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国家神道精神にもとづく靖国神社は宗教機関ではないなどといいたがる「虚偽の愚昧と欺瞞」(1)

 1「特集ワイド 無念の父の死 英霊と祭るな 閣僚らの靖国参拝に抗議つづける83歳」『毎日新聞』2025年10月1日夕刊2面,https://mainichi.jp/articles/20251001/dde/012/040/019000c

 a) この記事をまず取りあげ議論する。この『毎日新聞』「特集ワイド」の記事は「無念の死の父,英霊と祭るな 閣僚らの靖国参拝に抗議続ける83歳 認められぬ合祀取り下げ」と見出しをかかげ,以下に引用するように論説していた。この記事の字数は2820文字あり,1面の紙面全体を充てた構成になっていた。 

帝国臣民の戦死者の霊魂のみ吸い上げて「督戦する神社」は
なぜ「8月15日」を迎えていたのかいっさい考えない

 この紙面の冒頭に写っている人物は「取材に応じる吉田哲四郎さん」であるが,まずこう語りはじめていた。

 「私たちの肉親を,英霊とたたえないでください」。ここで「たたえる」とは漢字にすると「称える・讃える・頌える」などの用語が出てくる。

 最近の話題「宇露戦争」,これは「ロシアのプーチンのいい方だと「特別軍事作戦」と命名されていたが,2022年2月24日に始めたこの軍事行動は戦争そのものである。
 
 旧日帝の大東亜戦争がなされた期間「3年と9か月」を超え,「4年と5ヵ月以上もの年月」が,この宇露戦争のために費やされている。すでに,両国の軍人たちがおおぜい戦死しているだけでなく,とくにロシア側の国際法を完全に無視した戦争行為は,民間人を意図的に標的にしてきたゆえ,ウクライナ側の一般市民たちがすでに大勢巻きこまれ,殺されつづけている。

 軍人は戦死した場合,その遺体が棺に納められて墓場にまで送られるときは,自国の国旗に包まれていくことになる。この国旗の意味にはその戦死者の「死の価値」を,なんとしてでも「称えてる・讃えて・頌えて」おきたい,国家の立場からの想い(狙い)がこめられている。この事実に関しては,あえてこまかい説明は要らない。

 補記1)ところで,2026年7月17日に成立し,8月13日に施行される予定の「国旗損壊処罰法(国旗損壊罪)」がある。これは,日本の国旗(日の丸)を傷つけたり汚したりする行為を罰する法律であり,罰則は2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を課す,という骨子になっている。

 この法律の主な内容対象行為は,人に不快感や嫌悪感を覚えさせるような方法で,公然と国旗を損壊,除去,汚損することである。しかし,この法律に対しては議論や反対の動き表現の自由の侵害するとして,憲法学者や弁護士会などは,政治的な抗議や表現活動を制限し,萎縮させるとして反対の声明を出している。

 とりわけ,その不明確な基準である「不快または嫌悪の情」という主観的な感情が基準に含まれており,法律の内容が曖昧だという批判があり,これにまともに対応できていないまま成立・施行される日程が決定していた。

 日本における現状の政府(主に自民党としておく)は,官房長官などが官邸内などで正式に会見などおこなうさい,そこに設置された日章旗に対しては登壇するさいにお辞儀をすることにしているが,欧米諸国ではほとんど観られない異様な「この日本政府なりの作法」が,もっともらしく採られている。

 しかしながら,「たかが国旗である物的対象」に対して,なにを象徴させたいのか,いかにも恭しく一礼する「されどの」その姿は,けっしておおげさではなく,ただの「物神崇拝」そのものに映る。

【参考記述】


 補記2)このあたりの議論は,さらに詰めていえば,こういうやりとりもできる。要点をいえば,戦前の作法であるかのように,それじたいは単なる布きれに描かれた物体である「日の丸」が,あたかもダイ・ニッポン・テイコクの魂そのものが込められたとても大事な国家精神的な象徴物とされているゆえ,これはしごく大切に慎重にあつかうべきモノたりうるということになってもいる。

 最近における国旗のあつかいについては,たとえば宇露戦争中であるから両国の軍人たちが戦闘行為で命を失ったあとに,葬祭される方法の一環として利用される国旗(ウクライナならば上下に青と黄の二色旗,ロシアならば同じく上下に白と青と赤の三色旗)が,戦死した彼・彼女を納める棺を包むために利用される点は,最近,われわれがよく観る風景になっている。

 旧日本軍の場合も戦前や戦時中においては,戦死者の棺は日章旗(国旗)で覆われることがあり,軍隊の公式な葬儀(海軍葬や陸軍葬)や,戦地・国内での厳粛な儀式において,霊柩や棺を日章旗で包むまたは覆う慣習が存在した(と説明される)。

 だが,戦時中における海軍や陸軍の葬儀式典では,戦死者の棺や遺骨を納めた箱を日章旗で覆って敬意を示すことがおこなわれたが,激しい戦闘が続く最前線や過酷な戦地では,そもそも棺や充分な物資がない場合が多く,すべての戦死者に対して一律におこなわれたのではない。むしろこちらの「おこなわれない」ほうが一般的な対処法になっていた

 前段の説明には神道関係者による記述であったが,こちらの説明だと旧日本軍の戦死者は実際にはその6割が餓死であったという指摘など,まったく顧慮しない「戦死者への敬意」という意識だけが,中空に舞い上がった話法になっていた。

 だが,そうした敬意とは完全といっていいくらい,つまり戦死者の棺だ遺骨だ,これを納める棺だ,さらにこれを包む日章旗だとかいった「敬意の問題次元」とは,それこそ完璧に無縁な旧日本軍の実態ならば,それこそ圧倒的に無数の単位をもって記録されてきた。

 補記3)歴史学者の藤原彰の著作『餓死した英霊たち』青木書店,2001年がまとめた推計は,アジア太平洋戦争(日中戦争含む)での日本軍人・軍属の戦没者約230万人のうち,約6割(約140万人または127万人以上)が「戦闘による戦死ではなく,補給途絶による餓死や栄養失調に伴う病死であった」と実証している。

 また,たとえば太平洋戦争中の1943年5月29日,アリューシャン列島のアッツ島で起きた日本軍守備隊全滅は,これを〈玉砕した〉など美化して表現し,異様に礼賛した。だが,このアッツ島玉砕としての「実際の戦死者は約2,600人--文献によっては約2,638人--」であり,生存者はわずか27人であったが,この戦死した将兵たちが1人ひとりが日章旗にくるまれて葬儀されるとか埋葬されたという話など,最初からありえなかった。

藤田嗣治『アッツ島玉砕』1943年

太平洋戦争におけるアッツ島の戦いで玉砕した日本軍アッツ島守備隊員と
アメリカ軍との白兵戦を題材として描かれた戦争画

日本の戦争画のなかでもっとも有名な作品の一つである

敗戦後は接収されて1951年にはアメリカ合衆国に移送されていたが
1970年に無期限貸与という形で日本に戻され東京国立近代美術館が保管する

 さらに,旧日本陸軍が1944年3月から実施したインパール作戦インパール作戦では,イギリス領インドの都市インパールの攻略を目指した無謀な作戦であり,そもそも補給を無視した計画により多数の餓死者や病死者を出した。

 その基本的な作戦計画は,もともと道のないジャングルや険しい山脈を越える一方,食料や武器の運搬を軽視したまま「現地調達」や家畜頼みにするといった戦術頼みであったがゆえ,結局,甚大な損害を発生させるだけにお終わった。

 なお,そのインパール「作戦の概要期間」は,1944年3月から7月初旬までとなったが,第15軍司令官・牟田口廉也中将が強硬に主張して実施された作戦目的,すなわち,ビルマ(現ミャンマー)を防衛し,連合軍の拠点を破壊し,インドを独立させるための誘発になるというそれは,大失敗に終わった。

 結局,投入された約10万人の将兵のうち,3万人以上が戦死・餓死・病死し,結局は悲惨な「白骨街道」と呼ばれる撤退路を生むまでになったとなれば,戦死者が日章旗につつまれた棺のなかに納められて……,といったふうな死後のあつかいなど,それこそ「戦死者(!?)自身にとっては夢物語」であった。

 以上のごとき記憶をあらためて思いだしながら申せば,日章旗がどのように利用(活用ないしは悪用)されるかについては,よほど慎重に詮議しておく必要があった。

 補記4)このたび,2026年8月13日に施行される予定の「国旗損壊処罰法(国旗損壊罪)」に対する反対論のなかには,その立法を必要とする現実的な理由(事実)が求めにくいというものがあった。ところが,衆議院における自民党の圧倒的な議席数を背景にろくに,まともな議論もなしに当該法律が成立させられていた。

 ところで,日章旗といえば旭日旗がいつも関連して話題になる。さらに天皇旗の存在も気になる。国旗損壊罪の必要性をあえて認める必要性などないと主張する考えは,一般の器物破損罪でその罪を問えるのであって,

 そもそも立法事実が超アイマイな事情のなかで,むりやりにこの法律を成立,施行させた意図じたい,旭日旗(自衛隊関連の諸旗)や天皇旗というほかの「日本の旗」各種が強く意識されているのではないか,という推察がなされて当然である。

日の丸
海上自衛隊が使っている旭日旗
菊の紋章が特徴

さらに以下の画像として紹介する天皇旗のほうの色合いとは
若干だが明確に明度(?)が異なって映るので断わっておく
上皇旗なる旗は初めてしった

これは2019年6月5日に明仁が
大正天皇陵墓に参拝したおり『初めてかかげられた』と説明されているが
どこそこの時期を具体的に区切っての話かこの説明では不詳である

以前は存在しなかった旗であると推理できる

 補記5)そこで,上皇旗などについてさらに調べたところ,つぎのような関説があった。結局「明治謹製」だったということ。

 「皇室の身位を示すものとして用いられている皇室の旗章の歴史は,明治期にさかのぼる。」『AERA DIGITAL』2025年8月3日,https://dot.asahi.com/articles/-/262179?page=2 のなかに,つぎのごとき説明があった。

 帝国憲法発布の1889(明治22)年に「天皇旗」をはじめ,「皇后旗」「皇太子旗」「親王旗」も定められ,いまある紅地や白地に菊花紋章のデザインとなった。

 そして,元号が平成から令和へと移った2019年,「旗」研究者の間では,皇室の旗章がちょっとした話題になったという。

 「というのも,大正15(1926)年に摂政旗が新設されて以来,およそ100年ぶりに皇室の旗章が増えました。このとき新しく定められたのが,『上皇旗』と『上皇后旗』,そして『皇嗣旗』と『皇嗣妃旗』で」あった。

 補記6)ところで,関連させて靖国神社の境内において,国旗(日の丸)はどのようにあつかわれているか調べてみたところ,つぎのような項目がホームページには記載されていた。

 まず『靖國神社 オンラインによるお申し込み~授与品・頒布品から』のなかに掲示されている項目のなかに「旗」があった。また『ご参拝時のお願い』のなかには禁止行為がたくさん列記されているなかに「旗・幟・幕等を表示する宣伝活動」という一項もあった。

 註記)以上の2点の項目のリンク先住所はこれ( ↓ )である。

  ⇒ https://shopping.yasukuni.or.jp/index.php?dispatch=categories.view&category_id=9

  ⇒ https://www.yasukuni.or.jp/hope.html

 それならばということで,靖国神社関連の画像を検索してみると早速,このような画像(2013年8月15日「敗戦記念日」)がみつかった。もっとも,前段の記述内容に照らしていえば,なにかがおかしいと感じていい風景であった。

日章旗と旭日旗が登場していた

なおこの画像にはリンク先住所を張り付けてあるのでさらに
あれこれ掲載されている画像をみることができる

 このリンク先住所以外にも探してみると,旧日本軍の軍装(コスプレ)をまとったオジサン・おじいちゃんたちが「この靖国神社の8・15」にデビューしていた(毎年の恒例か?)。この神社の境内を闊歩する彼らの様相のなかには(ここには紹介しないほかの画像には),ナチスドイツ軍の軍装らしき(上着だけだが)を着たオッサンもいた。   

 〔ここまでの「補記1から6までから,元の記述に戻るので,見出しとして振る連番記号は b) となる〕

 〔内容はもちろん前段の補論6に連結している〕ので

 〔「特集ワイド 無念の父の死 英霊と祭るな 閣僚らの靖国参拝に抗議つづける83歳」『毎日新聞』2025年10月1日夕刊の記事が,さらにここから続く〕

前後する段落の関係説明

 b) かつて靖国神社周辺では毎年,戦没者遺族による「平和遺族会全国連絡会」が終戦の日にデモ行進し,戦没者の合祀(ごうし)や閣僚の参拝に反対するシュプレヒコールを上げていた。連絡会は主要メンバーがつぎつぎに世を去り,2020年11月に活動を終了した。しかしいまも,参拝した閣僚らに抗議文を送りつづける元メンバーがいる。

 父が戦死した吉田哲四郎さん(83歳)。2002年,靖国神社に父の合祀について問いあわせたことがきっかけで,遺族もしらなかった戦死の真相にたどり着いた。「無念の死を遂げた父を,戦争の旗振り役だった靖国が祭ることは,絶対に許せないのです」

 補記7)靖国神社には,もっともその死者の霊魂だけが吸い取られたかのようにして利用(悪用)されるかたちで,本殿の祭壇に合祀されている。というわけだが,結局は「死んで花実が咲くものか」とか「命あっての物種」という文句を切実に感じているはずの遺族たちの感情(真情)にとってみれば,この吉田哲四郎のごとき人びとが登場していて当然も当然であった。

 d) 靖国神社に合祀されている旧日本軍関連のあらゆる人びとは,その霊魂のみをこの神社に召し上げられた措置がなされ,しかも都合よくなのだが「英霊だともちあげられ本殿の祭壇に合祀されている」。

 けれども,この神社が明治維新前後に虚構されていた,それも日本古来からの神道精神からは完全に逸脱した,いってみればそれこそ異端もいいところの,つまりそれからはトコトン脱線しつくした「明治謹製」の新式になる国家神道式「戦争犠牲者に対する慰霊の仕方」は,

 なかんずく,死者を山車に利用しただけの「戦争目的のための人的資源・再利用(つまり究極の死のリサイクル?)」しか念頭にない,いわば本質的にいえば「督戦神社=戦争神社である本質以外」は,なにも使命を有していなかった。

 しかも,近代史において観察すると,その畸型児「性」=「日本神道史のなかで偽造されたトンデモ系の神道神社」であった事実しか,めだつ特徴は求められなかった。

〔記事に戻る→〕 「父が亡くなった時,私は1歳でした。一緒に過ごした思い出はなく,父の死もどこか遠い世界の話のように感じていました」

 冒頭(最初)にかかげておいた当該の記事現物の右上には,「8月15日に小泉進次郎農相は靖国神社を参拝し,石破 茂首相が自民党総裁として玉串料を私費で奉納したことを受けて,吉田さんが送った抗議文」がかかげられているのだが,

 e) ここで『毎日新聞』から,以上に引用している記事とは別立てになるのだが,基本で「同旨の記事」もさらに別にあって,こちらのなかではつぎのように “その抗議文の活字が読める程度” に拡大された画像が用意しされていたので,こちらを紹介しておく。

石破茂が首相を務めていた時期であった      


〔記事に戻る→〕 吉田さんは1941年,愛媛県で4男4女の末っ子として生まれた。長姉とは19歳も年が離れ,一番年が近い3番目の兄とも4歳差。きょうだいのなかで,父と過ごした記憶がないのは吉田さんだけだ。

 吉田さんの誕生時,46歳になっていた父滝蔵さんは,海運会社の宇和島運輸で機関長として働いていた。「父が亡くなるまでは裕福だったと思います。南方から鈴なりになったバナナをお土産にもって帰ってきた,ときょうだいから聞いたこともあります。荒っぽいところのない,優しい性格だったようです」

 滝蔵さんは会社の船ごと徴用され,1943年8月13日に死亡した。吉田さんは1歳10カ月だった。2カ月後,母ノブさんのもとに届いたのは陸軍からの「死亡通報」1枚と,白木の箱だけ。紙には「南支那海海上ニ於(おい)テ敵機ト交戦ノ際戦死セラレ候」とあり,遺骨はなかった

 戦後,吉田さんは「父は南シナ海で亡くなった」とだけ聞かされて育った。残された母子の生活は困窮した。戦後しばらくは手もちの着物を少しずつ食べ物に交換する「タケノコ生活」だったという。

 f) 吉田さんは家族の支えや奨学金を受け,県立宇和島東高から1960年に早稲田大へ進学。電気機器業界大手へ就職し,結婚後は1男に恵まれた。2000年,勤め先を定年退職した。「これからやりたいことを思う存分やるぞ」。胸にこみ上げてきたのは,父の死に向き合いたい,という思いだった。

 「平和遺族会全国連絡会」に参加するきっかけとなったのが,翌年の2001年8月13日,当時の小泉純一郎首相が国内外からの反対を押し切るかたちで,靖国神社を公式参拝したことだ。

 靖国神社は軍人・軍属に加え,動員学徒や徴用された朝鮮人らも含め軍の要請で戦闘に参加した人〔すべて〕を〔ともかく,なにがなんでも〕「英霊」として祭る。戦争を計画・指導した東条英機元首相らA級戦犯14人も1978年に合祀された。

 補記8)〔 〕内補足は引用者。なお次段のなかで太字にした文言は,靖国神社の基本的な立場にとっては一番マズイ,あってはいけない帝国臣民たちの精神状態であるが,このような反応を示す人びとが敗戦後史のなかでいなかったわけではけっしてなく,彼ら・彼女らの内心から消えるものではありえなかった。

 それこそ,「ヒトの道」に反する「生命軽視」をなんとも想わない靖国の「国家神道」流の,非道徳的・反生命的な,いわば宗教の立場としてはあるまじき発想がこのように,しかも「母の立場から大反発を食らう」のは,必然の道理だという以前に,もとよりごく自然な応答である。

〔記事に戻る ↓ 〕 

 g) そのニュースを伝えるテレビを観てていた吉田さんの脳裏に,母ノブさんの姿が浮かんだ。1989年に86歳で他界したが,生涯靖国神社に参拝しなかった。戦没者叙勲の知らせを受けとった時も「そんなもんいらん」と怒った。「何をしとるんか,とテレビに向かってほえていました

 連絡会の活動をしったのはこのころだ。1985年の中曽根康弘首相(当時)による靖国神社の公式参拝に危機感を抱いた牧師の小川武満さんや浄土真宗僧侶の菅原龍憲さん(いずれも故人)らが,1986年に結成した市民団体だ。「戦没者遺族であるからこそ,誰よりも強く平和を求める」と主張し,集会やデモ行進をしていた。

 吉田さんは,連絡会が靖国神社による戦没者合祀に反対していることにも共感を覚えた。いてもたってもいられず,活動に参加するようになった。そして2002年,靖国神社に「父は本当に合祀されているのか」と問いあわせた。「なぜ靖国がこんなことまでしっているんだと思うほど詳しい回答をもらったときには驚きました」

 補記9)前後するこの記事の内容は,靖国神社の「明治謹製になる戦争神社としての基本使命」が,いったい,どこにあるかをよく教えている。靖国は死霊を生者である「現在生きて居るわれわれ」に向けては,相当にあからさまにかつ押しつけがましく,しかも慇懃無礼に差し向ける関係を前面にムキ出しにしている。

 いま「生きているオマエたちもこのような英霊として死霊あつかい」を,この神社ではしてやるのだから,いつでも「喜んで戦地に出向き潔く死ぬことを善と心得よ」と教訓を垂れているのである。いまも昔もその基本精神,しかも国家神道と皇室神道の足場に立ってだが,そのようにあつかましくもわれわれの精神的な世界にまで平然と踏みこんできている。

 補記10)「なぜ靖国がこんなことまでしっているんだと思うほど詳しい回答をもらったときには驚きました」という点については,敗戦後,のちに厚生省(現・厚生労働省)が管理していた「戦没者等援護関係資料」の存在を指摘おけばよい。靖国神社は一宗教法人になっていた立場であっても,戦争犠牲者たちに関したよりくわしい資料を,その後も厚生省から受けとることができていた。

〔記事に戻る ↓ 〕 

 h) 話を本論に戻そう。吉田哲四郎の母親は,結局「靖国の母」ならぬ「夫の滝蔵の死」をめぐる「ことの本質」を,よく心えていた。だからこそ「生涯靖国神社に参拝しなかった」し,「戦没者叙勲のしらせを受けとった時も『そんなもんいらん』と怒った」し,「何をしとるんか,とテレビに向かってほえていた」という。

 こうなると,その種の反応を国家体制に向けて明確に示す人間が「日本社会のなかで増えて一番困る」のは,その靖国神社とこれを創建した国家,それととくにこの神社を中心になって支えてきた連中である。この連中のなかには昭和天皇(いま故人だが)も実は入っていた。あえて断わっておくと,これは21世紀にも妥当する今日的な話題である。

 ところで,『軍人勅諭』(1885年)や『戦陣訓』(1941年)は,天皇のためであれば臣民の生命の価値などは二束三文であった。それが戦争に駆り出され戦場などで命を落とすと,なぜかよく分からぬが一挙に成り金的に「英霊」となり,何階級分も特進させられる。ただし物的な報奨は具体的にはなにもありはしないが……。軍人年金の話題は別途にさておき……。

 i) さて,前段のその『軍人勅諭』からして,実にひどい人命軽視(無視)でしかない迷文句を吐いていた。その代表となる段落の文句を引用しておく。なお原文は濁点の活字はすべて濁点なしの表記である。また読みにくいので適宜に改行をあえてたくさん入れてみた。

 軍人は忠節を盡すを本分とすへし

 凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき

 況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし

 其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし

 抑國家を保護し國権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ

 其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

 補記11)要するに,おまえたちは国家の前では「虫けら同然の命の価値しかもたない」と訓じている。それがどうして戦争で死んだりすると,靖国神社の境内では一挙に「英霊」にまで昇進しうるのか,不思議という以前に実に奇妙で理解しがたい理屈が開陳されていた。

軍人勅諭がいうことには・・・


〔記事に戻る→〕 靖国神社からの回答には本籍地や配偶者といった情報も含まれていた。そして,死没場所は南シナ海ではなく,「ビルマ国ハッセイン河口」(現ミャンマー・パテイン川河口)となっていた。合祀は1957年4月21日付。名前の末尾に神になったことを示す「命(みこと)」という文字が付けくわえられていた。怒りがこみ上げた。「家族を残し無念の死を遂げた人間に,神とはなんだ」と。

 補記12)この吉田哲四郎の反「靖国神社」精神は,靖国側にとっては非常にまずく,もっとも好ましくない旧帝国臣民側からの反応一例である。絶対にあってはならない,その国家神道精神に真っ向から反する「現・日本国民的な感情」である。それこそ靖国側が一番恐れる庶民の考え方=国家観であった。

〔記事に戻る→〕 ちょうどそのころ,全日本海員組合の関係者から寄せられた情報があった。「組合が戦没船員を調査した記録が神戸の『戦没した船と海員の資料館』にあると教えてもらったのです」 父の死の真相が分かるかもしれない。妻と訪れ,父が乗っていた船の情報を調べると,靖国神社の回答とぴったり符合することが分かった。

 j) 資料館の記録や『戦時船舶史』(駒宮真七郎著)によると,父滝蔵さんが乗りこんでいた第5高島丸は総トン数285トンで,貨物船としては小ぶりだった。

 弾薬とガソリンを満載し,1943年8月6日にビルマのラングーン港(現ヤンゴン港)を出港。同10日にビルマ西岸のアキャブ港(現シットウェ港)へ到着して積み荷を揚陸し,その夜には帰航を始めた――とある。同13日にビルマ中央を流れる「バセイン川(現パテイン川)河口7・5キロメートル沖」で計11機の敵機から空爆を受け,船体が切断され沈没した。

 「父は運輸会社の勤め人です。田舎の民間の小さな船が,はるかベンガル湾の最前線で,アジア侵略に加担させられていた。戦争へ突き進む世の中で,雇われ人の父が抵抗することは難しかったと思います」

 靖国神社の合祀は,国から提供された戦没者名簿をもとにおこなわれてきた。合祀に反発する遺族は多く,国と靖国神社に合祀取り消しなどを求める訴訟も起きているが,遺族側の訴えが認められたケースはない。

 補記13)靖国神社の合祀をめぐるこの種の裁判は,しょせん「国策裁判にならざるをえない」。提訴した庶民の気持ちや感情などそれこそ,オマエたちは国家のための「本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ」という趣旨でしか,その種の訴訟では指揮しえない裁判官しかいない。この事実は戦前体制そのままである。

〔記事に戻る ↓ 〕

 k) 吉田さんも2014年以降毎年,合祀取り下げを靖国に求めてきた。靖国神社は「当神社の祭神合祀は極めて重要な宗教行為であり,当神社の自主的な判断に基づいて決せられるべき事柄」と回答し,取りあっていない。

 「遺族の話を聞こうという態度ではありません」

 歴代首相の靖国参拝も,遺族の声に耳を貸さずに強行するという点では共通していると感じる。安倍晋三首相(当時)が2013年12月26日,反対の声を押し切る形で首相としては7年ぶりに参拝したことには「とくに怒りを覚えた」という。

 補記14)以上のごとき靖国神社側の態度は,戦前体制そのままである以上に,「戦前:戦時」を戦後にまで当然のようにもちこんでもいる時代精神として,国家神道である以上にさらに権柄尽くの,それはもうたいそうエライ高見を保持しえているつもりであったから,しかも明治謹製になるそうした時代精神でもあったからには,時代錯誤など何重にも重ねたうえでの「遺族の話=立場」無視であった。

 その意味で靖国神社は,日本国憲法に規定されている「政教分離の原則」など,それこそ平然と踏みにじる宗教思想を,いまでは一宗教法人になっている立場からでも堂々と告白しつづけているのだから,この国はその点では「発展途上国」に留まっている政治3流国家なのかと思わせる。

〔記事に戻る→〕 このころから首相の真榊(まさかき)奉納や閣僚の参拝があるたびに,議員事務所などへ抗議文を送り続けている。抗議文の趣旨はこうだ。「国会議員・大臣の真榊奉納という行為は,憲法第20条3項に規定する政教分離の原則に違反する宗教活動だ。靖国神社に真榊を奉納する行為は,戦死者にわびることなく,先の戦争を肯定する行為だ

 l) 吉田さんは,外国人排斥や自国民優遇をかかげる右派勢力の台頭を強く懸念する。そして,戦争体験者として若い世代に訴える。「これからを担う世代は,自分たちが生きづらくなる社会をつくった本当の要因に目を向けて,考えてほしい。何とか戦争の起こらない世界をつくってほしいのです」【山本 萌】

 以上で,本日の記述はいったん終える。見出し項目に当てた連番はしか使っていないが,ひとまずそのままとしておき,明日の記述に続けることにする。

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【断わり】 「本稿(1)」の続編は以下である。      

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【参考文献】


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