「事故物件、浄化いたします。」第2話
☆2☆
うっかり五分ほど、眼下の景色を見るともなく眺めていただろうか。
(いかん、しっかりしろ、俺!)
裕司は自分に喝を入れた。
次はエレベーターの扉を拭くか。そう思ってエレベーター前に行くと、一人の女性が床に這いつくばっていた。頭の下には、吐しゃ物が広がっている。
「だ、大丈夫ですか?!」
思わず駆け寄り声をかける裕司。
「はぁっ…はぁっ…す、すみません…ちょっと、苦しくて」
女性は息も絶え絶えな様子で応える。
白い長袖のシャツに、ジーンズを履いて、長い髪をおろしている。
「ここ、汚してしまって、ごめんなさい」
女性は肩で息をしながら謝罪する。
「そんなことは気にしなくていいです。どうされましたか?救急車呼びましょうか?」
「いえ、少し、横になれば……良くなると、思いますから」
あまり期待が持てないようすで女性が言う。
「では、家までお送りしましょう。この階の住人のかたですよね?何号室ですか?」
声の感じからすると、まだ若そうな女性だ。もしかしたら、こんな状態で声をかけられるのは嫌だったかもしれないが、一人で歩けるかどうかも怪しい。声をかけた手前、後に引けなくなった裕司は、女性に向かって手を差し伸べた。
「ありがとう、ございます」
そう言って、裕司の手を取る女性。
裕司が起き上がらせると、女性は蒼白の顔色をして、吐しゃ物が少しついた口元にまとわりついた長い髪をそっと払いのけた。
裕司は思わず目を見開いた。まさか、具合悪そうに床に這っていた女性が、顔色こそすぐれないものの、その考慮を忘れるほど美しい人だとは思わなかったからだ。
嘔吐するときに涙がでたのか、長いまつげが光っている。視線を落としているのに瞳が潤んで光を反射し、まるで星が瞬くよう。これは正面から見なくてよかった、と思うほどの威力があった。人の鼻筋ってこんなになめらかだったっけ……とその横顔を見つめそうになって、裕司は我に返る。
(いかん!この人をまず部屋に送ることに集中しよう!)
「部屋まで歩けますか?」
「はい、歩けます。突き当りの部屋です」
1109号室。
「ここは……」
「昨日、引っ越ししてきた、ばかりです。ご迷惑を、おかけしました。あとで、汚したところ、片付け……」
また込み上げるものがありそうな女性。
「そんなことは、気にしないでください。自分、管理員です。あとで綺麗にしておきますから。大丈夫ですよ」
「いえ、でも……」
「廊下は共用部と言って、このマンションでは管理員が清掃する場所になっていますから。気にしないでくださいね。それより、本当に大丈夫ですか?どなたかご在宅ですか?」
「父が、います。インターホン、押したら、来てくれるかと……」
「じゃあ、押しますね」
裕司はインターホンを鳴らして、出てきた父親に事情を説明した。父親が女性を支えながら家に入るのを見届けて、玄関扉を閉めた。
さて、エレベーター前には仕事が残っている。先ほどまで持っていた清掃道具が入ったバケツには、アルコールスプレーがあったはずだ。「ほかの住人が通る前にさっと片付けてしまおう。今はペーパータオルを乗せて、その上からアルコールスプレーをかけておけばいいかな。管理室のマニュアルをちゃんと確認しないと」などと裕司は独り言を言いながら、不慣れな仕事に励んだ。
