「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(12)
1 東アジア古代史とヤマト・ナショナリズムは日本的国家・民族主義の軛--鈴木武樹『古代史の魅惑と危険』亜紀書房,1977年における日本古代史に対する根本的な批判--
1) 鈴木武樹の研究業績
鈴木 武樹(すずき・たけじゅ,1934年~1978年)は,もともと東京大学文学部を卒業した俊英のドイツ文学者・評論家である。享年43で他界したために,公刊の最近作としては論説を収録された,鈴木武樹・松本清張・江上波夫・三宅俊成・山田秀三・水野 祐・肥後和男・和歌森太郎『激論! 日本古代史』(成甲書房,2000年)をもって,最後の執筆物活字化とする。
鈴木の主著は,つぎのとおりである。
鈴木武樹『偽られた大王の系譜』秋田書店,1975年。
鈴木武樹『日本古代史99の謎-邪馬臺国から統一王朝まで-』産報,1975年。
鈴木武樹『消された「帰化人」たち』講談社,1976年。
鈴木武樹『日本古代史の展開-鈴木武樹対談集-』成甲書房,1977年。
鈴木武樹『古代史の魅惑と危険』亜紀書房,1977年。
鈴木武樹『謎の古代日本史』広済堂出版,1993年。
鈴木武樹『元号を考える』現代評論社,1977年。
鈴木武樹編,江上波夫・ほか『論集 騎馬民族征服王朝説〔新装版〕』大和書房,1986年。
ここでは,鈴木『古代史の魅惑と危険』1977年をとりあげ議論したい。本書「目次の冒頭」で「序の章『常識』の欺瞞-教科書の〈古代史〉はここが違う!」という題名をかかげた鈴木は,「日本」古代史の既存知識を根底からひっくりかえす提唱をおこなっている。
その基本論点は,日本民族的な国粋主義で歴史を歪曲するな,という1点につきる。「国家(民族)-体制-階級」などの社会科学の基本用語=範疇・概念を「日本」古代史にあてはめて考察すると,いったいどのような問題点が出てくるのか?
鈴木『古代史の魅惑と危険』がまず言及するのは,「幻の『朝鮮征服』」である。こう述べている。
そもそも「4世紀に『大和朝廷』は存在しなかったのだから,その4世紀の後半に『大和朝廷』が朝鮮半島諸国を『征服した』ことも,朝鮮半島の南部を『服属とした』ことも,また,加羅地方に『任那日本府を成立させた』ことも,みな,政治的な捏造であることは,論理の当然の帰結である。だが,それにもかかわらず,この国の国史研究者たちは,執拗に,これら3つのことを主張する」
鈴木がこうして,きびしく批判する国家主義的なヤマト王権「論」の「架空性=捏造の結果」をすなおに認める論者であれば,「日本」古代史に関するつぎのような認識を受けいれるほかない。
大王=天皇族こそ,朝鮮半島から倭国に渡来した最大の「帰化民族」で,その事実を隠蔽した痕跡が日本人の古代史だと言ってもけっして過言ではない。
註記) 鈴木武樹『消された「帰化人」たち』講談社,1976年,225頁。
2) 日本帝国主義による観念的な歴史の歪曲と捏造
しかしながら,江戸時代においてすでに頭をもたげていた「神国日本」論を妄信できた吉田松陰や本居宣長などの〈皇国史観〉は,東アジア全体史のなかでは「日本」の古代史が事実として「川下の位置」にあったという《事実》を,どうしても認知したくなかった。
そして,明治維新以降において,欧米帝国主義の「猿真似」を上手に実行できた「日本帝国」にとっては,鈴木武樹が指摘するような「東アジア古代史の様相=実相」は非常に不都合である,という大きな見栄があった。
そのために,今日にまでも根強く残されてしまった〈時代の特性から飛び出た歴史理解〉,すなわち,東アジア古代史においては「大和朝廷」が朝鮮半島南部地域に属領とみなせる「占領地:日本府」を経営していた,という「学術的に根拠のない」主張が創造された。
明治以来の日本帝国主義が東アジアを侵略・占領・植民地化していった政治過程の事情を闇雲に正当化するためであれば,東アジア古代史に関する歴史科学的により正確な知識など,どうでもよかった。
ともかく,日本が近隣諸国を侵略する行為を合理化するためなのであれば,「日本」古代史の改変・捏造どころか,東アジア全体史の基本的構図を目茶苦茶に破壊しつくしておくような歴史改造の作業・操作さえ平然とおこなってきたのである。
かといって,前段で鈴木武樹『消された「帰化人」たち』講談社,1976年が指摘したような「日本天皇朝鮮由来説」は,戦前日本の歴史家や考古学者がしらなかったのではなく,日朝古代史の研究をまともに研究した学者であれば,すぐに気づかざるをえない厳然たる「日本と朝鮮・韓国の歴史的間柄」であった。
平成天皇が21世紀になって日本の「皇室の祖先には朝鮮王族がいる」などと〈告白した発言〉は,なにをいまさらという感もあった。とはいえ,その発言がいかにも新鮮に聞こえかつ衝撃的でもあったせいか逆に,その明仁天皇の発言にこめられた深慮遠謀,いいかえれば「日本の皇室生き残り戦略」的な彼の意向を,日本のマスコミ・言論界は汲みとろうとはしなかった。要はあえて黙過されたといえる。
鈴木武樹は「この国の国史研究者たちの,虚構の『大和朝廷』ないしは『大和王権』にたいするパラノイア〔偏執病〕的な執着の異常さはどうだろう!」と強調している。
つまり「本州島の中央部以西には,すくなくとも6世紀の前半までは,それぞれの地域に単数あるいは複数の『大王家』があって,それらの『大王家』はどのほとんどが朝鮮半島の支配者であったという可能性-その可能性を,いささかも検討することなく無視して,『3世紀から4世紀にかけての時期に西日本を統一した大和朝廷ないしは大和王権の大王家』が,連綿とつづいており,現在の天皇家にまで繋がるとする考え方にしがみつくのは,学問とはおよそ縁遠い行為だといわざるをえない」註記)とまで,鈴木は断罪するのであった。
註記)鈴木『古代史の魅惑と危険』75頁。
鈴木はとくに「『任那日本府』の問題」「については2つのことを書くにとどめる」と断わって,つぎのように説明していた。
「その1は,『日本書紀』の任那関係の記事を前後から切り離してそれだけを精読すれば,これまでの国史学者たちの主張は空中楼閣に等しいことが歴然とする」
「その2は,その種の錯誤はすべて,倭がまだ『日本』の国号を知らない以前から『日本府』なることばが朝鮮半島に存在したと妄信したことに発する。『日本』『天皇』など,歴史的な用語をすべて,『大和朝廷』の場合と同様に,正確に定義しないかぎりは,学問は成立しないということの,これもまた好個の例である」
註記) 鈴木,同書,120頁。
3) 百済らの王が実は日本の王
鈴木は,戦前・戦後をとおして日本古代史の歴史研究家にあっては「学問は成立しない」実情があったと,一刀両断である。
とくに旧帝国大学系列の日本歴史研究者は,国家のための学問を構築してきたものの,学問じたいの立場に忠実な歴史研究を怠ってきた。彼らは,真理が宿る方途に向かい精進するのではなく,国家が意図した〈捏造の構図〉を懸命に汲みとる古代史研究に邁進してきた。
この種の,この程度の「国許の学問:歴史学(!?)」であったのであれば,真理探求・本質解明を期待することはとうてい無理であった。というよりも,帝国主義路線に阿諛追従しつつ,真理を歪曲するどころか,それを放擲かつ隠蔽し,事実無根の民族国粋史を妄想してきた。
そうであったとすれば,この国の歴史学の真価がいかほどであったかは,残念なことにもとから高がしれていただけでなく,「科学の使命」そのものまで絞め殺してしまったという学問〔似非!〕の軌跡をみごとに描いてきたことにもなる。
鈴木武樹は水野 祐などとも共著をものにしているが,この水野の日本「古代王朝3交替論」は,日本の天皇家が誇ろうとしている愚かな「万世一系」観念の夢想性を根底からくつがえす批判を披露していた。
ここではとくに,小林惠子(やすこ)が『興亡古代史-東アジアの覇権争奪 1000年』(文藝春秋,1999年)で提示した日本「列島・〔朝鮮〕半島の王統図①-『記紀』による神武朝から応神朝まで-」という図解を用意し,詳細に説明している。
補記)ここでは小林惠子からではなく,別途,つぎの関連する図解・説明を添えておく。

天皇人物史の創作である

それら(これら)図解と地図は,平成天皇が21世紀の初め,わずかに口にしてみた「天皇家の祖先は百済の王族」というものの核心部分と,その周辺付近にかかわっていた「古代史の諸問題」を考えるための背景を示唆する。要は,東アジア史の全域にまで視点を拡げておく必要性に気づくべきである。
付記)明仁天皇は「2001年の誕生日会見」(2001年12月23日)の場で,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』(しょくにほんぎ)に記されていることに触れ,自国と「韓国とのゆかりを感じる」と言及し,日韓関係の古くからある歴史的背景を語った。なお,桓武天皇(第50代)は781年即位し,長岡京・平安京遷都や律令政治の再建を実現した天皇である。
かつて,日本を訪問した「大韓民国全 斗煥大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば」(1984年9月6日「昭和天皇のあいさつ」)のなかには,つぎのような文言があった。この内容は息子の平成天皇が「天皇家の祖先には百済出身者がいる」と発言したものと〈密着した含意〉を有している。
顧みれば,貴国と我が国とは,一衣帯水の隣国であり,その間には,古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は,貴国との交流によって多くのことを学びました。
たとえば,紀元6,7世紀の我が国の国家形成の時代には,多数の貴国人が渡来し,我が国人に対し,学問,文化,技術等を教えたという重要な事実があります。
永い歴史にわたり,両国は,深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず,今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならないと思います。
今日,両国の努力と協力により,将来に向かって益々友好と親善が深められ,ともに繁栄する時代が開かれつつあることは,私の深く喜びとするところであります。このたびの大統領閣下の御来訪が,新しい日韓関係の一層の発展と強化をもたらす大きな契機となることを希望いたします。
鈴木武樹の研究にしたがって敷衍していえば,昭和天皇は本当はこういうべきであった。太字が追加した文言である。
紀元6,7世紀の我が国の国家形成の時代には,多数の貴国人が渡来し,我が国人に対し,学問,文化,技術等を教えただけでなく,我が国の天皇位をも占めてきたという重要な事実があります。実は,私もその直系子孫の1人である,と考えております。
4)河原 宏『「自在」に生きた日本人』農山漁村文化教会,1998年の天皇史「観」
河原 宏の同書は,「開戦前の日米交渉で弁慶のような人物が現れず,ついに戦争になってその結果は敗戦,天皇は有史以来の悲境にある。このことをいつまでも根にもっている日本人は,弁慶という架空の人間を創りあげ,苦境の義経,つまり天皇を救出する劇を作りあげた」という,日本史に関するひとつの解釈を紹介していた。
註記)河原 宏『「自在」に生きた日本人』農山漁村文化教会,1998年,119頁。
しかしながら,ここでは問題を感じる記述部分があった。それは,敗戦という出来事が昭和「天皇は有史以来の悲境」という状況に対面したという〈歴史への解釈〉である。そもそも天皇家,それも裕仁天皇の「前後して確実な系図」として描きうる連続相は〈明治以来〉であった。
それゆえ,「日本の〈有史〉?」という物差しにはなりえない,あまりにもおおまかな「歴史の目線(目盛)」をもちだし,いかにも天皇にまつわる事件が通時代的に知悉しうるかのように語った点は,問題含みであった。しかも南北朝の問題もが,否応なしに絡みついてくる歴史の説明となるほかない話題であった。
なかでも「日本(?)という国の有史」においては,「天皇」(大王)が正式に存在しはじめた時期からして不確かというべきか,しごく曖昧かつ流動的な推定であらざるをえないのだから,その付近の詮議をめぐっては,より信頼性の置ける「歴史認識」がもとからあって,これに依拠しつつ関連する議論が展開できるような話題ではありなかった。
前段で弁慶が取りあげられていたので,つぎに「天皇に対する忠孝一致の思考方式」とでも表記される問題を考えてみたい。
三谷 博『明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動-』(山川出版社,1997年)は,「忠」と「孝」の多重連携関係を解説している。この解説は会沢 安『新論』(昭和6年,岩波書店,1970年)に依っている。図解もあるが,文章で説明する。
まず「甲の経路」がある。
イ) 神話的な祖型と歴史的現実との二重構造。
ロ) 歴史的世界における臣民の天皇に対する忠誠は,高天原における彼らの祖神=八百万の神々のアマテラスに対する忠誠という祖型,ないしは地上において国津神が天皇に服属したときの儀礼の再現として表現されるとき,もっとも賦活され強化される。
ハ) ロ) の儀礼は,天皇による祖先祭祀である。臣民がこれに供奉するとき,天皇とともに現世秩序の祖型たる神話的時空に移り,各々の祖神のアマテラスへの忠誠を想起して,歴史的現在における忠誠の意義を感得する。
ニ) 天皇の「孝」の儀礼にくわわり,奉仕することによって「忠」を確認するわけである。
つぎに「乙の経路」がある。
ホ) 各々の家の祖先祭祀であって,高天原の天津神の子孫も,国津神の子孫も,そのとき,先祖がアマテラスないし過去の天皇に仕えた「初めの時」を想起して,現在の天皇への忠誠の意味を確認する。
ヘ) 自家の「孝」の実践が天皇への「忠」を呼びおこすわけである。いずれのばあいも,祖先祭祀という「孝」の儀礼が天皇への永遠の「忠」を導くのである。
註記)三谷 博『明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動-』山川出版社,1997年,55頁。
「天皇の立場」からこうして,臣民の側に向かい繰りだされた「孝」と「忠」の相互関係は,複雑で捻転的な忠誠を強要していた。明治維新を契機に帝国主義を出立させねばならなかった日本は,国民統合を達成するさい〈神格化させた天皇〉を中心に置いた。しかし,どこまでも「人間でしかない睦仁」を媒介物に利用しつつ,国家全体の次元において国民を都合よくとりこみ,抑えこんでいくために発想されたのが,「神国的観念によって祖神アマテラスまで通ずる信仰心」の育成とその利用であった。
以上の記述の理解の助けとなる図解を2点挙げておく。明治史の発足は古代史のダミー(仮称)ごときに政治と経済を発想させたつもりであった。

三土修平がつぎのように描いた図解のなかに
嵌めこむことができよう


いきなりアマテラス〔天照大神〕への「忠」をもちだすのでは,国民1人ひとりの「孝」を国家次元に連携させるには,まだまだ抽象的に過ぎた。だから,現存する天皇・天皇制を〈主役の役者と劇場装置〉に使い,くわえて身近な各家の祖先祭祀および国津神の信仰心をそれを引き立てる脇役に位置づけた。
明治国家はそうすることによって否応なしにでも,〈観客〉=国民が明治国家体制に納得する舞台装置を仕立てていった。日本帝国の臣民全員が国家イデオロギー的に統合されていく方途は,観念的にではあっても劇場・芝居的に構成され,その感動的な気分を醸成していく場を提供させ,なんとか納得をえさせるための工夫であった。
近代国家への道程を歩みはじめた日本帝国の原型がそのように封建時代どころか,古代史的な地平にまでさかのぼって国家理念を求めねばならなかった歴史事情は,のちに21世紀半ばに結果する日本帝国の転落=不幸を予定していたことになる。
2 伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』講談社,2009年11月に対する批評
京都大学で日本近現代史を講じていた伊藤之雄は,たとえば『伊藤博文-近代日本を創った男-』講談社,2009年 (講談社学術文庫,2015年)において,「官許風になる学問構想の展示」に関してならば,いわずもがなの正直さを貫き,その論旨を開陳していた。
ここで指摘されるべきは,その「 官許的な学問展開の特徴と限界」にまつわって発生するほかなかった「疑問」である。日本帝国が過去に記録してきた足跡(行跡)に対する「可視と不可視」の両面が,否が応でも絡んでいたその論旨は,歴史の真理の追究は二の次であって,それよりも「国家権力が望む歴史通観」に対して,より都合のよい筋道を探りだすために提供されていた。
1) 伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』2009年11月
本ブログは以前,この本,伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』(講談社,2009年11月5日発行)という本を読んだところで,「伊藤博文と安 重根の歴史的な因縁」を議論する記述を用意し,「伊藤博文を射殺した犯人は誰か」という論題で書いた一文を公表したことがある(その記述そのものは現在,未公開の状態にあるが)。筆者なりに同書に関して疑問を抱いた何点かを討議してみたのである。
この伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』は,京都大学で政治学を講じる学究の著作である。この本の宣伝用であった紹介を聞いてみると,つぎのように書かれている。
伊藤之雄[イトウ・ユキオ]は,1952 年福井県生まれ,京都大学文学部史学科卒業,同大学大学院文学研究科修了,博士(文学)。名古屋大学文学部助教授等を経て,京都大学大学院法学研究科教授。1995~97年,ハーヴァード大学イェンチン研究所・同ライシャワー日本研究所で研究。専攻は近・現代日本政治外交史。
本書,伊藤之雄『伊藤博文』は「倒幕,廃藩置県,岩倉使節団,西南戦争,初代内閣総理大臣,条約改正,日清戦争,日露戦争,初代韓国総監,そして暗殺〔と〕--「憲法政治」実現に懸けた伊藤博文の全生涯」を描く内容である。
--B6版だが,606頁もの分量があるので,読みでがある。主要目次はつぎのようである。章の題名は省略した。「第何部」というところで付けられた題名である。
第1部 青春編-第1章・第2章・第3章
第2部 飛翔編-第4章・第5章・第6章
第3部 熱闘編-第7章・第8章・第9章・第10章・第11章
第4部 円熟編-第12章・第13章・第14章・第15章・第16章
第5部 斜陽編-第17章・第18章・第19章・第20章・第21章
第6部 老境編-第22章・第23章・第24章
伊藤博文と日本・東アジア-おわりに
あとがき 主要参考文献 人名索引
本ブログの筆者は,以上の内容に対して全体的に論評するつもりはなく,またために要するその充分な力量にも欠けるので,あくまで関心のある範囲内でいくつかの論点に言及することに留める。ここではとくに伊藤之雄『伊藤博文』について感得した問題点をいくつか挙げ議論したい。
a) 本書は最終章,第24章「暗殺」のなかで伊藤博文の葬儀に触れ,こう記述している。「ところが〔1909年〕11月4日は,朝から雲が低くたれ込め,物寂しく風が吹き,天も伊藤の死を悲しんでいるようであった」(575頁)。
この段落を読んだ筆者はただちにこう感じた。学術書としてはいささか違和感のある,感情移入のいじるしい文学的な表現に傾きすぎた論及をしている,と。ドキュメント・タッチあるいは小説でも書いたかのように,しかもその方面で活躍する筆者なり作家なりが,そのような印象を強く与えるための文章を工夫したのであるならば,まだ理解できる余地もある。
けれども,多少ではあっても明確に感じたのは,「京都大学法学部で政治学を専攻する教員」が書くような文体,それも学術書のなかでのものとしては,どうも似つかわしくない修辞である,ということであった。その段落を読んだ瞬間,すぐに感じた正直な印象として,そのように受けとめた。
要は,「伊藤博文=明治を創った偉人に絶対間違いない」という《基本前提・先験的規定》(ともかく「ヨイショ」したかった気分)があるかのようにも受けとれる「伊藤之雄の筆致」,いいかえれば,その執筆の方針が,ほのかではあっても,『伊藤博文-近代日本を創った男-』においてはどうしても「かいまみえてしまう」ように感じたのである。
b) さらに本ブログ筆者の疑問,とくに「伊藤博文とグラバーとの交際について」
本書『伊藤博文』は,末尾「人名索引」において,3箇所の頁に「グラバー」が出ていること指示している。ところが,この本の最後部「伊藤博文と日本・東アジア-おわりに」という箇所においてもさらに1箇所,その「人名索引:グラバー」には指示されていない段落に,この「グラバー」の名が出ていた(→581頁)。この箇所は,伊藤博文の「密航による約半年のロンドン滞在」など,海外渡航の体験に言及した段落である。
「あとがき」(592頁)を読むと,筆者伊藤之雄のばあい「手書き原稿」で本書の原稿を用意・入稿していたことが分かる。しかし,索引作成という作業に関してパソコンが使用できる時代であることを配慮すると,なにゆえ「グラバー」が前段の1箇所でのみ,索引に指示されない結果(かたち)になったのか,本ブログの筆者にとっては,もうひとつ理解に苦しむ点であった。
伊藤之雄は,伊藤博文が敢行した約半年の密航話に関しては,あまりくわしく論述しない。グラバーが手助けをしなければ,伊藤博文〔たち・など〕は密航のかたちで,イギリスに当初3年間もの予定でいけるわけがなかった(実際は,先述のように日本国内の政情不安をしった伊藤博文は半年で,その「留学」を切りあげて帰ってきたが)。
伊藤博文の「密航によるイギリス留学」については,こういう事情があった。
幕末の1863〔文久3〕年,長州藩の井上聞多(馨),伊藤俊輔(博文)ら5名は,国禁を犯してイギリスへ密航留学した。この留学を伊藤らにすすめ,手助けをしたのは,そのトーマス・グラバーであった。……グラバーは,長州出身の5名の若者が横浜から英国へ向けて密出国するのに手を貸した。
その中には,後に4期に亘って首相を務める伊藤博文の初々しい姿も。その若い侍たちは,実際に日本近代化の尖兵となり,政財界及び社交界のリーダーとして活躍した。
たとえどの道に進もうとも,またどのような成功を収めても,誰1人として,長崎のスコットランド人商人から受けた恩を忘れる者はいなかったであろう(ブライアン・バークガフニ,平 幸雪訳『花と霜-グラバー家の人々-』長崎文献社,平成1年,31頁,32頁)。
グラバーは「明治政府最大の実力者となった伊藤博文とは,終生,親交をむすんでいた。そうした人材開発とともに,トーマスは日本に近代産業の種もまいた」のである。東京「の家に生活の本拠を移したトーマス」「の自宅への来客も多かった。相変わらず伊藤博文が役所の帰りに気軽に立ち寄ったし,日銀総裁に就任していた岩崎弥之助も時折顔を見せた。以前よく出入りしていた陸奥宗光は……」(多田茂治『グラバー家の最期-日英のはざまで-』葦書房,1991年,8頁,9頁,134-135頁)。

政治学者である伊藤之雄が,グラバーと伊藤博文とのこのような「公私にわたって」の,それも長期間において変わらなかった〈きわめて緊密な交際〉を,「伊藤博文の生涯を研究する著作のなかでほとんど触れない」あつかいが,これが不注意でなく意図されていた点だったならば,いささかならず理解に苦しむ奇妙さを読者に与えて当然である。
後日になってだが,グラバーが明治政府より「勲二等旭日章を授賞された経緯」は,必ずしも異例とは思えないほど〈彼らの仲がよかった〉事実を物語っている。ともかく伊藤博文は,欧米への見聞を重ねていく体験をとおして,明治期日本の政治経済の舵取りを的確に采配できるようになった人物である。
伊藤之雄は「伊藤〔博文〕は小銃・船の購入のため長崎に滞在中,イギリス商人グラバーから,薩摩がイギリス公使パークスを鹿児島に招待し,薩英会盟をしようとしていると聞いた」と記述している(伊藤之雄『伊藤博文』53頁。〔 〕内補足は筆者)。
「幕末-維新の動乱過程」においてグラバーが,日本に対していかなる影響を与えてきたかをしる政治学者ならば,明治政治史における伊藤博文をとりあげ論じるに当たっては,伊藤博文とグラバーとのただならぬほどに親密な交流を,それ相応に重点を置いて考察していてもおかしくなかったはずである。
伊藤之雄は,「剛凌強直(ごうりょうこうちょく:強くきびしく正直)」な伊藤博文の人柄・性格は,「イギリスへの密航で辛苦も味わったり等の経験を経て,教化されたと思われる」(同書,587頁)。さらには「主に物質面に表れたロンドンを見て」「西欧の外交上の慣行も徐々に身につけていった」(52頁)ものとして,伊藤博文の資質あるいは力量が,彼の人生体験ごとに着実に形成・獲得・蓄積されてきたと強調している。
それにもかかわらず伊藤之雄は,明治期における実力者伊藤博文がまだ若いころ,イギリスに留学〔密出国〕させる手助けをしたグラバーに対して,明治末期の1908〔明治41〕年,明治政府が「〈外国人としては異例〉の勲二等旭日章」を授与した歴史的な含意に,あえて触れない論究で済ませている。なお,伊藤博文は,明治期において第4次の内閣までを組んだ実力政治家であった。
伊藤『伊藤博文』は大部な著作であるから,以上に指摘したような論点が「前面に出てこない」「全然触れないでおく」という同書の構成=執筆の方法に対して,一定の疑問が生じてもけっしておかしくない。
2) 閔妃虐殺事件の論及方法
1895年10月8日早朝,ソウル郊外に幽閉中だった大院君〔朝鮮王妃の義父〕をかつぎ出して王宮に押し入った日本人たちが,朝鮮国王夫妻〔高宗夫妻〕の住む乾清宮に乱入した。その侵入者たちは,宮女を斬りつけながら王妃の閔妃を殺害したうえ,その屍体を辱めて燃やしまうというきわめて異様な残虐な事件を起こした。隣国王室の王妃に対する,このような極悪非道の乱暴狼藉を働いた殺害事件を黒幕として指揮したのは,当時において日本帝国「朝鮮公使の三浦梧楼」(1847-1926年)であった。
伊藤之雄『伊藤博文』は,自著別作『立憲国家と確立と伊藤博文-外交と内政 1898〜1905-』木鐸社,2000年の関連箇所も示しながら,この事件を大院君側のクーデタだと記述している。この解釈がはたして,いかほど妥当性があるかは,大きく対立する異論もあることを断わっておく。つまり「大院君側のクーデタ」だと判断する立論は,その視座の立て方に関して狭隘な歴史研究の立場を暗示していた。
と同時に「明成皇后〔閔妃〕殺害事件から13日後,伊藤首相は事件についての上奏意見書を書いている。そこでは,三浦公使以下の犯罪を『証拠顕然』と認め,列強から朝鮮の独立を無視するものであるとの非難を受けないことが必要だ,と論じた」などと記述しつつ,「伊藤が事前に事件に関わっていないことを証明している」と記述してもいる(伊藤『伊藤博文』360頁。〔 〕内補足は筆者)。
もっとも,事件を企画した三浦悟楼や実行犯たちの日本人〔壮士!〕たちは,日本に帰国後開廷された裁判を受けたものの,結局微罪あつかいされ,のちに釈放された。おまけに民衆の反応は,犯人たちは「よくやった」というものであった。伊藤博文がそのように,日本が「非難を受けないことが必要だ」と論じて立場は,閔妃暗殺に対する判断としては「隣国の王妃殺人」に対する発想として,その実行犯たちの発想次元からたいして逕庭はみいだせない。
しかも,伊藤博文をもっとも重用した明治天皇が,王妃閔氏の惨殺事件を聞かされたときに,侍従に向かって残したのが,三浦悟楼は「遣る時には遣るナと云ふお言葉であった」(小谷保太郎編『観樹将軍回顧録』政教社,大正14年,346頁)というから,当時の大日本帝国は下から上まで「隣国の王妃暗殺事件」を,まるで当然視したかのような気分である。
前段のように「閔妃虐殺事件」という国際的重大事件の首謀者は,当時朝鮮全権公使を務めていた日本帝国陸軍中将予備役・子爵の三浦悟楼(ごろう)であったわけである。だが,その後においてこの人物など事件の関係者をどうあつかうべきかということがらを,伊藤博文がさらにとりあげたり問題化したりしたという記録があったかどうか,筆者は寡聞にしてしらない。
伊藤之雄は,以上にかかわる当時の事情をめぐっては,政府首脳としての伊藤博文の示した対応,たとえば「伊藤首相は事件について,列強の国際スタンダードを外れていると怒った」(伊藤『伊藤博文』362頁)と言及している。
しかしながら,明治天皇が前段のように(「遣る時には遣るナ」)と発言したことを伊藤がしっていたかどうか,さらには重大問題として「閔妃虐殺事件」をさらに深刻に追及したかどうか,というような論点=問題意識とは離れた地平で,伊藤之雄は論及するに留まっていた。
閔妃虐殺事件が起きた当時,それまですでに4度も首相を務めたことのある実力政治家「伊藤博文のその対応姿勢」にかかわる論及が,伊藤之雄『伊藤博文』の筆致として,その程度の言及で済まされる程度の事件であったと判断しえたのであれば,本ブログの筆者による「以上のような指摘」は無用であるかもしれない。
だがし,伊藤博文が閔妃虐殺事件について「列強の国際スタンダードを外れている」といって怒ったさい,彼の発露した国際外交的な感覚が問題である。つまり,当時の時代状況のなかで,その怒りを表現すべきそのスタンダードとは「いったいなにを基準に,どのように設定されていたか」という論点が,いまさらのように興味を惹くのである。
いうなれば当時の段階において,列強帝国主義諸国間において共有しうる「そのスタンダード」に敵う範囲内でやれること:「帝国主義的な〈侵略の作法〉」として許容できるものならば,なにをやってもよかったということになる。
まさに「ところ〔と時代〕変われば品変わる」ゆえ,日本帝国が韓国・朝鮮をより完全に植民地として支配していく過程において,まさしく伊藤博文が務めていた役割全体にかかわらしめ,より慎重に受けとめ,解釈し,詮議する問題であってもよいのである。
3) 明治天皇と伊藤博文の親密さ
伊藤博文は,明治天皇のことを「現代の人物で最も尊敬する人物」であって「天子様じゃ」と答えたという(伊藤『伊藤博文』519頁)。これを,逆方向の関係からの二人としてみると,こう記述されてもいる。
「明治天皇が伊藤を深く信頼していた」(539頁)。
「伊藤は明治天皇の厚い信頼をうけ」ていた(542頁)。
「明治天皇と皇后は,伊藤の生前の勲功を深くほめ,嗣子博邦に公爵を受け継がせるのに先立って,〔行儀見習いとして預かった娘に伊藤が産ませた〕文吉に男爵を授けた」(574頁。〔 〕内補足は筆者。この事実は既述であったが,復唱となる)。
「伊藤や伊藤の考えを理解した明治天皇の尽力で,数度の憲法停止の危機が乗り越えられ,憲法は機能した」(582頁)。
とくに,旧帝大系の教員たちによる「明治天皇」の研究書にあっては,とりわけおくびにすら出さない論点がある。それは,明治天皇は伊藤博文に対して頭が上がらなかったこと,逆さまにみれば,明治天皇は伊藤博文に完全に抑えこまれていた関係であることである。
しかも,この論点に関していえば,その点を実証するこの「2人の出自・出身背景の近さ」が秘密として隠されていることに気づく必要がある。あれこれ論点はあるのだが,ここではこういう一件にのみ注意してみたい。
一説に,明治天皇「睦仁」は実は孝明天皇の本当の息子ではなく,孝明天皇が死ぬ〔暗殺される(?)〕と,そのすぐ1年あとくらいに実子の睦仁も抹殺されていたのであって,その代わりに明治天皇にすり替わった人物が,南朝系の血筋を引く「大室寅之祐」であるといわれている。この大室寅之祐は,本来の睦仁より2歳年齢が多い人物であり,長州の出身である。伊藤博文はこの大室寅之祐と近い地域の出身である。
以上の話はとくに,鹿島 曻などが多くの著作のなかで非常に詳細に,それもくどいくらい繰りかえして主張している。この説になんら傾聴の価値がないのであれば,これを全否定すればよいと思われるが,そうすることにはならず,学究側からはいっさい言及しようとすらしない。
そこまでも徹底的に無視するという対応は,もしかすると「〈藪蛇〉の恐れ」でもあるのか(?),とまで勘繰りたくもなる。すでに本ブログ内ではなんどか指摘したが,半藤一利(平成天皇とは近しい関係もあった)が,孝明天皇暗殺説を実質支持する持論を吐いていた事実を,ここでもあらためてことわっておく。
註記)半藤一利『幕末史』新潮社,2008年,243頁,421頁には,その点がいささか韜晦気味にだが,なぜか分からぬが明言されている。半藤以外にも同意見の立場を表明する識者はいる。この問題は現状では,もっと詰めた議論をする余地を多分に残したままにある。
なぜなのか? まさか「泣く子も黙る」ごとき論点でもあるまいし,また「菊の禁忌(タブー)」でもあるまいに,なにゆえ,その種の話題になると「へっぴり腰」どころか,「腰抜けになってしまう」御仁が目立って多い。歴史研究にも特定・一定の価値観が染みこんでいるなどというなかれ,まさにそのとおりになっている。
関連させていうと,「北朝系の天皇」であるはずの睦仁:明治天皇が死ぬ直前に,南朝が「正」で北朝が「閏」だといいはり,これを正式に認めさせた。明治神宮に「明治天皇+昭憲皇太后」という夫婦の表記が,これみよがしにあちこちの説明版に,あたかも特筆大書するかのように明記されてもいる。
補記)以上の記述に関しては,つぎの説明がわかりやすい説明を与えている。旧帝大系のエライ教授が一言も触れえない「歴史の話題」が,平均的な高校生の日本語力があれば十分に納得がいく説明である。
投稿者・リーマン「今の天皇は現王朝が出来てから四代目(孝明天皇で前王朝は終了し,明治天皇から新王朝が始まっている)」『阿修羅』2004年2月6日 02:48:08m,https://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/781.htm
すなわち,抹殺された「本当の元睦仁」の妻は「さきに夫をなくしていた」という表記になっている。またその妻:一条美子は承知のうえで,明治天皇〔=大室寅之祐〕と明治天皇夫婦を演じてきた,という解釈でよいのである。この妻が幕末-維新期における諸相の真実をしらないということはありえず,大室天皇とは共演の仲であった(ただし,この妻はその立場:役割を強要されたいた)と推理するほかない。
もちろん,昭憲皇太后という立場にありつづけた「彼女の実際における生活状況」(生死年は1849-1914年)は,そうした明治時代において「自分が置かれていた立場」の「その好き嫌いのほど」はさておき,ともかく納得ずくで演じさせられていた,という具合に解釈してよいことになる。
したがってときに,彼女の立場については「睦仁との性的な夫婦関係はなかった」と指摘されるのは,「明治天皇史」にまつわって随伴した必然的な話題だと受けとるほかなかった。お世継ぎ問題ウンヌンであったから,本妻(正室)の妻・女房が男子を産まないどころが,1子も儲けなかった事実はこの夫婦の間柄は「セックスレス」であったと推論するほかない。
ある意味,以上のような明治「事情」の脚本を書き,総合監督にもなっていたのが,本当のところは伊藤博文。
伊藤博文は,明治天皇のそばで平然とそっくりかえるような態度をとれた唯一の人物。つまり,その大室寅之祐は,伊藤博文に指導されて明治天皇になれた〔というか,その役をやらされてきた〕のである。これが,明治天皇ならぬ大室寅之祐が伊藤博文を「深く信頼せざる」をえなかった,明治時代における「本当の〈背景・事情〉」ではないか?
こういう推論を一笑に付せるだけの反論を繰りだせる「正統派」の日本政治学者がいない。正式な議論の場では,その「一笑にすらしない・とりあげない」態度そのものに逃避するしか手がないのか,具体的にに反証を挙げ,そのような陰謀論的な発言を完全に破砕すべく批判しつくすという試行には,絶対に手を着けない。
その種の一貫性ならば徹底的に維持されてきた一点を跳躍台(叩き台!)にしてこそ,実は,松重楊江『二人で一人の明治天皇』たま出版,2007年と題した著作も公刊されていたことになる。この松重の本は,いまの天皇家の立場にとってみれば,題名からして耳にしたくないものだと推察しておく。
結局のところ,彼(彼女)ら(ここまで取りあげてきた者たち)は,けっして外史・野史・碑史・裏氏の研究家を無視しているのでも,また相手にしないのでもなく,双方において噛みあう議論をしかけられたりしたさい,相互間でやりとりされる批判的な議論とは,正々堂々と渡りあい,とくに乗り切れる自信がないだけのことであった。
3 安 重根による伊藤博文暗殺の疑問点
1909〔明治42〕年10月,朝鮮統監を辞任したあと枢密院議長に復帰していた伊藤博文は,満州・朝鮮問題についてロシア側と非公式に会談するためにハルビン駅を訪れたとき,韓国の民族運動家:安 重根の狙撃を受け,直後に生命を落とした。
伊藤之雄は,
イ) 上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』筑摩書房,2000年の見解「伊藤博文暗殺の実行犯複数説」や,
ロ) 大野 芳『伊藤博文暗殺事件-闇に葬られた真犯人-』新潮社,2003年,
ハ) 海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店,2004年などの,すなわち,山県有朋・桂 太郎・寺内正毅・後藤新平・明石元二郎ら「伊藤博文の植民地政策路線と対立してきた日本政府関係者:韓国併合推進派・大陸侵略派」を筋道に踏まえた「二重狙撃説」などを,一蹴する意見を披露している。
とくに b) と c) について伊藤之雄は,自著『伊藤博文』「で述べたような基本的な権力構図を理解していない」「一次史料をじっくり読まずに,伊藤暗殺の『真犯人』探しのみをしている」主張であるときびしい批判を向け,それらは「安 重根以外の『真犯人』探しをしているだけである」と一刀両断する(571-572頁参照)。
この伊藤之雄の見解は,「伊藤〔博文〕の随行医師や秘書官らによる事件直後の情報として,小山医師や古谷の情報の方が,室田〔義文〕のものよりも信憑性がある」(571頁,〔 〕内補足は引用者)という理由で,前段に挙げた上垣外憲一や大野 芳,海野福寿などの「犯人複数・二重狙撃」説を,完全に否認・排除しようとしたものである。
伊藤之雄はもちろん,安 重根が裁判のときに「伊藤博文を射殺した動機のひとつ」に「伊藤博文が孝明天皇を弑逆したこと」を挙げていたことなどは,まったく問題外らしく,本書『伊藤博文』のなかでは言及していない。だが,安がそのように「伊藤による天皇暗殺」を法廷でメモまで用意して発言したことは,けっして噂話とか流説ではなく,実際の内容であった。
伊藤博文を論究し,大部の著作を公表した政治学者が,「伊藤博文は天皇を殺したテロリスト」と「安が口にしていた〈事実〉」を,完全に無視するどころか,完璧といっていいくらい黙殺する〈学究としての姿勢〉=執筆態度は,よく考えてみるまでもなく,ずいぶん不可解なあつかいである。
--伊藤博文射殺に関する疑問は,たとえば,つぎのように説明されている。なおあらかじめ断わっておくが,文中に出てくる室田義文の主張は,伊藤之雄が全面的に否定するものである。
★ 伊藤博文が本当に安重根の放った銃弾
によって倒れたのだろうか? ★
暗殺時に,伊藤博文の後ろを歩いていた貴族院議員室田義文は,安 重根が狙ったのは自分であると証言している。事実,室田はコートや膝に数発の銃弾を撃ち込まれている。安の拳銃は,ブローニング式7連発銃であり,6発撃ったことが確認されている。
さらに室田は,伊藤の弾痕が右上から左下へ入っていることをあげ,もし犯人が安が犯人ならば,彼はしゃがみ込んで銃を放ったわけだから,上から下へ痕がつくわけがない。伊藤はホームの上にある駅舎の食堂の二階の窓から撃たれたのだと断定,彼の身体に食いこんだ弾は,フランス式の騎馬銃だと証言した。いわゆる二重狙撃説だ。
これが事実ならば,伊藤暗殺の真犯人は,別にいることになる。けれども残念ながら,公式には弾痕の角度や弾の種類は,記録に残っていない。ちなみに室田は,ロシア兵が犯人ではないかと推定している。
また,この犯人複数説を支持する人のなかには,安重根の単独説ではなく,韓国人の仲間がいたのだとか,韓国併合を主導する日本の軍人によって暗殺されたという説もある。とくに日本軍人説は,伊藤が日韓併合に消極的で,緩やかな植民地支配を考えていたことから出た説である。
二重狙撃ならば,1963年のジョン・ケネディ大統領の暗殺,1983年のフィリピン・マルコス大統領によるベニグノ・アキノの暗殺などがある。
1 安重根は約10歩の至近距離から発砲し,伊藤に3発命中させ,随行の川上・森・田中を傷つけ,室田・中村の衣服を貫通させたが,ピストル連射で可能か?
2 証拠品として法廷に提出された安重根のブローニング式7連発ピストルの弾薬は空であったが,銃身に未発射弾1発が残っているので,発射数は6発という事になる。であれば,発射数と被弾数とが矛盾する。
3 伊藤に命中した銃弾の先端には,殺傷効果を上げるために,弾数に十字を刻んでいるが,それはピストルではなくフランス騎兵銃ではないか。
4 伊藤に打ちこまれた銃弾の射入角度は,3発とも上半身の右側から,斜め下に向いているから,狙撃手は高いところにいた3人がほぼ同時に発射したのではないか。
5 安 重根は伊藤の顔をしらず,「背が高く,口ひげを生やした人」と聞いていたので,長身の室田を小柄の伊藤と誤認したのではないか。
6 安 重根の裁判で,随員各氏の尋問調査が採用されているのにもかかわらず,室田の陳述が無視されたのは不全不自然である。
7 現場を撮影したロシア人写真師がしたフイルムの売りこみを日本政府が断ったのは,安 重根を狙撃犯と決めてかかっていたからでは?
8 ココフツェフが語った,前夜,「騎兵銃を持った怪しげな3人の朝鮮人が隣駅付近をうろついていたがとり逃した」という,その朝鮮人こそ,狙撃犯ではないか?
註記)http://blogs.yahoo.co.jp/rakuten23/51430569.html ⇒ 本日,2025年12月31日現在であらためて検索したところ,この文章は削除されていた。
補記)なお,安 重根が伊藤博文を射殺したこの事件に関連させてとなれば,2022年7月8日に発生した殺人事件,「統一教会2世」の山上徹也が手製散弾銃で元首相安倍晋三を銃殺したとされる事件に似た要素が介在していた,と観察できる。
つまり,伊藤博文が狙撃された状況(状態)と安倍晋三が狙撃されたそれとは,いくつか酷似した「犯行状況」が記録されていたからである。
安倍が被弾したあと,心肺停止状態で奈良県立医科大学に搬送されてからは,同医学部の福島英賢教授(救急救命担当)の手当・治療を受けており,しかもその医療行為(結果は死亡)について同教授は事後の記者会見で,素人でも難なく明快に理解しうる範囲内で詳細に報告していた。
ところがである,にもかかわらず--いまでは誰もがその情報に接することができるという意味--,この間における「即時・継起的な出来事(経過)」に一番くわしいはずの同教授による「関連の,安倍晋三が狙撃されて死亡した原因究明をめぐる説明じたい」を,不可解にも証拠としては採用せず完全に除外したかたちで,犯人とされる山上徹也の裁判員裁判が進行していった。
警察側の「解剖所見(法的なそれ)」だけが公判で証拠として採用され,福島教授が現場で加療に当たってえられたはずの,それも直接に関連する情報・知識を,そのすべてを採用しないというあつかいは,最初から検察側が除外したことになるゆえ,きわめて不自然で奇妙な「公判をめぐる法的手順:証拠採用」の取捨選択がなされたと,そのように観るほかあるまい。
以上のごとき事実は,伊藤博文が暗殺された事件に関して,室田義文--現場で実際に伊藤に同行して居合わせたがために,安 重根から狙撃され被弾した人物--の証言を採用しなかった点に共通するなにかある,と判断されても「なんらおかしいことはなく」,つまり「不自然な理解ではない」
この種の疑問点(問題意識)は,たいした推理力など不要であって,当然に浮かんでくる。要は,伊藤博文と安倍晋三の殺人事件は,犯行現場において生起していたと推理されるべき状況が,ほぼ完全だとみなしていくらい類似していた。
ここではひとまず山上徹也の問題は脇に置くとしても,こうした種類の「安 重根による伊藤博文射殺」に関する疑問提示を,伊藤之雄『伊藤博文』はごく軽く一蹴していた。しかし,伊藤之雄自身の立つ「学問の立場」は,そのように断定的に排斥した「相手の諸見解」側に対して,必らずしも十分に納得させるだけの実証的な論拠を提示できていない。
それだけではなく,批判し否定すべき相手の論拠に食いこむ論駁をみずからは提供せずに,ただ自説とは見解が異なるからといって,一方的に自説の根拠だけを提示しつつ,ひたすら排撃するやりかたを前面にせり出した論法が顕著であった。これでは,対立者との議論・対話・批判交流は最初からむずかしくさせるだけである。
それほどまで自説に強く自信があるなら,批判・否定する相手たちの根拠不足,実証不十分な箇所をもっと突き,徹底的に分析,批判し,論破するための論及・考察をおこなうべきであった。にもかかわらず「オマエたちは」「一次史料もろくに吟味もしないで」,全然なにも「分かっていない」とただ高踏的にいわんばかりであり,もっぱら「反撥心を剥きだしにする姿勢」だけを際立たせていた。
しかも,伊藤博文を並み以上に格別にあつかいをし,相当な水準にまでもちあげて「偉人あつかい」している処理もみられる。明治の時代に傑出した政治家:伊藤博文を,いってみれば問答無用的に理想化したかのような学術的態度が,伊藤之雄の「伊藤博文」論に寸毫でも入りこんでいたとすれば,これは研究の姿勢において要注意である。
3 傍論:中村菊男『正統なき時代-天皇制ファシズム論と日米戦争-』毎日ワンズ,2009年10月に記述された「明治天皇と伊藤博文の仲」
中村菊男は,『正統なき時代-天皇制ファシズム論と日米戦争-』(毎日ワンズ,2009年)のなかで,「明治天皇と伊藤博文」という対と「昭和天皇と近衛文麿」という対を比較させて,こう論及していた。
「明治時代の政治においては藩閥勢力が政治を壟断していたといわれる。しかし,こうしたなかにあって比較的派閥をつくらなかったのが伊藤博文であるが,その伊藤には明治天皇の絶対の信頼があった」
「伊藤はこの天皇の信頼をよいことにして勝手な振舞いをしたこともあるが,しかし,天皇絶対の信任を受けているということが伊藤の政治に箔をつけたといえよう。伊藤のリーダーシップは明治天皇の権威によって発揮しやすかったが,
はたして昭和天皇近衛〔文麿〕との間にこのような人間的なつながりがあったのであろうか。もちろん,明治天皇と昭和天皇とは性格もちがい,時代もちがうが,もし近衛にして天皇の絶対の信任を受けているという自信があったならばその政治力はもっと強化されていたかもしれない」
註記)中村菊男『正統なき時代-天皇制ファシズム論と日米戦争-』毎日ワンズ,2009年,172頁。〔 〕内補足は引用者。
明治の時代と昭和(戦前)の時代の相違性だといっておけば,それで済む論点だとは思えないが,このように「仮定や条件」をたくさん用意しておかねば「話になりにくい筋立て」は,「はたして生産的な議論たりうるか」という疑問を抱かせる。
「歴史にイフはない」という前提で話を進めるにしても,仮説「論」で「たられば」話に跼蹐するごとき話法に傾く論法は,賛成できない。
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【付 記】 「本稿(12)」の続編「(13)」は以下である。
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【参考文献】
