私の将棋人生 第一章
先日将棋ウォーズの10秒将棋で二段に昇段した。これまで全てのモードで初段だったのでけっこう嬉しい。ひとつの節目ということで、自分の将棋歴を振り返ってみようと思う。書いていると長くなったので、まずは第一章ということで記載する。
【将棋を知る】
そもそも私は羽生善治の「七冠フィーバー」の時期に生まれているため、テレビで見かけることも多く、幼少期から「日本の頭の良い人と言えば将棋の羽生さん」というイメージを持っていた。
最初に将棋を覚えたのはおそらく小学校低学年の頃。祖父の家に盤と駒、将棋本があり、祖父と遊んでみて駒の動きは覚えた。
将棋本もチラッと見て矢倉や美濃、穴熊という囲いがあることは認識したが、それ以上興味は持たずにいわゆる「駒の動かし方はわかる」というレベルに留まった。
その後は「遊びのひとつとして稀に将棋を指すことがある」という状態がしばらく続いた。
【将棋友達を得る】
高校時代にわりと将棋が好きなクラスメイトと仲良くなり、1日1局くらいの頻度で指していた。ただ、この時私は囲いも戦法もさほど理解しておらず、たしか「棒銀風」な指し方をしていたと思う。クラスメイトには浮き飛車に構えられ、私の飛車先突破は成功せずほとんど負けていたはずだが、私は遊びとして将棋を楽しんでいた。
【将棋にハマる】
本格的に将棋にハマるきっかけになったのは大学入学後のことだった。同級生に「矢倉と棒銀を何となく理解している」友人がおり、何度か指しても全く勝てなかった。そして時間の有り余った大学生だった私は「いっちょこいつに勝てるように将棋を勉強してみるか」と思い立ったのだ。
インターネットで「王様はしっかり囲った方がいい」「攻めている側は歩の交換をしていくだけでも少し有利になる」などの知識を仕入れて意気揚々と講義中に友人に挑み、教授に隠れてこっそり指した相矢倉の将棋で友人に初勝利を挙げた。この対局内容と勝利により、私は将棋の楽しさを何となく理解したのだと思う。
【四間飛車】
その後は「囲いや戦法をマスターしてもっと強くなりたい!」と思い、日曜にNHK杯を見たり、詰将棋を解いてみたりするようになった。
居飛車や振り飛車についても知識を仕入れ、「居飛車は定跡とか覚えることが多過ぎてめんどくさそうだな」という志の低い理由から藤井猛の「四間飛車を指しこなす本」を図書館で借りて読んで真似して指していた。ただ、「四間飛車もめちゃくちゃ覚えること多いじゃねぇか」というさらなる志の低さでげんなりしてしまったのも事実だ。
【攻める振り飛車へ】
しばらく勉強したものの四間飛車は渋い戦いになりやすく、わかりやすく攻めていける方が初心者には良いのではと思い、当時流行っていた角交換振り飛車や「組めたら振り飛車で最強」との誉れ高い石田流を採用するようになった。
この頃の対局はもっぱらオフラインの対人戦で、にわか仕込みの角交換振り飛車や石田流を武器にして大学の友人や入院している友人の同部屋にいたおじいちゃんなどを痛めつけ、自信を深めながらルンルン気分で指していた。
【将棋ウォーズデビュー】
このあたりで将棋ウォーズを知り、満を持して将棋ウォーズデビューをした。無料会員のため3分切れ負けや10秒将棋で1日3局消費するのはもったいなく、また実力不足により「そんな短い時間で指す手なんか見つけられねぇよ!」ということで10分切れ負けのみで対局していた。たしか最初は2級くらいまでは時間もかからずに昇級したように思う。そこから1級へも数ヶ月で昇級したはずだ。
もう10年近く前なのと、たいしたエピソードもなく将棋を指していたので詳しくは覚えていない。
【攻める振り飛車の廃業】
おそらく1級くらいの時期に私は角交換振り飛車と石田流を指すのをやめた。
理由は「角交換振り飛車だと自分の知らない筋に角を打ち込まれ、何もできずにアッサリ負けるパターンが存在すること」「石田流だと棒金などで飛車を圧迫され、何もできずにアッサリ負けるパターンが存在すること」だった。
私は元々の性格的に「何もできずにアッサリ負ける」ということが嫌いなのだ。「ボロ勝ちもするがボロ負けもする」よりも「勝っても負けても常に接戦に持ち込める」という方が負けた時にも納得できるし好きである。
【ノーマル三間飛車】
四間飛車もやらない角交換振り飛車もやらない石田流もやらない、となると残る振り飛車は向かい飛車とゴキゲン中飛車、ノーマル三間飛車あたりだが、向かい飛車は相手が飛車先を突いてこないとできないので却下。ゴキゲン中飛車は「大砲を真ん中に据えて明るく豪快に攻める」という姿勢が私の陰湿な性格に合わないので却下。ということでノーマル三間飛車、略して「ノマ三」を採用することになった。
ノマ三は四間飛車や石田流の経験も活きるし、棒銀などの急戦に強いのも嬉しいポイントだ。また、何より「可能であれば鮮やかな捌きとカウンターを狙い、難しければ粘り強くじっくり指す」という基本姿勢が私に合っていたのだと思う。私は「サッカーはカウンター」「卓球はカットマン」という受け身&粘りが大好きな性格なのだ。
余談だが、大学4年頃のこの時期たまに一緒に飲みに行っていた「野間さん」という友人がいて、心の中で「ノーマル三間飛車」と呼んでいた。
【中田功XP】
対居飛車穴熊に対してノマ三では分が悪いのは島朗も指摘しており、私は中田功XPで対抗していた。「指しこなせるのは中田功だけ」と言われる難しい戦法である。
私の体感としては指すにあたってかなりの精度で正解の手を連発する必要があり、間違った手を指すと即試合終了という特徴があると思う。「一歩でも足を踏み外せば死ぬ」対局中はさながらカイジの鉄骨渡りをしているような心境だった。
ただ、角の睨み+端攻めで細い攻めを繋いで勝つことができた時にはドーパミンがドバドバ出て、それはもうとんでもないエクスタシーを感じたものだ。
我ながらかなり頑張って勉強したが、当時の対居飛車穴熊戦の勝率は一番良い時期でも4割〜4割5分ほどだったと思う。
【10切れ二段に】
今から約8年前、就職1年目の冬だったと思うが、将棋ウォーズの10切れで二段に到達した。
「いや、前にも二段になったことあるんかい。そらそんなん(前にも二段になったことが)あるならねぇ、(言っといてくれないと)あかんよ、おーん」という声も聞こえてくるが、ちょっと待ってほしい。この時私は「実力で二段になった」とは思えていなかったのだ。
その理由は「相手の時間を切らして勝つ」ことを覚えてしまったためである。そもそも私は接戦を好み、おそらく実力のわりには粘り強いほうなので、当時も今も「局面は負けだが、詰まされるまでに手数のかかる逃げ方」をして時間で勝ってしまうことがしばしばある。
今となっては「切らして勝つのも将棋ウォーズ」と思っている(思ってしまっている)が、当時は「また卑怯な勝ち方をしてしまった」という思いがあったり、10切れ初段の達成率が80%を超えたあたりで「切らして勝つ」対局が続いての昇段だったため、あまり素直に喜べなかった。
また、シンプルに実力二段の壁があり、「二段の底辺が自分の才能の限界ではないか」という思いも強くなっていた。今となっては「勉強してそこを乗り越えればまた三段も目指せるさ」と考えられるが、当時は「これだけ頑張っても時間で勝つのが精一杯なのか」と絶望感を抱いていた。そんなこんなで当時は「将棋を指すのがしんどい」という状況になってしまっていた。
たしか二段に昇段した後、二段や三段に数局ボコられて将棋を指すことからはしばらく離れることを決めた。
【読む将へ】
その後しばらく将棋を指すことはなかったが、通勤電車の中で将棋ペンクラブログの記事を読み漁っていた。元々本を読むのも好きだったし、それまで何となくしか知らなかった棋士達の個性を知ることができて非常に面白かった。
この「将棋に関する記事、本を読み漁る」という趣味は現在も続いている。棋譜解説の部分は斜め読みなので棋力の向上には何も役立っていないが、「将棋を楽しむ」上では非常に価値のあることだと思っている。
この時期は約6年ほど続いただろうか。将棋ウォーズの対局は時折思い出して指す程度で、月に2〜3局指せば多い方だったと思う。
昨年1月のイタリア旅行の際にヴェネツィアのホテルで1局だけ指して勝利したため、私は「生涯通算海外対局で全勝無敗」という羽生善治ですら成し得ていない大記録を持っている。羽生にまつわる書籍で「いまだ成らず」があるが、いずれ「新札幌退屈日記なら成る」という書籍が発売されるかもしれない。
【指す将への復帰】
藤井聡太が竜王名人となり、羽生善治が将棋連盟の会長に就任してからは「今免状を申請すれば会長羽生善治、竜王名人藤井聡太の直筆署名入りの免状がもらえる」ということを意識していた。ただ、二段になったアカウントはとっくに消していたため「今の初段で免状をもらってもなぁ」という思いがあった。初段でいた時期が長く、底辺二段で「わからされた」私はコンプレックスを持っていたのだと思う。
そこで昨年2月になぜか機が熟したようで「羽生善治会長、藤井聡太竜王名人のうちに自信を持てる10切れ二段になって免状を申請しよう」と決意した。
と、ここまでが「私の将棋人生 第一章」である。第二章をお楽しみに。
