「事故物件、浄化いたします。」第10話
☆10☆
漆黒の闇の中を、一匹の熊が走っていた。成獣に近い子どもの熊だろうか、大きくていかめしいという風情ではなく、ただ、楽しそうに走っている。足跡がつくべき場所に金色の砂が輝き、光が舞う。しかしそれは、すぐに闇の中に消えていった。まっすぐに歩いているように見えるが、そこに道はない。地面もない。空中なのか、水中なのかも定かでない。ただ熊の背中の毛が、闇の中でふんわりと揺れていた。
どれほど進んだのか見当もつかないが、周囲が少しずつ明るくなってきた。漆黒の闇は次第に、濃紺、そして群青へと変化してくる。
ひときわ明るい場所があった。そこには白い着物を着た男性が一人、白い大理石でできたテーブルをの向こう側に座っていた。男性の髪は銀色に輝き、腰に届くほど長く、背中で一つに束ねている。テーブルの上にはラピスラズリでできた碁盤が置かれていて、碁盤の線は金色に輝いていた。
熊が男性の向かい側にある椅子に上り、碁盤の上に咥えていた水晶玉を置いた。
「おやおや、今日は珍しい姿で来たね」
男性が熊に声をかけた。
「大学で学んだことが忘れられなくて」
子熊はそう言うと、碁盤に置いた前足の爪が、徐々に人の手の形に変わっていった。その手は、頭から熊の毛皮をかぶった真理亜のものだった。
「北海道に暮らしていたアイヌ民族は、熊の子どもを捕らえると、自分たちの集落で育てたそうです。まるでわが子のように可愛がって育てて、熊が成長すると、神様からの贈り物として食べたとか。それで、その時の熊の気持ちを想像していたら、今日はこんな姿になっていました」
「ふふ、人ではなく熊の気持ちか。相変わらず、意外なことに興味があるね。今の暮らしは楽しいかい?」
「はい、おかげさまで」
真理亜はにっこり笑った。
「今日は、母親は一緒に来ないのかい?」
「はい。私の独り立ちを認めるには、あなた様のところへ一人で行って帰ることが必要だと言っていました」
「その通りだね。ではまず石を見てみようか」
男は碁盤の上の水晶玉を手に取ると、目の高さまで持ち上げて眺めた。
「今回は三人の魂が見えるね。お疲れさま」
「あとは、よろしくお願いいたします」
男は頷くと、水晶を両手で包み込んだ。すると、掌の中で石が白く発光し始め、指と指の隙間から強い光が矢のように放たれた。光にくらんだ目が落ち着くまで一呼吸おき、そっと男が掌をひらくと、先ほど同じように水晶があるが、なぜか透明感が増してたように見える。
「はい、お返ししよう」
「ありがとうございました」
真理亜は石を受け取り、お辞儀をした。
「では、対局をお願いしようか」
「はい」
二人はラピスラズリの碁盤に石を並べ始めた。星と呼ばれる場所に男性が白い石を置くと、その石の下が白く光りだした。真理亜が黒い石を置くと、石の下が闇にのみ込まれるように暗くなった。
「では、どうぞ」
男に促され、真理亜が黒い石をカチリと置く。
「ついこの前まで、いつでも碁が打てたのに。近頃は仲間が少なくなって寂しくて」
男が白い石をパチンと置く。
「まだ他のお仲間は戻りませんか?」
真理亜が黒い石を置く。
「まだだよ。代わりに君がずっといてくれる?」
白石が置かれる。
「ご冗談を」
黒石が置かれる。
「君の弟が早く戻ってきてくれるかな」
白い石がパチン。
「それは、もうしばらくはご容赦を。地球での時間をあと百年ほどはいただきたいです」
黒い石がカチリ。黒石の陣地がまた一つ分、暗くなる。
「ふふふ、冗談だよ」
白石がパチン。
その時、真理亜の背後で、夜空に小さな星が瞬くような小さな光が生まれた。そして徐々に輝きが増してゆく。
「ああ、どうやら聞こえてしまったようだ。彼が呼びに来た」
「ほかのお仲間が早く戻れるといいですね」
黒い石がカチリ。
「そうだね、仲間の戻りを、首を長くして待つよ。君や百合亜が地上で眠れば来てくれるのだもの、それを楽しみにしているよ」
白い石をパチン。
真理亜の背後の光がますます強くなり、真理亜の影が碁盤に落ちる。
「どうやら起こされたようですね」
「まだ少ししか指していないのにねぇ」
「続きは、また次回に……」
黒い石を持つ真理亜の手が、金色の砂の塊になったかと思うと、風に吹かれるようさらさらと形をなくして消えていった。
「心配性な弟くんだ。もう少しくらい、落ち着いてゲームをさせてもらいたいものだよ」
男は口を少し尖らせて、白石と黒石を一人で並べ始めた。
