在の資本主義は持続不可能であり、このまま進めば社会は破局へ向かう。そのため私たちは資本主義を超えた新しい社会のあり方を構想しなければならない。大まかに言えば、本書の議論はそのような方向へ展開されていく。

ここで重要なのは、本書が指摘する問題の多くは実在するということである。
気候変動は現実の問題である。格差も存在する。民主主義の機能不全についても、多くの人々が不安を抱いている。だからこそ本書は説得力を持つ。もし問題そのものが存在しないのであれば、議論は最初から成立しないだろう。

しかしヒースの議論を踏まえるならば、ここで一つの疑問が生じる。

資本主義に問題が存在することと、資本主義が消えゆく運命にあることは、本当に同じなのだろうか。

これは似ているようでいて、実はまったく異なる問いである。

人間は病気になる。社会も不調を起こす。制度も機能不全に陥る。しかし、病気になることと死ぬ運命にあることは同じではない。病気が発見されれば治療が行われるし、治療法が見つかれば回復することもある。同じように、社会に問題が存在することは、その社会が修正を必要としていることを意味するかもしれないが、必ずしもその社会が終焉へ向かっていることを意味しない。

ところが歴史を大きな物語として理解しようとすると、この区別はしばしば曖昧になる。

マルクス主義の伝統には、資本主義は内部矛盾によって崩壊し、その先に新しい社会が到来するという歴史観が存在する。資本主義は発展する。しかし、その発展はやがて自らの矛盾を拡大し、最終的には自壊へ至る。そして次の社会システムが誕生する。

もちろん斎藤幸平の議論は古典的マルクス主義そのものではない。しかし資本主義の危機を次の社会への移行の兆候として読む姿勢には、少なからずその影響を見ることができる。現在の不調は単なる不調ではない。それは資本主義という時代の終わりを告げるサインである。このような見方が、しばしば議論の背後に現れるのである。

しかし、その解釈は本当に妥当なのだろうか。


2.なぜ人は終末を求めるのか

資本主義の不調を資本主義の終焉として解釈する傾向は、斎藤幸平に限ったものではない。むしろそれは、近代以降の左派思想の中で繰り返し現れてきた発想であり、さらに言えば人間そのものが持つ認知的な傾向とも関係しているように思われる。

この点を考える上で興味深いのが、ポール・クルーグマンの指摘である。クルーグマンは経済問題について論じる際、人々がしばしば「もっと深遠な原因が存在するはずだ」と考えたがる傾向を批判している。景気後退や失業率の上昇、住宅価格の高騰や賃金停滞といった問題に直面すると、人々はそれらを個別の制度や政策の失敗として理解することに満足できなくなる。金融政策の誤りや税制の歪み、あるいは人口構造の変化といった説明は、確かに現実的ではあるが魅力に欠ける。そのため私たちは、より大きな物語を求めるようになるのである。

例えば景気後退が起きたとき、それを金融システムの問題として説明することはできる。しかし「資本主義そのものが限界に達している」と説明した方が、問題はより壮大な意味を持つように見える。住宅価格の高騰も、供給不足や金融緩和の結果として説明することは可能である。しかし「市場経済そのものが人間を幸福にできなくなった」と説明した方が、そこには歴史的なドラマが生まれる。つまり私たちは、問題を説明したいだけではなく、問題に意味を与えたいのである。

ここで終末論は極めて魅力的な物語となる。

社会が不調をきたしているのであれば、それは単なる不調ではなく、ある時代の終わりを告げる兆候である。格差の拡大は資本主義の限界を示している。気候変動は成長社会の行き詰まりを示している。民主主義の機能不全は近代政治そのものの崩壊を示している。このように考えれば、個々の問題はすべて一つの大きな歴史物語へ統合される。

その意味で終末論とは、単なる悲観論ではない。それはむしろ複雑な現実を理解可能な物語へと変換する装置である。だからこそ人は惹かれるのであり、だからこそ左派思想の中では繰り返し終末のイメージが現れるのだろう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、魅力的な物語であることと正しい分析であることは同じではないということである。

『人新世の黙示録』が提示している問題群は現実のものである。しかし、その問題群を一つの終末論的物語へまとめ上げた瞬間に、私たちは「問題が存在する」という事実から、「だから資本主義は終わる」という結論へ飛躍してしまう危険を抱え込むことになる。

「問題がある」ことと「運命である」こと

3.ベビーシッター協同組合はなぜ滅びなかったのか

ヒースが紹介するベビーシッター協同組合の事例は、この飛躍を考える上で非常に示唆的である。

この協同組合では、親たちが互いに子どもを預かり合う仕組みが作られていた。利用者は現金の代わりにクーポンを用いる。子どもを預かればクーポンを受け取り、自分が預ける際にはクーポンを支払う。規模こそ小さいものの、そこには一種の経済システムが存在していた。

ところが、このコミュニティは深刻な不況に陥る。参加者たちはクーポンを使わなくなったのである。将来への不安からクーポンを貯め込み始めた結果、ベビーシッターを依頼する人が減少する。依頼が減ればクーポンを獲得する機会も減少するため、人々はさらにクーポンを使わなくなる。こうして取引は停滞し、コミュニティ全体が機能不全へと陥っていった。

もし私たちが終末論的な思考に従うなら、この状況は制度そのものの限界を示しているように見えるだろう。協同組合という仕組みは持続不可能だった。システムは内部矛盾によって崩壊へ向かっていた。そのように解釈することは十分に可能である。

しかし実際に起きたことはまったく異なっていた。
原因はクーポン不足だったのである。

人々が将来に備えてクーポンを貯め込んだ結果、流通量が不足し、取引が停滞していた。そこで運営者はクーポンを増発した。すると参加者は再びクーポンを使い始め、取引は活発化し、不況は解消された。

この事例が興味深いのは、不調そのものは実在していたという点である。コミュニティは確かに機能不全を起こしていた。取引は停滞し、人々は不満を抱いていた。しかし、その事実から制度の終焉は導かれなかった。むしろ実際に起きたのは、問題の原因を特定し、それを修正するという極めて現実的な対応だったのである。

もちろん現代資本主義は、この協同組合より遥かに複雑である。気候変動も格差も、クーポンを増やせば解決するような問題ではない。しかし重要なのはそこではない。この事例が示しているのは、システムの不調とシステムの終焉は別の問題だということである。不調が存在することは確かに問題である。しかし、そのことから直ちに崩壊や終末が導かれるわけではない。


4.不調と終焉を混同する誤り

ここで改めて『人新世の黙示録』へ戻ってみたい。

本書に対して抱くだろう違和感は、問題の指摘そのものではない。気候変動も格差も民主主義の機能不全も、確かに現代社会が抱える深刻な課題である。それらを軽視することはできないし、むしろ多くの議論はそれらの深刻さを十分に認識できていないようにも思える。

しかし問題は、その先にある。
本書ではしばしば、それらの問題が資本主義の限界を示す証拠として扱われる。そして資本主義の限界は、やがて資本主義の終焉へと接続される。しかしヒースの視点から見れば、ここには大きな飛躍が存在する。

なぜなら、システムに問題があることと、システムが終焉へ向かっていることは同じではないからである。

実際、歴史を振り返れば資本主義は何度も危機を経験してきた。大恐慌は市場経済の終わりを予言させたし、戦後のスタグフレーションも資本主義の限界として語られた。金融危機においても、資本主義はついに崩壊するという論調は珍しくなかった。

しかし現実に資本主義は終わらなかった。

もちろん、だからといって問題が存在しなかったわけでもない。問題は現実に存在したし、多くの人々が苦しんだ。しかしそのたびに制度は修正され、ルールは変更され、新たな仕組みが導入された。完全な解決ではなかったかもしれないが、少なくとも終末論が予言したような歴史の断絶は起きなかった。

ここで重要なのは、資本主義が不滅であると主張したいわけではないということである。資本主義もいつか終わるかもしれない。別の社会システムへ移行する可能性もある。しかし、そのことと現在の問題を根拠に終焉を予言することは別問題である。前者は可能性の話であり、後者は歴史法則の話だからだ。

ヒースが批判しているのは、まさにこの歴史法則への信仰なのである。

左派の誤謬

5.歴史は運命ではない

ベビーシッター協同組合の事例が示しているのは、問題の存在そのものではなく、問題の解釈の仕方である。コミュニティは確かに不況へ陥った。制度は機能不全を起こし、人々は不満を抱いていた。その意味で問題は現実だった。しかし、その事実から制度の終焉が導かれたわけではない。実際に起きたのは、問題を分析し、原因を特定し、修正を加えるという極めてありふれた営みだったのである。

ここで私たちは、問題が複雑であることと、解決策が複雑であることを区別する必要があるだろう。現代社会が抱える課題は確かに複雑である。気候変動も格差も人口減少も、一つの原因によって説明できるような単純な現象ではない。しかし、それは解決策まで複雑でなければならないことを意味しない。問題の原因を発見することは難しいかもしれないが、解決策そのものは意外なほど単純であることもある。

もちろん、それが見つかる保証はない。修正に失敗するかもしれないし、制度が本当に行き詰まる可能性もある。しかし逆に、誰も予想しなかった形で解決策が見つかる可能性も存在する。未来は開かれているのであり、その意味で歴史を運命として語ることには慎重であるべきだろう。

資本主義に問題があることは認められる。しかし、そのことから資本主義が消えゆく運命にあると結論することはできない。問題が存在することと、終焉が証明されることは同じではないからである。

おそらくヒースが伝えたかったのは、この単純な事実なのだろう。そしてそれは、終末論に惹かれやすい私たち自身への警告でもある。

前回の記事で私は、左派は完成図を見る傾向があるのではないかと述べた。平等な社会、公正な社会、持続可能な社会といった理想像を描く能力は、左派思想の大きな強みである。しかし、その完成図が魅力的であればあるほど、現実に生じている問題を「新しい社会への移行の兆候」として読み込みたくなる誘惑も強くなる。

格差は資本主義の終わりを示している。
気候変動は成長社会の限界を示している。
民主主義の機能不全は近代の崩壊を示している。

こうした解釈は魅力的である。しかし、それらは未来についての解釈であって、未来そのものではない。

歴史とは運命ではない。

それは失敗と修正の繰り返しであり、その帰結は事前には決して分からない。問題が存在することは確かである。しかし、その問題がどのような形で解決されるのか、あるいは解決されないのかは誰にも分からない。だからこそ私たちは、現在の不調を終末の証拠としてではなく、まずは解くべき問題として見るべきなのではないだろうか。

ヒースの議論が教えてくれるのは、まさにその慎重さなのである。

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