見出し画像

「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(1)

 1「明治謹製」になる大日本帝国式の『天皇・天皇制』は創作性が豊かであったという史実は,158年が経った現在においてどのように意味づけられるかなどの諸問題


 この記述の論題を【「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性】として設問するのは,明治初期においてまず「古代史的な日本の19世紀的復旧・創作の近代史」が記録された事実史を,それもとくに「天皇を中心とした国家体制を神格化させていく事情」を,主な関心事に据えて議論してみたいからである。

 a) 明治維新を契機にあらためて創られた「近代日本の国家体制」は,過去の遺物であった天皇・天皇制を,国民支配のための道具立てとして新装開店させた。いわゆる「古式ゆかしき・・・」というあれであった。 

 昔,住井すゑ(1902-1997年)という女性作家がいた。この人は,奈良県磯城郡平野村満田(現:田原本町満田)で大和木綿の製造業と農業を営む富裕な家庭に生まれ, 幼いころ,被差別部落の草履商からたびたび実家に訪問販売を受ける様子を介して,部落差別問題と出会ったという。

 彼女はとくに全7巻になる『橋のない河』という本を,800万部のベストセラーとしてもち,すべての命が大切であり平等なものであることを,生涯にわたり訴えつづけた作家であった。幼いころから被差別部落に暮らす人々の実情を目にしていたことが,この本『橋のない川』を書く原点になったという。

生死年:1902-1997年

 住井すゑ『橋のない川』は「ジャンル:長編小説」に分類される。本書は1973年から公刊され,一時期中断があったものの,90歳になった1992年全7部を完成した。当初は部落問題研究所機関誌『部落』に連載したものを,第1部を1961年に新潮社から発刊し,第7部の発刊は1993年になっていた。

 b) ところで住井すゑが,天皇制は古いものではなく明治以来のものと断言したのには,それなりに理由があった。

 なにせ,それまでの天皇家の存在様式は,古すぎて使いものにならなかったゆえ,これを近代日本の政治舞台に再生させて利用するには,神話的物語を巧妙にというか,奇妙に応用しつつ上手に歪曲・造形させ,この国の由来を神秘的に幽玄化させたうえで,ようやく,疑似近代風の政治構造を建造していくことができていった。

 江戸の日本が幕末期から鎖国体制を徐々に解き,欧米先進国に対抗していくさい,近代国家として位負けしない自覚をもつためであったとはいえ,ずいぶん無理を重ねて「神国であるべき(はずの)日本の神学的想念」を構築しようとしてきた。

 c) いまさらのように,「天皇・天皇制のエセ古代史的な典拠の虚構性」があらゆる意味において議論されねばならない「この国の摩訶不思議な独断的・独善的な皇室神話物語」は,これを神武陵の存在にまで追究するまでもなく,この付近の天皇史にまつわる話題は,これを一気に敷衍して断定できる結末は,現在の天皇・天皇制「ほど奇妙な〇〇はない」という表現にならざるをえない。

 補記)本日,2026年7月17日は参議院でつぎのような見通しが付けられている議事が進行すると,朝刊に報道されていた。本ブログ筆者の購読する『毎日新聞』から1面と3・4面の紙面を紹介しておく。

ちなみにSNS上の発言には
「外国で国旗にお辞儀をする国というのは聞いたことがありません」
という指摘も出ているが

要は「自由と民主主義」の理解が初歩以前の人びとが
大勢いる国が日本

 補記)つぎの画像資料はパロディ的な加筆がなされているが,菅 義偉が旧・安倍晋三政権で官房長官を務めていたときの姿,つまり,うしろに日本国旗が立ててあり,官房長官などがこの演台のところに進みでるときは,必らずこの旗に向かい一礼する姿は,いまでもほかの面々が慣行的に繰り返している姿として観察できる。生身の人間より旗(モノじたい)のほうがエライのか(?),という疑問がただちに浮上する。

この人は問題あり問題あり問題ありであったが
日の丸を好きにならねばいけないのか?
愛子天皇の登場は国民の多数が支持している

〔本文・記述に戻る→〕 本ブログ筆者のしるかぎり,そうした国旗への尊意「表示」の方法は,日本にだけ固有のしぐさに映る。いままでは「たかが旗」であったものが,こんどは「されど旗」のそれも,いきなり極端なあつかいになる。

 しかも日本の場合はあたかも,神聖なる物神的な「御旗」であるかのようにまで格上げされた,それもとくに「自民党右派(冷泉昭彦風にいえば単なる極右・反動)」の国旗神聖化「風」にまでなる「意識の高揚感」は,まさに敗戦前に戻ったごとき時代意識を思わしめるに十分である。

 しかし,そうした21世紀における姿は,冷泉彰彦が批判するように「自国国旗の損壊を罪に問いたいという発想法〔そのもの〕は,20世紀に跋扈したファシズムや社会主義のような権威主義に由来する事実」を,あえて無視するものであった。

 それでも,戦前・戦中,戦地に向かう兵士たちに送った「日章旗への寄せ書き」はよくて許されるのか。そしてさらに,それ以外に汚すことになるあつかいはイケナイのか,などなどという話題に移るほかなくなる。そうであるならば,われわれは「そのように面倒が起こりやすい国旗の存在とは無縁でいたいよね」という国民側の意識が生まれても,なんらおかしくはない。

 それでは,損壊罪の当初の意図からも外れる事態・現象になっていると指摘・批判されても,なんら反論できまい。 

 国旗であってもしょせんモノであり,どこまでいってもモノでしかないのだから,これにあたかも入魂式でも済ましえた気分にでもなってこの「旗」そのものに接することになったら,この国旗が有する本来の役目がすっかりぼやけてくる。

 そもそも国旗は,あくまで「そこにその国があること」や「その国の人々が誰であるか」を示すシンボルとして存在する物体である。国家を視覚的に表現し,国際的なイベントや外交の場でどの国が参加しているかを一目で伝える重要な役割を果たしてもいる。

 この国旗は本来,大別して3つの大切な役割をもつと説明されている。

 ★-1 国家の象徴(アイデンティティ)その国の歴史や文化,宗教,願いなどがデザインとして,たとえば,日本の国旗「日の丸」は,日本の伝統的な色合いである紅白を使用し,太陽を象徴している

 ★-2 また,所属と国際的な区別国際連合などの国際会議,オリンピックなどのスポーツ大会において,国と国,国民と国民を区別する目印として使われてもいる。

 ★-3 さらに,国家への敬意と結束国旗はその国そのものを表わすため,公式な式典などで国旗をかかげることは,その国や国民への敬意を示すことにつながります。国民の連帯感を高める役割ももっている。

 以上にくわえて肝心な事実は,

 ★-4 そうした自国の国旗を気に入らない,嫌いだから使いたくない,あるいは最初からみたくもないといったごとき個々人の意識が,「国旗」に対して許されて当然であるという前提・条件である。

 たかが旗印である国旗を「自国の国旗として好きになれないから嫌いだ」といった素朴な感情すら,国旗損壊法という法律が罰することはできないにもかかわらず,なんとかしてこちらの罪を犯しそうな人びとの存在を,事前に予定し,これを懲らしめようとする意識が,はたしてまともな愛国心にとって不可欠な発想たりうるかといったら,これは完全に否である。

 今回(本日:2026年7月17日)に参議院でも成立するみこみだという国旗損壊法という法律が施行されたら,日本の国旗:日の丸がもとから好きではない人たちは,今後もさらにこの旗そのものを遠ざける意識を固めるに違いあるまい。

 つまり,国民(市民・庶民)たちが自然に抱いていればいいはずである国旗に対する感情を,一方的に「汚したり・切り裂いたりしたら,オマエらを罰するぞ」という法律を制定する方途で,その気持ちを強いたところで,これでは,国旗に対してもってほしいはずの,つまりごく自然であるべき「本物の愛着」すら生まれる素地を〈損壊〉することになりはしないか?

 d) ところで話をここで一気に変えると,たとえば2000年5月15日の出来事であったが,神道政治連盟国会議員懇談会において当時,首相であった森 喜朗は,あいさつのなかで「日本の国,まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く,そのためにわれわれががんばってきた」などと,みごとなまでの薄識(サ▼の脳)ぶりを吐露していた。

 しかしながら,この喜朗君,そもそも「神の国」という日本的な神道観念の真義など,ろくにしりもしないでそのように,換言すると,無知の精神にみずからが力づけられて,まさにホラ吹き同然の発言を放っていた。

 もっとも「天皇⇒神」であるという観念は実は,明治天皇や大正天皇の場合はさておき,昭和天皇の場合だと本気で思いこんでいた。それゆえ,森 喜朗の浅薄な神道理解とは別個に,裕仁が「自分は本当に神武天皇の末裔だと信じていた」のだから,

 はたして《彼という存在》じたいが,日本国憲法の基本理念に抵触していなかったのかというべき重大な関心事が,1989年末以来ずっと〈未決の論点〉として残置されていたことになる。日本国憲法の第1条からして,たいそうやっかいな論争点をその由来から有していた。

 e) 堀内 哲編著『令和から共和へ-天皇制不要論-』同時代社,2022年という著作があるが,この編者の堀内は「天皇制不要論」を終始主張しつづけてきた。

 日本が真正の民主制国家体制に向けて脱皮するためには,この国の本質・核心を覆っている政治制度問題:「天皇・天皇制」が,立法・司法・行政の屋根に相当する構造物になっている事実は,いまさら申すまでもなく,否定のしようがない「国家制度の難関中枢」を示唆する。

 堀内編『令和から共和へ-天皇制不要論-』は,最後に組まれた「11 想像レポート 徳仁がラストエンペラーになる日」という題目を付した一章を寄稿していた彦坂 諦に,こういわせていた。

 1989年,裕仁の死をめぐる「一億総自粛」といった異常な状況,すなわち,自粛ということばの本来の意味とは似ても似つかぬ強制が津々浦々に浸透しひとびとをくまなくまきこんでいった,その狂騒ぶりによって,天皇制という制度そのものが生みだしていく最近が,ひとびとのこころの奥まで浸潤していって,いかに精神を荒廃させていくものであるのかが,白日のものにてらしだされました(334頁)。

なぜ「精神の荒廃」という修辞が使われているのか?

 こうした指摘に感知できる古代ヤマト的に困難な課題は,昭和天皇その孫に当たる「令和(の)天皇の立場」にも通貫していく疑問であり,実質,継承されている。

 こうした説明(批判)がまっとうだと認める人たちは,そうであるからには理の必然として,日本国憲法じたいにそれも敗戦直後にしこまれた「時限爆弾(不発弾?)的な脅威」に気づいているはずである。

 f) たとえば,現在の天皇個人までの万世一系「性」は,けっして自明ではなく,もちろん歴史的に実証もされていないし,もとより実証ウンヌンの問題対象でもありえなかった。つまり,その系統性なるものの中身は,古代史において間違いなく数度途絶させられており,江戸幕末から明治維新にかけてもまた,それが途切れた疑いが濃い事件も発生していた。

 さらに「南朝 × 北朝のもつれ具合」などももちだし重ねて議論しだすと,この万世一系「論」は生物学的な継承性の問題でもあるからには,天皇や天皇家の人間たちに議論が限定されえないかぎり,その論点はエントロピー的に散乱していくばかりで収拾など期待できない。

 要は,あなたも私もすべて,それなりに万世一系の持主であった。そうではない人間・人類など1人もいないのである。極論すれば,根本で人間様たちと同じなのでもあるが,トンボやバッタも,ネズミやウサギも,牛や馬もみな「万世一系」という〈血統・遺伝子の連綿〉性を,生物的に唯物の存在として確実に与えられている。昔もいまもそうであったし,そしてもちろん,未来に向けてもそうなって持続していく。

 それなのになぜ人間のうちで,しかも日本の天皇の系統(血筋)だけが「特別に尊く,高貴でありうる」と判定できるのか。この判断を下せるほど関連の知識がある人は,その点を他者に向けてきちんと説明する義務があるはずだが,肝心のその論点の議論になると,トコトン「神話の世界」という安全圏に逃避する。

 g) 昆虫や動物はそんなものを意識していないけれども,人間様たちが格別に意識するのが「その血統の連続性」であった。なにゆえ,この血統の継承性(つながり)だけをもって,天皇・天皇家の血筋のみが高貴であり尊厳がありうるかのようにみなされるのか? 

 ところが,実際にその歴史上の根拠を「当事者(?)や関係者(!)」に聞いても,神話の次元における話以外,茫洋とした返事しか返ってこない。おまけに,その論理の正当性を聞いても肝心な節目になると,ただ問答無用に信じろと,強引にあるいは慇懃に返してくるだけであった。

 戦前体制下での〈神州:ヤマト〉にこじつけた理屈ならともかく,いまどき万世一系を「信じるのか・信じないのか」というのは,新興宗教の信心次元となんら変りがない。あるいはそれが,「歴代天皇の名をそらんじられるか?」「さもなければオマエを非国民として牢獄に放りこむぞ」という次元での応答でしかありえないならば,これは人に信じさせようとしたことじたいが,元来,無謀な試図であった。

 h) 森 浩一『日本神話の考古学』(朝日新聞社,1993年)は,『古事記』や『日本書紀』に記述されている地理・風景論の正確さ・緻密さに触れると同時に,この「記紀」に潜伏する奇々怪々さにも言及していた。

 森は,「古典の内容は概して曖昧だという先入観を与え,いつしか考古学では神話や伝説とは一線を画し,それについて言及しないことが “科学的” だという逃避的な現象をも起こさせている遠因の一つとなっている」といいながらも,とくに,考古学の方面における『記紀』の利用法に注意を呼びかけていた。

 そしてさらには,「古典にあらわれた神話や伝説が,どのように古代史の素材として取りこめるか,あるいは取りこめないかについて性急な答えをだそうとは思」わず,「考古学の成果とつきあわすことで一つの見通しが得られる」「記紀神話の展開の順序」を尋ねる必要を強調していた(9頁〔はしがき〕)。

 「記紀」の記載から古き世の実相を読みとることは至難の業である。いわゆる「記紀」の原典批判が始ってから既に久しく,今日なお諸学徒によって検討されているのも,その記載に含まれている「記紀」撰述当時の政治的関心に片寄りすぎてきたようである。

 「記紀」撰者ならびに当時の宮廷知識人は大陸系の新しい学問を身につけ,古伝承の筆録に当っても常にそれを合理化することによって,上代史を当時現在的に理解しようとつとめた。この合理化された諸点をも政治的潤色と同様に批判されなくてはならない。

 註記)三品彰英論文集第4巻『増補 日鮮神話伝説の研究』平凡社,昭和47年,〔あとがき〕454頁。

渡来人(韓来人)の影響


 ただし,森 浩一のいいぶんは逆も,実は真なりになりえた。「記紀神話の明治以後的な展開の順序」を「考古学の成果とつきあわすこと」になれば,明治維新がめざした政治的なもくろみのカラクリは,計らずして自然に露出されざるをえない。

 補記)森 浩一に関しては余話がある。いまからいえば「セクハラ(軽度)が得意」であった。「女性の容貌を軽妙に(?)からかう発言」がしばしばあった。これをいまふうに評価するとしたら,それ相応に看過しがたい問題があった。

 故人である森に対してこのような話題を振ったところで,いまとなっては詮ない過去歴の談義だというほかないが,いちおうは触れておく価値がありそうな思い出的話題として出してみた。

 i) ところで,天皇陵であると認定〔比定ないしは治定〕してきた古墳を,宮内庁が基本方針として発掘させない現状の歴史的な意味は,説明の余地がないほど明快である。

 このデタラメ盛りだくさんの話題につては,冒頭で登場させた住井すゑが,そもそも神武天皇のために選定されていた場所からして,真っ向からそのいい加減さを批判していた。

 要は,本格的に学術的調査の対象にとりあげられては「困る事情」があってなのだが,なまじ発掘などまともにさせたら,現在の天皇・天皇家の足下の地盤が,その架空に設営したつもりであったごとき深部の構造から熔融しかねなかった。

 明治維新史の政治謀略的な展開模様は,表舞台であっても裏舞台であっても,考古学の研究成果を学問的に歪曲せざるをえなかった。そうでなければ,真実に迫り語ろうとする学問を抑圧してきた「戦前史の基本姿勢」など,初めから成立するはずはなかった。

 政治の利害が圧倒的に学問の立場を折りこみ,都合のよいように歪曲・改竄・捏造・転用してきたのだから,明治・大正・昭和戦前の時代をたどってきた関連の諸科学に,天皇・天皇制のしくみや暗部を指摘し分析する,いわば批判し剔抉する仕事を期待するのは,とうてい無理難題であった。

 明治の時代において神道を国家宗教にしあげようとした帝国日本に特有であった不可避の妄迷さは,久米武邦のように「神道は祭天の古俗」と簡潔に一言いわれだけでも,まるでその本質が丸裸にされたも同然になっていた。

 久米自身,旧日帝の枠組のなかで,密教的な次元においては「絶対に許されえない禁句」を学術論文のなかで披瀝した〈失策〉を,東京帝国大学教授の立場から犯してしまった。そうであったがゆえ,ひどいしっぺ返しを受けた。

 j) さて「国民の祝日に関する法律」(祝日法)第2条は,2月11日に設定した「建国記念の日」=紀元節の趣旨を,「建国をしのび,国を愛する心を養う」で規定している。

 だが,それは完璧なまでに〈神話の世界〉における物語であって,森 浩一も指摘したように,歴史科学や考古学の学問的視点に依拠して判断すれば,一片の根拠もない,単なる信心の領域においてのみ存立させうる「一国の休日〔祝日:祭日〕とりきめ」であった。

 日本が建国された日付を2月11日に遡及させる想念は,近代以前よりさらに近世と中世を通りこして古代に,さらにそれ以前の太古の時代まで突き抜けていくだけの,つまりどこまでも「神話的な休日」設定であった。

 補記)だいたい,各国における「建国記念日」の由来に比較すると,飛躍そのものでしかありえない決め方をしていたのが,この日本(旧大日本帝国)におけるそれであった。参考にまでウィキペディアで「建国記念日」を調べてみればよい。

 1千年以上も大昔にまでさかのぼって,この建国記念日を設定しているのは,この日本以外にはほとんどない。ただし1国なら確実にあった。隣国の韓国のそれであった。日本よりスゴイというか,もっと旧い旧い時代にまで,その国家創設の起源を求めている。

 この昔物語の語り方そのものでは,日韓はいい勝負だというか,ともかくとても仲良しになれそうである。だが,オマエの国より「うちのほうが旧い,ずっと昔だ」などといあっているとしたら,子どもの口げんかも同然。

〔本文・記事に戻る→〕 明治の時代に日本帝国が天皇・天皇制を再利用したときと同様に,敗戦後に紀元節を復活させた日本国は,歴史のなかに国家の理性を求めるよりも,過去の混沌のなかに国家の素姓を探し,換言すると「創り出す」という安易で無謀な立国の路線を選択し,歩んできた。

 明治以降,脱亜入欧をめざしたその相手諸国の近代における立国精神にあえて学ぶことを回避した日本帝国は,フランス革命(1789~1794年:7月14日革命記念日),アメリカ独立戦争(1775~1783年:7月4日独立記念日),ロシア革命(1917年:11月7日革命記念日)のような「封建あるいは王朝の時代」を克服する国家精神を,建国時に有しえていなかった。

 k) それゆえ,明治前期に巻きおこった自由民権運動を押しつぶし,大正期のデモクラシー趨勢を中途半端にしか活かせず,敗戦後の民主化においては懸案というべき天皇制を,封建遺制要因としてそっくり「民主主義憲法」のなかに残存させてきた。

 もっとも,1945年の敗戦からだったが米帝国が,この旧日帝を,2026年の現在になっても本質面ではなんら変化のない「くにがらの日本」に留めてきたように,つまりは「U. S. A. の属国」にするためにだったが,それも天皇と天皇制を上手に残しておく〈便法〉として,旧大日本帝国憲法を日本国憲法に改正させるといった「正攻法的な不正手段」を駆使した。

 敗戦後史における昭和天皇は,大東亜戦争(太平洋戦争)では完敗していたにもかかわらず,こちらの立場としては負け戦を味わわされた完全に不利な状況のなかでも,「平和憲法」のなかでの自分の地位を可能なかぎり保守できた1点については,GHQの元帥:マッカーサーがこちらはこちらでまた,自分の権勢欲のために裕仁を利用できた立場からの駆け引きだったが,うまく立ちまわってきたつもりであった。

 もっとも,敗戦後史も時期が進むと,戦前のような国家元首の地位ではなくなり,あくまで国民を統合させるための象徴とされた天皇の立場・役割,いいかえると,「存在はしているけれども基本的にはなにもしない」かのような立場を強いられ,つまり「はりぼて」のごとき天皇になったのではないかとぼやくことにもなっていたのが,敗戦後史において措定された昭和天皇の立場でもあった。

 しかしながら,よその国であれば死刑すら回避できない事情が覆いかぶさっていないわけではなかった「敗戦後国際政治史」が,旧日帝のその後における歴史のなかに継起されなかった事実は,天皇のみならず天皇家(皇室)全体にとってもっけの,いいかえれば,このうえない幸いであった。

 裕仁の立場は,そもそも敗戦国になってからでも,過去における「大元帥様であった」に過ぎない自分の経歴を,否応なしに思い起こさせる機会もあった。

 l )  19世紀後半からとなれば,その政治過程のなかで取り入れ,生かすべきの民主主義の諸動向を基本路線としては,すべて圧殺してきた日本の政治過程は,この国流の帝国主義がなるべくしてなった,つまり,敗戦に向かい突き走るほかなかった,20世紀の「東アジアにおける日本帝国史」を形成していく深因を提供した。

 天皇・天皇制が民主主義「基本理念」の障害物にならない,などといいきれる政治学者は,まともに社会科学の研究に従事しているつもりがあるならば,おそらく1人もいないはずである。

 けれども,もちろん “天皇マンセー!” 論者は,敗戦前であれば当然に遵守すべき学究の価値観だとみなされていたある一物を,21世紀のいまになっても,疑心暗鬼的に自分の学問展開から放棄できないでいる。

 戦前体制のなかでは,その立場をまえもって断わって学問を進めないことには,自身の存在が大事にされないどころか,下手をすると全面否定されたあげく,自分が潰されたりあるいは自身が抹殺されたり,さらには時に「本当に殺られる」ことまでの覚悟を要した。

 筆者の専攻した学問領域の経営学では,北川宗蔵や上林貞治郎がいた。

 北川は敗戦後ようやく釈放されてから,所轄の警察署に押収された蔵書を取りかえしにいったところ,すでに戦争末期のモノ不足のなかでストーブの火のなかにすべて放りこまれたあとであった。

 上林は,堺市にあった大阪刑務所に収監されていたときだが,1945年7月10日の大空襲に遭遇したさい,刑務所内のすぐとなりの部屋にまで焼夷弾が落ちてきて,それはもう危険な状態になっても,看守は一時釈放するどころか,安全な他房に移動させることすら措置しなかったという。

 註記)北川宗蔵と上林貞治郎についてのその空襲騒ぎは,上林貞治郎 『大阪商大事件の真相-大阪市大で何が起こったか』日本機関紙出版センター,1986年が記述している。ウィキペディアだと「大阪商大事件」が関連する記述を与えている。

 --話を本論に戻したい。

 たとえば百地 章みたく,確信的な天皇教信者ならばさておき,よりまともな憲法学者であるつもりの立場・思想から「天皇・天皇制」を語りたい法学者が,自分の信心する宗教的立場だとみまごうほかない,しかも「信仰告白」よろしく,天皇・天皇制を熱く説く姿は,滑稽を通りこしており,まさしく日本神話の世界をいまの21世紀に投入している滑稽な自画像そのものとして,全然認識できていなかった。

 イギリスの王室がはたして,民主主義とどれほど両立させえているか,この問題は,専門の法律学者や政治学者でも,そう簡単には論及しつくせない話題であった。この王室は私有財産制度のなかでは莫大な富を蓄積してきたなかで,民主主義の基本理念に皇室だとか王室が究極的になじむ道理がありうるのか,なお疑問の余地を残したままである。

 2 「本 論」-明治天皇の伊勢神宮参拝から論じる-


 明治天皇は歴代天皇として初めて,伊勢神宮を参拝したが,この宗教上の行為が発揮した時代的な意味を考えてみたい。

 註記)以下の記述は,藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』三一書房,1960年に依るところが多い。本文の性質上,こので引照した個所はあえて,いちいち明示していない。

 --明治維新の政治方針が,いわゆる「祭政一致」という天皇中心の神権政治として定められると,伊勢神宮は全国諸神社のなかで最高の地位を与えられることになった。

 まず,明治1(1868)年6月,朝廷は内大臣広幡忠礼をつかわして,神宮に「王政復古」のことを報告させ,また9月,東京への最初の行幸のさい一たん神宮への参拝を定めたが,これは実現せず,同2日伊勢国関駅から遥拝したにとどまった。

 そして,明治2年3月再度の東京行幸に当って,天皇ははじめて両宮〔伊勢神宮の〕に参拝した。

 ここで注目すべきことは,古代以来かつて,天皇の伊勢神宮参拝という行為は一度もなく,このときが,歴史上最初の出来事であった。

 伊勢神宮が国家の宗廟であるといわれながら,なぜ天皇の親拝がおこなわれなかったかということは,まことに興味のある問題である。というのも,明治の時代になってから,他の神社への天皇の参拝も平安時代以後であって,それ以前には天皇が神社に参拝する制度がなかったのである。

 すなわち,天皇と神との関係が,古代において後代におけるとは違ったふうに考えられていたことを示している。古代には天皇が神を祭るのは宮中であって,神はつねに天皇の望むところにたちまちあらわれるもの,と考えられていたことを示す。

 天皇が神社に参拝しなければならぬということは,神と天皇との関係が,神と一般人とのあいだのようになったことを意味するのである。しかし(だからというべきか),伊勢神宮に限ってながく奉幣使がつかわされていたことを意味するので,神宮に対する奉幣が王臣以下には許されず,皇太子でさえも天皇の許可を必要としたことにも,それは現われている。

 天照大神を伊勢に祭ったことが,広く国民に崇敬させるためであったという説が流布されているが,けっしてそれは一般人民が自由に参拝祈願を許されたというわけではないのである。それはむしろ,天皇の神権性を誇示することが目的であって,天皇の独占物としておく必要があったのである。それが中世以来人民の信仰の中心になってきたのである。

 いまや,神権的天皇制の確立をめざす明治維新の指導者たちは,ふたたび伊勢神宮の天皇との結びつきを強化し,これを天皇の独占物としようとくわだてたのである。そのための思いきった手段としてとられたのが,歴史上未曾有の天皇〔明治天皇・睦仁〕の神宮参拝ということであったのである。その後,明治天皇はなお3回も参宮をしており,また天皇とのつながりを法制化する手段もとられたのである。


 3 朝鮮古墳を発掘しても日本府はみつからなかった


 a) 旧日帝が朝鮮において犯してきた盗掘の問題をめぐっては,学術調査という名の発掘行為,そして,それが「朝鮮内に日本府」を発見できてなかった事実などについて論及したい。

 戦前は,朝鮮の各地にあった無数の古墳に対して,盗掘となんら変わらぬ濫掘がほしいままになされた。数多くの遺跡や古墳が発掘されたが,学術調査といえるような例はごく少数に過ぎず,とくに報告書が出された例は珍しいほどであった。

 そうした調査に参加したことがある京大の梅原末治教授は戦後,その著書『考古学六十年』(平凡社,1973年。以下の記述もこの本を引照していた)で,

 「調査発掘は功名心も手伝って継続しておこなわれたが,その結果を報告書や研究書に纏めることは遅れっ放しで,重要なことが時日の経過とともに放擲されたこともめずらしくなかった」と述懐しているのをみても,当時の発掘という名の調査がいか盗掘に近かったか,推測するに余りあるものがあるだろう。

 日本の学者のこうした発掘の結果,なにが出てきたか。いままで千数百年,地下で安らかに眠っていた加耶時代の珍貴な遺物が山のように積まれた。一例をあげれば,1918年,谷井済一が昌寧の校洞で発掘した古墳は百基にも達した。出土した遺物は鉄道貨車二輌分になったというから,いかに膨大な量の副葬品が出たか,想像できるだろう。

 にもかかわらず,そのなかには,これぞ日本府実在の動かしがたい物証といえるだけの,ただ一かけらの遺物も発見されなかったのである。それだけではない。それから戦争が終わるまで,ときには組織的に,ときには個人的に,大小無数の発掘がほしいままにおこなわれた。

 より徹底的に韓国〔朝鮮〕全域にかけて,専門的な盗掘者の手による数千万件の盗掘がおこなわれた。地上の掘り出された古代の遺物は数十万点を数えたと思われる。

 しかし,それら数多くの遺物のなかに物的証拠として,日本から渡ってきた古代人が使用したと断言できそうな,日本製と思われるものはただの一つも出てこなかった。このことはなにを物語っているとみるべきであろうか。
 
 b)「発掘・私掘・盗掘,報告書なしの実態」

 「大正10年……5カ年計画の最終年にあたるこの年の半島調査……。慶州邑の郭外で,後世まで喧伝される『金冠塚』が発掘された」

 「新羅の古都慶州の郭外には,もともと大きな古墳が点在していた。市域の拡大,道路工事などで,古墳が削られて行く間に,路西里の一隅から,金色燦然たる遺物が出現したのである」

 「慶州に在住していた諸鹿央雄(もろが・ひでお)氏が,これを掘りつづけ,驚くべき多数の品々を発見した。現場にかけつけた小川敬吉氏のもたらした報告に,京城の関野博士ら古蹟調査関係者は驚きあわてた」

 「総督府では,時あたかもナイル上流で発掘されたツタン・カーメンにも比すべき発見だなという声もあがった。現在のような情報過多の時代ならどんなことになっていたであろうか。関野先生は早速調査に赴かれるとともに,朝鮮に渡っていた浜田先生に,急遽,共同調査を要請された」

 「金冠塚出土品整理と並行して,大正11年には,藤田,小泉といった新メンバーで古墳調査と続けられた。春には,大山公爵とともに,前年中絶した金海,梁山両貝塚を試掘して再検討し,蔚山から慶州に出て,四天王寺,聖徳寺,皇龍寺等の寺跡を調査したあと,扶余に赴き,扶余山城とこれまで出土品を調べまわった」

 「いったい,調査とか発掘は功名心なども手伝って,次から次へとおこなわれるが,その結果を報告書や研究書に纏める仕事はとかく遅れがちで,重要なものが時日の経過とともに放擲されることも稀ではない。私は自分の受けもった調査は可能なかぎり早く報告書を出すことにし,他人にもそれをやかましくすすめたが,時としてそれは反感を買うこともあった。この時の調査報告は,ただちに京都の似王堂から公刊された」

 「大正12年の春秋は,金冠塚の遺品整理に明け暮れたが,この発掘に刺激されて,半島各地で埋蔵古文化財に対する関心がたかまり,それまで幸いに元の姿を保って来た,北の楽浪はじめ,南の古新羅,任那地区の濫掘や盗掘が盛んになった。それらの事後処理などをめぐって,私達もあわただしく動きまわされる破目に陥った」

 「遺跡の盗掘は,平壌府外の漢代楽浪古墳群においてとくにはなはだしかった」

 「大正13年の春は,藤田氏らとともに,掘りあらされた古墳群の実状調査にあたる一方,蒐集家の手にある出土遺品の調査をおこなった。私がとりわけ関心を抱いたのは,総計三百面を超える漢鏡の存在である」

 「〔朝鮮〕総督府の禁令にもかかわらず,私掘は絶えず,旧状をとどめる遺跡を緊急に学術調査する必要があった」

 結局,「総督府の学術調査は,限られた人数で,広範囲,多種多様な仕事を受持たなければならなかった。ある場所で盗掘があり,珍しいものが出ると,いまやっていることを放擲してかけつけなければならず,また一般に出土品の量の多いことなどもくわわって,発掘の仕事に報告作成がいつも追いつかない」

 「慶州の三大塚の報告でさえ,金冠塚の図版ができただけで,金鈴,瑞鳳塚出土遺物の整理は遅々として進まなかった。昭和4年の後半期,再び朝鮮を訪れるようになった私は,勤政殿の回廊に無造作につみあげられている何十何百箱に達するこれら出土品をみて,この整理と報告の公刊を最優先すべきだと考えた」

 「これらの報告は曲がりなりにも陽の目をみたが,なお多くの日本人がおこなった半島古墳発掘の学術報告ができていない。時代がたつにつれ,それは曖昧となり,やがて忘れられてしまうであろう」

 「敗戦にさいして,私が一番心を痛めたのは,直接調査事業に携わった我々が,その成果を学界の共有財産とせず,仕事を中断したまま,遺跡破壊者としての非難をこうむりかねない点であった」

 補記)ここでいう「非難」とは,日本人同士間におけるそれだとしか解釈できない。この非難に本気で触れる気持ちがあるのであれば,昔にまでさかのぼるかたちも採り,国際関係の問題次元における話題・論点にさせねばならないはずだが,実際のところは「あとはオボロ・・・」

〔記事に戻る→〕 「戦後及ばずながら朝鮮考古学関係の書物を書き,また藤田君とともに『朝鮮古文化綜鑑』〔梅原末治・藤田亮策編著『朝鮮古文化綜鑑』養徳社,1947-1966年,第1卷「楽浪前期」, 第2卷「楽浪 乾」,第3卷「楽浪 坤」,第4卷「高句麗」〕を出版したのは,せめて,その一端でも償おうという微意に出たものに他ならぬ」

 「昭和に入っても相変わらず墳墓の私掘はやまず,官憲の取締り強化とともに,緊急調査の必要がいつも叫ばれていた。しかし,総督府は次第にこの種事業に対して財布のひもを固くしめはじめ,調査は著しく困難になっておこなった」

 c) 以上に紹介したごとき,旧日帝下における墳墓からの盗掘は,これらの記述・説明からよく伝わってくるように,日本人側からする私掘としてもやりたい放題であって,その様子は無法地帯を思わせた。

 本記述の続編でさらに関連する記述がなされるが,現在の韓国や北朝鮮では,旧日帝の植民地時代にまさにそれこそ濫掘されつづけていた「国宝級の財宝」は,敗戦後の歴史が進むにつれ韓国や北朝鮮でも独自に,敗戦前にあってまだ盗掘されずに済んだ墳墓から,あらためて新しく発掘された財宝が韓国などの博物館において一般に展示されるようになった。

 日本が戦前に泥棒同然に強奪してきた,それも私掘(盗掘)も含めた国家単位による「朝鮮の古代史財宝の略奪行為」の履歴一覧みたいな,日本側の(公的な博物館)における展示物が,それまでに韓国側が発掘・保有しえていた関連の財宝に対してとなると,はるかに,つまり,その豪華さ・出来において水準を抜いていた事実は厳然たる記録となっている。

 イギリスの大英博物館は,世界中の財宝を強奪してきた宝庫だとも形容されるが,あちらの粗暴ぶり水準にまではなかなか及ばないものの,日本でも戦前・戦中は,帝国主義国のはしくれであった立場としてならば,それ相応にふさわしかったかのように振るまってきた。「他国(隣国の植民地)からの文化財・財宝の収奪」は,当然の権利であったごときに,官民を問わず堂々とおこなわれてきた。

----------------------------------

 【付 記】「本稿(1)」の続編(2)は出来しだい
              ここにリンク先住所を指示する。

----------------------------------

【アマゾン通販】


いいなと思ったら応援しよう!