「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性をめぐる考察(13)
【冒頭断わり】「本稿(13)」はつぎの前編(12)承前である。なお冒頭にかかげた画像で「左側の天皇・皇后陵(予定)」とは,明仁と美智子のために用意されている墓の位置関係(区画)であり,昭和天皇夫婦のそれと比較して観る余地がある。
1 工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年に学習しながらさらにつづける議論
本記述(全体)は,「〈著者に聞く〉『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/ 工藤隆インタビュー」『web 中公新書』2017年12月7日,https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html を参照したことがある。
しかしそのときは,とっかかりだけの,ほんの少しにだけしか言及しえなかったが,そこからいきなり,関連する枝葉に相当する諸問題に論旨が分散していく記述になっていた。ここでは舵を取りなおし,この「工藤に対するインタビュー記事」の本筋:本論に立ちもどった記述となる。
〔インタビュー記事に入る ↓ 〕 なお以下の引用は常体に書きかえている。また◆の段落は工藤,◇は聞き手のそれぞれ発言である。若干の文体補正もくわえてあるが,文意にはいっさい影響がない範囲内で手出しをした。
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◆ もうひとつ,大嘗祭のおこなわれる旧暦11月下旬は,新暦では冬至のころにあたる。この時期は,季節的な衰弱・仮死の冬から復活し,春を引き寄せようとする鎮魂祭がおこな行われる時期でもあった。
この自然界の生命力復活の祭祀に,収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ,そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって,大嘗祭が形成されたのである。
ということは,この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬におこなわれないと,自然界の生命力復活という大きな呪的目的がみえにくくなる。〔ところが〕旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために,季節感に1か月余のズレが出てしまった。
ということで,できるならば,大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよく,それができないのならば,想像力で,きょうは実は太陽の力がもっとも弱まる冬至のころで,暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして,大嘗祭の報道に接するとよい。
◇ 最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。
◆ 21世紀の日本にも,その基層には,アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や,歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が,濃厚に生きつづけている。このような文化資質は,西欧的な近代化を基準とすれば,“後れた文化” という印象を受けるでしょう。しかし,西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。
1700年代のイギリスでの産業革命以後,資本主義経済が地球規模に広がり,21世紀の現在では,発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と,地球財の消尽が加速度的な勢いで進行している。
そのうえ,核兵器や原子力発電所の登場によって,地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえみえてきた。
このようなときにこそ,日本の基層文化であるアニミズム系文化が,そのような生存環境崩壊の流れに対して,ブレーキ役を果たしうる。アニミズム系文化には,自然と共に生きる思想がある。
生態系を重視するエコロジー思想とも通じているし,またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は,「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆する。
補記)この付近の全地球的次元における環境問題に関して,さらに聴いてみた工藤 隆の具体的発言は,これ以上には必らずしも明解に論及をおこなってはいない。前段の表現「GDPはほどほどに」とはいっても,国際次元における経済競争からの圧力・影響を考慮するとき,
そのような「ほどほどに」といった制御の気持ちを明示してみたところで,はたしていかほどに現実味をもった対応力の形成になりうるか,また直接の議論として使えるか,全然おぼつかない。それゆえ,もっと積極的にする考究が,工藤の立場から教示,展開されることが望ましかった。
〔記事に戻る→〕 またアニミズム系文化は,近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し,寛容さを示す心性ももっている。また神話が示す世界は,人々の空想力を豊かに展開させてくれるし,恋歌文化の伝統は,潤いのある感性を育てる。そして,縄文文化に典型的なように,女性原理が強いので平和志向も強い。
そのうえ,日本文化には,島国文化・ムラ社会性という特性もあり,そこには,人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のようなえがたい美徳がある。
ただし,これらの文化資質は,近代合理主義を基準とすれば,たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もある。そこで,近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて,その弱点を補う必要はある。
補記)以上の工藤「説」はもっともであり,基本的に本ブログ筆者も賛同できる。だが,その「日本文化」の「島国文化・ムラ社会性という特性」は「人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のようなえがたい美徳」が控えている,といったたぐいの「日本論」的な発想は,その立論の基盤がまだ不明解というか論旨に関して薄弱な脈絡しか感得できない。
日本人論や日本文化論が,いまから半世紀以上も前から非常に盛んになっていた事情には,米欧側の資本主義陣営が,第2次大戦後における社会主義陣営の勃興・布陣の拡大に備えて,日本をもり立てて対抗させる意味あいがあったからで,
とくに敗戦後史において日本が,1950年6月25日に起こった「朝鮮戦争の特需」で息を吹き返すことができた,いわゆる千載一遇の経済好機を与えられた日本の社会経済の発展に注目する方途で,この関心事が日本の伝統社会にまで関心が拡げられる方途で,「日本研究」が展開されるようになった。
例を挙げて説明する。
▼-1 ルース・ベネディクト,長谷川松治訳『菊と刀 上・下』社会思想社,昭和26〔1951〕年は,日本と戦争をしたアメリカ側の文化人類学者が日本と日本人を,文化人類学の視座から考察した本であった。
この本について日本側から返された評価は,大きい幅(ブレ)を生じていたものの,それでもともかく,アメリカと戦争をした「日本という国の人びとのその特質」を,特定の学問方法「文化人類学をもって解明した」ところに対しては,それなりに高い評価が与えられた。
つぎにかかげる画像資料は,『菊と刀』に言及した日経コラム「春秋」である。

その後における日本人史?
本ブログ筆者の手元にあるこのルース・ベネディクト『菊と刀』(文庫版)の奥付をみると,「上」のほうは「昭和41〔1966〕年8月6日」の「再版」「第37刷」,「下」のほうは「昭和41年8月5日」の「初版」「第48刷」と印字されている。
この本の日本語訳初版は,長谷川松治が翻訳し,1948年(昭和23年)12月28日に社会思想研究会出版部から発行されて以来,現在まで長期にわたり累計100万部を超える大ベストセラーになっている。
その1948年の翻訳本の出版後,本ブログ筆者のもっている社会思想社(現代教養文庫版)につづけて,複数の版元,講談社学術文庫,光文社古典新訳文庫,平凡社ライブラリーなどから,現在も継続して販売されている。いってみれば「定番のロングセラー」である。
現在では,原文の英語に日本語訳を対応・並列させた体裁になる日英対訳版まで公刊されている。
▼-2 工藤 隆の日本の原始宗教論に対する研究は,きわめて高い独自性を誇る中身である点は,東アジア地域全体に視野を広げて,現代国家的に定められている国境などを,ひとまず超越した「比較宗教史的な解明」をしたうえで,日本の神道を照射しなおしたところから理解できる。
それゆえ工藤は,ただ単細胞的に「日本神道はすばらしい,いにしえからの永い伝統を有する日本独自の宗教史を有する」などいった,なんというか,単なる唯我独尊的のナルシス的な感性とは,いっさい無縁の「比較宗教史の時間軸」を基本に踏まえる論著をものにしてきた。
〔記事に戻る→〕 日本は,古代に,〈国家〉をめざさない少数民族文化の特徴をもっていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し,それを21世紀の現代にまで維持してきている。
古代国家形成期の経験を生かして,明治期の近代化にも成功した。したがって,その歴史体験からえられた知恵も動員して,今後とも,アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく,模索を続けていくことが必要である。
最後に付けくわえる。私〔工藤 隆〕が20歳のころ(1962年)は,まだ1945年までの,軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が,教養人一般の感情に強く残っていた。その結果,天皇存在そのものはもちろん,天皇と密接な関係をもつ『古事記』や伊勢神宮に対しても,同じような反感と違和感をいだく教養人が多かった。
しかし,敗戦後の新憲法で,天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれ,残ったのは,アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面であった。
したがって,敗戦後72年を経た現在では,天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが,そのまま右翼的な国粋主義思想や,偏狭な愛国主義に向かうのではない道がみえてきている。
アニミズム系文化を継承しているそれらは,エコロジー思想にも通じる,地球規模の文化遺産としての普遍性をもっていた。そのような文化特質が,かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ,21世紀日本の独自性がある。
補記)このあたりは,インタビュー記事での説明とはいえ,若干の違和感を抱かせる工藤の発言になっていた。この気になる発言を少しつぎに議論しておく。
▼-3 要するに,感覚的にだがあえて定性的な理解を定量的に表わすことにしたら,「日本流のアニミズム系文化」「対」「西欧的近代化系〔文化〕の併存」が「21世紀日本の独自性」になっていると解説する場合,この両者の割合・比率(足し算や割り算,そして思考上想定しうるごとき暗算的な掛け算など)は,はたしていかほどに・どのようなモノになりうる(?)のかという点が--もっともその種の数値化はなかなか困難であり,表現じたいがしにくいのだが--どうしても気になる。
もちろん,その種の議論はそう簡単には割り切れず,平均的な日本人の精神的な内部構造に即していうのだとしても,その「日本と西欧双方」の併存関係の実態というものは,なかなか見極めづらいというか,実際にはほとんど不可能であった。この問題の指摘は,工藤の議論(説明の仕方)に関していうとしたら,社会科学的次元での記述(分析・解明)にまではいたっていないところが残念であった。
〔記事に戻る→〕 最近,若い人たちが,伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と名づけたりして,それなりにもりあがていたようである。それは,それらの地域に凝縮されている,縄文・弥生時代以来の,人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからだと思われる。
私たち人間の生存の原点をみつめようとしているという意味で,それはとてもよいことである。ただし,その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような,心のしなやかさをもちつづけてほしい。
補記)この最後の印象となった工藤 隆の発言には,若干だけだが強い疑問を感じる。戦時体制期における,つまり,敗戦時まで旧日本帝国時代がそうであったごときの,「過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせない」点を強調したところで,これまでの日本政府(主に自民党系政府権力の話だが)の基本姿勢は,それらの「封建遺制主義」の現代風衣装を,まだまだたっぷりまとっているゆえ,
たとえば,世襲4世議員まで輩出されている現状日本の政治体制のもとでは,無理難題中の最難問が,解決されるようなメドすらうかがえないゆえ,そうした「非先進国風での遺物的な政治体制」がこれからも持続されていくほかないのが,「21世紀における日本政治の特性」であるといわざるをえない。
先日(2026年7月下旬に)国会で成立した皇室典範改正案をめぐっては,たとえば自民党の政調会長である小林鷹之が,日本という国は「紀元2600年以上の,神武天皇以来の悠久なる歴史を有する・・・」などとウンヌンする発言を放っていた。
つまり,その点を具体的に説明するとこの小林は,2026年7月10日の衆院議院運営委員会などでなんども,「皇位の男系継承は2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統だ」と述べ,「男系天皇継承の重みと歴史的意義を強調した」つもりであった。
だが,これほど天皇・天皇制史の基礎知識を無視した意見はなく,ただ恥ずかしいだけの,古代日本史に関する自身の貧弱な知識をさらけ出した。この東大法卒の国会議員は,無知蒙昧同然の自国:古代史観をかざし,しかもそれをもっともらしく語ったところは,恥さらしであったどころか,選良としての資格すら疑われた。
【人物紹介】 工藤 隆(くどう・たかし)は1942年栃木県生まれ,東京大学経済学部卒業,早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了,同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科教員を経て,現在,同大学名誉教授,専攻,日本古代文学。1995年4月~1996年3月,中国雲南省雲南民族学院・雲南省民族研究所客員研究員。
【主 著】『古事記の起源』中公新書,2006年。
『古事記誕生』同,2012年。
『日本芸能の始原的研究』三一書房,1981年。
『大嘗祭の始原』同,1990年。
『ヤマト少数民族文化論』大修館書店,1999年。
『歌垣と神話をさかのぼる』新典社,1999年。
『中国少数民族歌垣調査全記録 1998』共著,
大修館書店,2000年。
『中国少数民族と日本文化』勉誠出版,2002年。
『四川省大涼山イ族創世神話調査全記録』大修館書店,2003年。
『歌垣の世界』勉誠出版,2015年。
⇒ 本書は第33回志田延義賞受賞
以上に挙げられていない2025年まで著作は,本文・末尾にいつも挙げている【参考文献】(アマゾン通販)において,何冊か挙げることにする。
以上に紹介しつつ,かつあれこれ批評も試みた「工藤 隆のインタビュー記事」は,中央公論新社から発刊した著作をめぐってのインタビューであって,しかもだいぶオブラートに包んだ表現で応えてもいた。
しかし,前後する本ブログの記述では,「本稿(8)」以下において詳細に引照し,議論してきた「工藤の主要著作」を念頭に置き,学術性を慎重に考慮しつつ,遠慮なく論説し,批評をくわえてきた。
2 大嘗祭を頂点とする天皇文化
工藤 隆は,天皇文化としての大嘗祭に象徴される根の深さに論及する。
大嘗祭は第1に,生命の永遠性を象徴する原鎮魂祭の思想=「人間にとっての根源的な願望を満たす幻想の装置」性を体現している。
それは第2に,あの〈祓いと禊〉の思想を体現していて,これまた「幻想の装置」性を発揮している。
「秘儀性の意図的な強調」があれば「人々は,その秘儀性に誘いこまれるように,そこに実体以上の崇高なるものを幻視する。そしてそれは,まさに幻視であるがゆえに,人々の意識のなかに,恣意的といっていいくらいにさまざまな像を結ぶ。すなわち空無性は,秘儀の衣をまとうことによって,多様な解釈を許容する神秘性となり,崇高性そのものへと上昇する」
ただし「この〈祓いと禊〉の思想は,現代における国際的な局面では,侵略戦争など,日本という国が犯した犯罪を,その水に縁の深い性格そのままにあっさりと “水に流して” 終わりしてしまおうとする,忘れっぷりのよさとしても現われてくるから,しばしば大変困った問題を引き起こすことになる」
註記)工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年,221頁,231頁,221頁。
大嘗祭は第3に,稲という,日本にあっては長い期間にわたって農作物の王であった穀物の稔りを保証する思想を体現している。高度経済成長後の現在でこそ,稲はそれほど貴重に思われなくなってしまったものの,人間が食料なしに生きていけない以上,その食料全体の象徴として稲をとらえれば,稲は営々の生命を保証する大嘗祭の思想もまた,簡単には否定できない。
註記)同書,221-222頁。
その第4は,〈男〉である天皇が実は〈女〉を演じている「その構造に象徴されている」ものである。このことは,天皇の文化の全体に漂う “女性的な” 雰囲気に関連し,天皇の宮廷で形成された主に奈良・平安時代に代表される貴族文化一般にも感じられるものである。
貴族文化とは結局,神を偽装する天皇の文化を,臣下の立場で模倣しているから,両者に同じような雰囲気があるのは当然である。もっとも,女性的な文化はかなりゆとりのある経済状態でなければ維持できない。高度経済成長後の日本しかしらない現代の若者たちの感覚において全体として,少々そういった女性的で貴族的な雰囲気が漂いはじめている。
註記)同書,222頁。
その第5は,偽装による大嘗祭ではあっても,実はこの偽装といういわば〈演技〉にもまた人は惹きつけられることである。人間の〈生〉を支えている根本のものはこの〈演技〉だということになる。その観点からみれば,天皇の文化はその演技の完璧さにおいて,なかなかあなどれない力をもっている。
註記)同書,222-223頁。
最後の第6である。天皇が超越的存在であるという観念に包まれ,これによって,現代の庶民からみれば,天皇の世界じたいが他界になっていることである。手が届かないからこそ,熱い願望の対象になるのが他界だとすれば,民主主義の理念からいえばはなはだ逆説的ではあるが,天皇の世界は,超越的であるがゆえに人びとの他界願望を満たす機能も果たしていることになる。
註記)同書,224頁。
3 天皇の文化に関して注意すべきこと
以上にまで説明した特徴をもつ「天皇の文化が,根源的には神の偽装から発している」点は,「人間でありながら超越的な神でもあるという,現人神信仰を基礎にもつことなしに,天皇の文化は成立しえない」
「したがって,これが現実の政治権力と結びつくと,容易にファシズムへと傾斜していくことになる。選挙といった相対化の手段を拒絶し,超越的で絶対的な権力をめざすのがファシズムである」
「そういった勢力は,典型的には,半世紀前の日本で軍国主義的ファシズムがそうしたように,天皇のその超越的絶対者の性格を,民衆を押さえこむために利用しようと考えるものだ。日本文化のなかに占める天皇の文化の位置が大きいだけに,よりいっそう,いかにしてそれを現実の政治権力から遠い位置に置くかということは,強調しても強調しすぎることはない」
註記) 同書,224-225頁。
さて工藤は,戦争の時代に犯した「天皇の文化」の,いうなれば,明治維新を契機に創造され登場した「帝国主義時代の神格的天皇制」の,それもとくに「現人神:昭和天皇自身が犯してきた政治犯罪的な行動様式」を生んだ,その原始宗教的な基盤を批判したわけである。
なお工藤は,自身のホームページにさらに,こう書いていた。
〈古代の近代化〉の過程において日本古代国家は,〈国家〉の政策として,伊勢神宮を頂点とする神社体系・祭祀体系を整備した。明治の近代化においても,この政策は維持され,それどころかさらに手をくわえて強化された。その意味では,〈古代の近代化〉以来明治の近代化まで,神社はつねに〈国家〉と結びついていた。
〈古代の近代化〉の場合は,対外侵略戦争には向かわなかったので,神社体系・祭祀体系はあくまでも内向きの意識だけで敬っていて外国とのあいだに問題は生じなかった。しかし,明治の近代化における靖国神社は,植民地獲得をめざして対外侵略をする近代国家と結びついていたので,当然のことながら靖国神社は外側の国々からみて無視できない存在になってしまった。
註記)以上の引用は,http://homepage3.nifty.com/offi-kd/sub07.html#靖国問題 からであったが,現在,このリンク先住所は不在(削除)である。
この枠内に引用した工藤の発言は,それならば伊勢神宮を裏側から陰でささえるべき国営神社:靖国神社の存在も,ここでは併せてとりあげ言及すべきであったはずだが,そうなってはいなかった。
侵略戦争をする,必然的に犠牲者が兵士を中心に発生するが,この死者たちの国家的な意義づけとしては,靖国神社境内では「英霊(死者の亡霊)」が,なんと〈英雄あつかい〉だけされ,「合祀されている」という。
靖国神社は死霊のための神道式の施設でありながら,実は国家じたいのために,まだ生きている兵士たちに対して「死を覚悟させる」ための,国家神道式の精神形成装置であった。
しかし,第2次大戦の結果は旧大日本帝国に完敗をもたらした。だから,その勝利神社である基本性格を規範とした靖国神社は,敗北した国家になっていて,従来,官軍神社であり勝利神社であったはずの大前提条件も奪われたからには,1945年夏以前の存在形式はありえなかった。
にもかかわらず,靖国神社は付設の遊就館という戦争博物館の展示物が正直にも物語っているように,なぜ,旧大日本帝国があの戦争に勝利できなかったかを,反面教師と形容する以上に真顔でみずから語っている。ところが,この神社は,戦敗した自国の軍事史など,どこ吹く風といった表情でいられるのだから,まことに奇っ怪な光景が九段下には実在する。
補記)靖国神社「遊就館」内に保存・公開の旧日本軍の兵器などの「写真一覧」は,つぎのリンク先住所を観てほしい。結局,第2次大戦中においては,アメリカ側の大量生産体制と品質管理水準が日本軍側の兵器・武器を圧倒できる基本的な条件・要因になっていた事実など,そっちのけで,この遊就館は「ゼロ戦はスゴかった,秀抜な性能を有していた」というたぐいの,敗戦後的優越感(このような意識がありうるかどうかはさておき)を,来館者に与えることが目的であるのか?

張りぼて同然の造り(装甲)であった
戦争博物館のもっている本来の役目・使命とはかけ離れて,「旧日本軍はかく戦えり!」という懐古趣味談に逃げこんだごとき展示物が,遊就館の売りということであれば,これこそがまさにアナクロニズムの好例・典型・見本だというしだいにあいなる。
〔記事に戻る→〕 ところで,昭和天皇の息子である平成天皇は,「平和の時代」を生きぬくための「皇室戦略」的な思考を深めつつ,皇后であった美智子をともない行動してきた。
しかしながら,戦争の時代か平和の時代かの違いはあっても,天皇みずからが「現実の政治権力から遠い位置に置く」という抑制意識:緊張感をわずかでも欠くのであれば,過去の過ちが繰りかえされないという保証はない。この問題意識は,現行の日本国憲法をどのように改正するかという論点にもつながる。
「玉」(ギョク)としての天皇を,いつも「玉」(タマ)として政略的に利用しようとする政治家や政治的集団が,この地上からいっさい存在しなくなることがありえないかぎり,天皇という「政治的な皇族の実在」は,日本の政治運営=民主主義体制にとって「獅子身中の虫」「パンドラの箱」であった事実を意味する。
その事実は,敗戦直後に日本を占領・支配・統治したGHQが,アメリカ政府の利害第1の立場から天皇・天皇制を残置させた点に観取できる。人民に対する統制にきめ細かさが,宮内庁を担当機関とする日本政府側によって確保可能になっていたからこそ,GHQのそうした日本の占領管理体制じたいが,おおきな問題を惹起させることなしに,円滑に進行していったといえなくはない。
敗戦後に実施された昭和天皇のいわゆる「巡幸」は,第2次世界大戦に降伏した直後の1年も経たないうちの1946年2月に始めてから1954年8月までの,いうなれば「日本の混乱期から復興期にかけて」,裕仁が各地を巡った行動のことである。
足かけ9年間もの「巡幸」を当初開始してからというもの,意外とその反応の良さに手応えを感じた宮内庁など政府筋は,この計画の実行により「国民の統合」意識の形成に役立ちそうな「天皇の存在」意義を大いに認識させられ,いってみれば,その反面ではという点では「衆愚民主主義」国家体制の形成にも役立った「天皇の巡幸」を,まさに大いに政治利用した。
4 ところで,話は飛ぶように聞こえるが,敗戦後80年が経過した日本国(旧大日本帝国)は,あの戦争体制の時代を経てきただけに,その負の遺産をいまだにたくさん放置した状態を余儀なくされてもいる。
たとえば,最近報道され話題になったのは,戦時中に強制労働体制に駆り出されたが,誰にも看取られることもなく死んでいった,いいかえると「事故死した場所にその遺体が放置されていた」植民地出身の朝鮮人たちの存在が,いまごろになってだがあらためて,日本全国各地に刻まれた多数のその「事実の一例」再発見となって注目された出来事である。
以下に引用する新聞記事(『朝日新聞』が報道した解説・インタビュー記事)は,敗戦後80年もの時が経った2025年に明らかになった一件であるが,この報道が,前段に指摘してみた朝鮮人たちの存在(もちろんすでに遺体:遺骨になっていた)が,いままでどのようなあつかいを受けてきたかをしっておく必要を教えていた。
▲ 山口の長生炭鉱 遺骨収集の経緯と課題 九州共立大・大和教授に聞く ▲
=『朝日新聞』2025年2月5日 10時30分,
https://www.asahi.com/articles/AST243VCST24TZNB004M.html =
戦時中の水没事故で183人が死亡した山口県宇部市の長生炭鉱に残る遺骨を収集しようと,市民団体「長生炭鉱の水非常(みずひじょう)を歴史に刻む会」(刻む会)が調査を続けている。
遺骨収集をめぐる経緯や課題については,九州共立大の大和裕美子教授(43歳,国際関係論)聞いた。なお,以下では◇は聞き手,◆が大和教授である。
◇ 研究成果として,大和裕美子『長生炭鉱水没事故をめぐる記憶実践―日韓市民の試みから』が2015年に,花書院から出版されています。(なお,遺骨収集に向けた刻む会の活動の経緯は,大和の同書を参照を願いたい)。
◆ 刻む会は1991年の結成当初は,水没事故の犠牲者の追悼碑建立を目標に活動してきました。遺骨収集に本格的に動き出したのは,追悼碑を建てた2013年以降です。刻む会としては,長生炭鉱の立地する宇部市を動かして遺骨を収集する,というのが理想でした。
◇ 当初から行政主導の遺骨収集を求めていた,ということですね。
◆ 刻む会が追悼碑を独力で建てたことが,遺族にはかえって,「行政はなにもしてくれなかった」と映ったと思います。こうした遺族の思いも踏まえて,刻む会は宇部市と50回近く協議を続けました。しかし,宇部市を動かすことはできなかった。
◇ 刻む会が昨年,坑道につながる坑口を発掘し,独自の潜水調査を始めました。
◆ いまのように,刻む会が自分たちで資金を集めて動こうと思えば,もっと早く動けたはずです。やはり,刻む会としては行政を動かして遺骨を収集するところに目標がありました。
◇ 長生炭鉱の事故をめぐる行政の動きとしては,韓国政府が真相究明委員会を立ち上げました。
◆ 韓国は国の組織として調べましたが,日本は韓国に比べてフォローしていない。実態を解明するという点で,国の関与が非常に乏しかったと思います。
◇ 宇部市だけでなく,日本政府も長生炭鉱の遺骨収集に関与することに消極的です。
◆ たしかに,戦没者の遺骨収集を「国の責務」と定めた戦没者遺骨収集推進法の対象に,長生炭鉱の死者が含まれないという日本政府の主張は理解できます。
◇ しかし,遺骨が収集されずに置かれている状況を,人間としてむげにはできないという「人道的な観点」は重視すべきです。
◆ たとえば,日本統治期に植民地から来日して死亡した人の遺骨を収集するための組織を日本政府内に立ち上げて,遺骨収集に関与する仕方はありうるのではないでしょうか。
◇ 日本政府が関与する必要性があるということですか。
◆ 刻む会の活動の結果,遺骨がみつかり,遺族の元に戻ってくれば,遺族に喜ばれることでしょう。しかし,国は遺骨の収集にかかわらず,謝罪もない。結局,なにも関与しなかった,ということになれば,どうでしょうか。
追悼碑を建てた時と同じように,国に対する「しこり」が遺族には残るのではないでしょうか。遺族との「ベストな和解」には,国の関与は必要だと考えます。
a) 長尾炭鉱関係記事の紹介
◆ 安田菜津紀 「『日本政府はこの遺骨に答えて』
-長生炭鉱で83年後の発見,問われる公の責任-」◆
=『Dialogue for Peace』2025年8月26日,https://d4p.world/32963/ =
(本記事にはご遺骨の写真が含まれています。)(以下に記述される指定の画像の参照は割愛した)
肌を刺すような強烈な日差しの下,海辺に集う人々の視線は沖に並ぶピーヤ(排気・排水筒)へと集まっていた。その海から突き出た煙突のような筒から,小型のボートが水しぶきをあげてこちらへ向かってくる。
ダイビングスーツに身を包んだ韓国のダイバー,金 秀恩(キム・スウン)さん,金 京洙(キム・ギョンス)さんを,「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下,刻む会)の井上洋子共同代表らが浜辺で迎えた。金 京洙さんが抱えていた大きな箱から頭骨がみえると,囲んでいた取材陣,ご遺族,支援者らが息をのんだ。
真っ黒に染まり切ったその姿が,あまりに長い年月と,そこが過酷な炭鉱であったことを突きつける。
2025年8月26日,歯も残された頭蓋骨とみられる遺骨が,ダイバーたちの手によって地上へと連れて帰られた。80年以上もの月日,海底でこの日を待ちつづけていた人だろう。
前日には,大腿骨などとみられる3本の遺骨が発見され,警察に手渡されたうえ,鑑定を待っているが,今回発見された頭蓋骨も,そのすぐ傍からみつかっている。
この日発見された頭蓋骨のほか,前日25日にみつかった骨を含めて人骨であることが警察の鑑定により明らかとなりました。(2025年8月27日追記)
発見された頭骨。現場の周辺には,まだ多くの遺骨や遺品が残っているという。(安田菜津紀撮影)(関係の画像は紹介しない)
ダイバー2人によると,付近には複数の靴や,服をまとって横たわっている上半身も含めた遺骨も確認できたが,続く捜索による浮遊物で視界が悪くなり,今回は頭骨のみをもち帰ったという。
長生炭鉱は,かつて山口県宇部市・床波海岸に存在した海底炭鉱だ。戦時下の増産体制のもと,多くの石炭産出が求められるなか,「水非常」は起きた。
1942年2月,坑口からおよそ1km奥へ入った坑道の天盤が崩壊。海水が浸水し,183名もの坑内労働者が犠牲となった。そのうち136人は,植民地支配下であった朝鮮の人々だった。冷たい海に呑まれた遺骨はみな,海底に眠ったままだった。
長生炭鉱は別名「朝鮮炭鉱」とも呼ばれるほど,労働者の大部分を朝鮮の人々に依存し,「安価な労働力」を踏み台に成長してきた企業だった。
「刻む会」は2024年9月,長年の調査を経て,市民から募った資金をもとに,水没した炭鉱へとつながる坑口を発見し,以後,潜水調査を重ねてきた。しかし市民のみの自主的な活動に任せるだけでは,資金面でも体力面でも,そして危険性を考えても,あまりに負担が大きい。
しかし2025年8月19日,「刻む会」の要請に対し,厚労省人道調査室の担当者は「知見をもつ人に話を聞いているが,現時点では安全を確保したうえでの潜水調査に資する新たな知見はえられていない」とした。
“知見をもつ人” が誰なのかに留まらず,聞き取りの回数や人数なども明らかにできない,という不可解な回答だった。
今回駆けつけた遺族らは匿名で取材に応じ,「亡くなった方々が海のなかからどんな思いで訴えてきたのかを,昨日からずっと考えていた」「対面できて感無量。ひとりでも多くの方が一日でも早く地上に上がってくることを祈るばかり」と語った。
井上共同代表は,「このようなご遺骨がまだたくさん坑道のなかで救出を待っている。日本の戦争,日本が始めた植民地政策のために,ここで亡くなったみなさまを,政府は放っておくのでしょうか。日本政府にはこのご遺骨に答えて頂きたい」と,あらためて訴えた。
石破〔茂〕首相は「全戦没者追悼式」で「反省」という言葉を口にしているが,それはなにに対する,誰に対しての反省なのか。
長生炭鉱の「水非常」が起きたのは,「戦争遂行」がかかげられた国策の渦中だ。「たまたま起きた不幸な事故」と片付けるのはあまりに浅はかだろう。
犠牲を生み出しつづけた植民地支配とレイシズムに対する検証と反省は十分なのか。こうした問いに真摯に向きあうのであれば,「公」の責任において一刻も早く,海底に置き去りにされた人々を探し出すべきではないだろうか。
海底には未だ多くのご遺骨が眠っている。戦争は「終わって」いない。(佐藤 慧撮影)
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この記事を書いたのは,「フォトジャーナリスト 安田菜津紀 Natsuki Yasuda」。1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人 Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。
16歳のとき,「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在,東南アジア,中東,アフリカ,日本国内で難民や貧困,災害の取材を進める。
東日本大震災以降は陸前高田市を中心に,被災地を記録しつづけている。著書に『国籍と遺書,兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ),他。上智大学卒。現在,TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
b) 長尾炭鉱関係の批評
戦没者としての遺骨収集は,いまもなお始末の付いていない「日本国じたいの責任」に属する戦後問題のひとつである。
旧日帝が植民地にしていた国家・地域の人びとの場合,以上のような事例として日本国内で残された死者たちの「遺骨」は,敗戦後80年もの時が経過してきたなかで,そのまま無視したまま忘れていたい態度だけは,はっきりしていたのが日本政府の意向であった。
自国民の戦没者収集に関しては,それなりに努力を傾注しているにもかかわらず,かつては「忠良なる臣民の仲間」であり,「一億火の玉」にもなって帝国日本のために働き,「一視同仁」の仲間だともいわれ,日本全国津々浦々の労働現場においては,銃後の日本を支えるための諸種の勤労に励んできた朝鮮人たちであった。ところが,いまとなっては顧慮される価値すらまったく認められていない。
実に冷酷な態度である。
すなわち,被植民地出身の彼ら・彼女らが,1945年夏まで旧大日本帝国のために「忠君愛国」の義を果たしてきた経緯を,21世紀にいまとなっては弊履のごとくに目線をそらしたまま,一瞬たりともみようともしない。なお,「ここでの彼女ら」のなかには「従軍慰安婦」の一群が含まれることは,申すまでもない。
だが,敗戦直後につぎのように発言した日本の首相がいた。
敗戦直後の1945年8月28日であったが,当時の東久邇宮稔彦首相は「一億総懺悔」を提唱し,軍・官・民の国民全体が反省すべきと訴えた。この発言は戦争責任を曖昧にしたうえで,指導層の全体責任を国民全員に向けて分散させるものだとして,批判を受けたのは当然であった。
ところで,2026年7月29日に報道されていたが,日本の人口統計が1億2千万人を切った。総務省が発表したところによれば,住民基本台帳に基づく2026年元日時点の人口は,日本人の住民「前年比91万6744人減」の1億1973万6483人となり,42年ぶりに1億2千万人を割りこんだ。なお外国人住民は,35万3696増の403万1159人となり,過去最多になった。すると2026年の1月1日時点での外国人・対・日本人の人口比率は,ほぼ3.37%となる。
さて,その人口比率は,敗戦時に日本国内に居た朝鮮人(台湾人・中国人も居たがここでは除外する)が,1945年8月には約200万人にまで増えていたので,当時の日本の人口約7200万人(沖縄県はひとまず除外)に対する(実質的な外国人)人口比率は,約2.78%となる。(除外した台湾人・中国人も分子に含めたらその分この比率は増え,3%前後にはなる)
ここで付記すべきは当時,日本帝国内に居たとされた日本人統計は,海外にいた兵士や移住していた国民たち700万人を含んでいなかったので,これを除外した統計の6500万人を当てたうえで,同上の比率を計算すると,約3.01%となる。
なにをいっているかというと,敗戦直後に急遽首相に就いていた東久邇宮稔彦は,当時は帝国臣民の仲間であった植民地出身の朝鮮人たちに対しても「オマエたちもいっしょにこの敗戦の責任をになうべきだ」と説いたのである。
この東久邇稔彦の「敗戦責任」をめぐる,それもきわめて調子のよい,すなわち,臣民たち「総員」のほうに責任転嫁を押しつけたいいぶんは,植民地出身の人びとに対しても同じにお裾分けする形で向けられていた。この点は,前段に触れたニュース,長生炭鉱水没事故の被害者に多くの朝鮮人が含まれていたが,その遺骨がいまなお放置されている事情を批判したなかで,説明してみたつもりである。
ともかく,東久邇宮稔彦はそのように敗戦直時,朝鮮人もまだ大日本帝国臣民なのだから,しかもその2等臣民であっても「オマエたちもいっしょにこの敗戦の責務を担うべきだ」と説教した。
この稔彦の発言の意図は,つぎのように説明されている。
1945年8月28日に東久邇宮がラジオなどを通じて発表した発言は,「日本の敗戦は政府や軍の政策の誤りだけでなく,国民全体の道義のすたれも原因である」としたうえで,「一億国民(臣民)すべてが懺悔して国を立て直そう」と主張した。
その狙いは「 皇族首相として,国民の意識を一つにまとめ,連合国軍による占領統治や武装解除を円滑に進める狙い」に絞られていた。しかしながら 戦争を主導した軍部や指導者の責任を薄め,一般国民も同じように責任があるとするすり替えの論理であった。
もっとも,日々の生活や食糧難に追われていた当時の人々のあいだでは,それどころではない,そう簡単には受け入れられない声もあったというのもしごく自然な気持ちであった。

このように「ナンジ人民飢えて死ね」というこのプラカード掲げた労働者がいた
当時の深刻な食糧難に対する政府への強い不満を表現したのであるが
事後に不敬罪の容疑で逮捕された
裁判では不敬罪に当たるかどうか天皇の尊厳を害したとして起訴されたが
のちに免訴となった(プラカード事件)
5 平成天皇の戦争指導
最近まで,日本の政治が披露してきた国家体制の変質・溶解現象,すなわち自衛隊のイラク派遣や教育基本法の〈改悪〉に代表された,つまり旧戦前体制への郷愁を実現させようとする保守反動勢力の意向や動向を踏まえるとき,彼らが「天皇の文化」を必らず政治的に利用しようと画策することは,すでに目の前に現われていた。
平成天皇は,イラクに派遣された部隊に対して,「天皇として慰労のことば」をかけていた。これが日本国憲法に定められた「国事行為」であるとみなされれば,すでに彼は,特定の意味をもって国軍の最高司令官の役目を果たしたことになる。その行為が憲法(第1条)上,どのような性質のものだと分類されようが,結局「督戦」を意味することは否定できない。
すでに,日本国にとって「天皇の行為」の危険な兆候が意図的に発現されている。自然災害の被災者を天皇が見舞うのとは,その行為の意味に関して「顕著,決定的な差異」があったからである。
「天皇および天皇制」の言説や行動を〈憲法の制約〉をもって律するのではなく,この天皇条項じたいを撤廃・廃止するための新憲法の用意が,不可欠である。工藤 隆のように,天皇・天皇制をあくまで基本的に認めるという立場なのであれば,この日本国がその軛から自由になれる時代は,永久にやってこない。
「天皇および天皇制」を冠に載せた現憲法は「政教分離」未達成の半封建・反現代の法規といわざるをえない。この天皇・天皇制の問題が神話物語にまで淵源を有する性質と断絶しえないかぎり,その疑いは絶対に消せないし,否定すべくもない。
つぎに掲示する資料は,マッカーサー元帥が日本国憲法を部下たちに作らせたとき,基本として必らず盛りこめと命じた3つの要点が書かれている。いわゆるマッカーサー・メモである。

事前に打ち立て指示した3つの原則が書かれている
もともと意図された自家撞着:大矛盾を含んだ文書であった
結局,Ⅲでは日本の封建制度は除去するといいながら,Ⅰでは天皇家(ダイナスティックス:王朝=皇室)は,継続させると断わっている。2026年も7月になって改正(?)されたという皇室典範そのものは,敗戦以前の中身を実体としては継承していたのだから,21世紀にいまどきに矛盾が生じるとかしないとかの問題などでは,そもそもからしてありえず,むしろ矛盾そのものであるとしか捕捉できない。
まただから,日本国憲法を改正したいのであれば,その必要がどこに向けられるべきかは,憲法学者にわざわざ尋ねなくともすぐに理解できる程度の,「問題の性質」になっていたはずである。この程度の問題に関してであっても,ふつうの憲法学者たちは,それもたいそう権威を有する者たちがですらこの付近の論点を直視する発言をしないで済ませてきた。
--再び,工藤 隆のホームページ(内の記述)に戻って,聞いておく。こちらも,つぎの引用枠内に紹介しておく。
現在の首相(小泉純一郎,「当時の話」となるのでこう書いている)が,個人的に靖国神社にどれほど熱い思いを抱こうとそれは彼の勝手だが,それが個人の問題や,日本国内の問題だけで済むというのは,縄文・弥生期のムラ段階の社会の感覚である。
自然と共生し,節度ある欲望を生きるムラ段階では,ただ良いものであったような原型生存型文化も,日本のように,国家段階にまで濃厚に生き延びると弊害も出てくる。そのプラス面とマイナス面をみきわめ,マイナス面をコントロールしながらプラス面を活かしていくという工夫が必要なのである。
首相の靖国神社熱愛行動の裏には,このファシズム時代以来の勘違いも潜んでいるに違いない。現代日本における,〈国家〉としてのリアリズム性と,縄文・弥生期以来のムラ段階的な反あるいは非リアリズム性との同時存在という二重構造を,政治リーダーや知識人は率先してみつめ続けなければならないのである。
(以上は,工藤の,前掲ホームページ「2005年8月22日」)。
6 あえてする「難題の提示」
昭和天皇の時代もそうであったことだが,平成天皇(の現役だった当時における話となるが)の国事行為的な象徴天皇としての言動には,現行の憲法体制を遵守すると明言したはずの「彼の確言」そのものがなし崩し的にされていく,いいかえれば,徐々に骨抜きにしていく兆候がみてとれた。
たとえば,網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家-』小学館,2004年は,こういう見解を示していた。
網野善彦は,歴史的な産物である「日本」という表現に関して,「はじめに日本人ありき」という枠組での歴史像を廃棄しろととなえている。なぜなら,それは事実に即さず,誤った歴史像だからというのである。
註記)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家-』小学館,2004年,15頁。
古式ゆかしき〔とされていたはずの〕皇室行事の神道的な伝統について網野は,つぎのような決定的な反証を提示していた。
たとえば,昭和天皇の代替りに当って,天皇の葬儀が世の注目を浴び,種々の論議のすえ,鳥居を建てた神式,巨大な墳丘への土葬などが「伝統的」方式とされ,これが結局,実行に移されたことは,その適例であろう。
すでにフランソワ・マセも言及しているように,この「前例」は明治天皇以前に遡るものではなく,
聖武以来,孝明まで一貫して仏式,
持統から江戸初期まで2,3の例外を除いて火葬,
後光明以後,表向きは火葬で実際は土葬,葬所は仏式採用後は適当な寺院の近傍,御光厳以後,御花園のみを例外として葬儀はすべて泉湧寺,
墳丘をつくらぬ薄葬も持統以来のことで,淳和にいたっては火葬に付した遺骨を粉砕して散布させたなど,天皇の葬儀にかかわる歴史的事実は,多くの人びとにしられることのないまま,「伝統的」という言葉がまかり通ったのである。
註記)同書,6頁。
つまり「明治謹製の天皇史観」が歴史を,無闇にかつ無神経に壟断してきた状況が説明されている
ところが,網野善彦が指摘した「大昔からの以上のそれらであった」ものが,20世紀から21世紀にもなった時代に,このような大墳丘をあえて作ってとくに,江戸末期に生きた孝明天皇から明治天皇以来の各天皇たちの遺体を収めている。形式としては土葬である。
それが,理解しがたい埋葬の仕方である事実は,網野善彦が近現代の時代にもなって大規模の陵墓を造った点を批判的に叙述したところからも,再確認できる。
補記)既述の事実であるが,明治天皇の先代になる孝明天皇の代から大規模の墳丘を,急に復活させていた。近現代の時代に「古代が滑り(割り)こんできた」のである。
平成天皇(現在は上皇だが)に問おう。いまの日本社会には生活に困窮した人びとが多い。この困難な時代,いずれ生をまっとうする「彼:自分」も,明治・大正・昭和の天皇たちのような豪華な「墓所」を造ってもらうことにするのか?
そうは問うても,すでに彼ら夫婦の墳丘はすでに設計図が用意され,そのための敷地も確保されている。すでに紹介してあったが,以下に3点の関連する画像資料を挙げておく。
このような埋葬に近い葬送の仕方をしている国々が現代になっても,この地球上から完全になくなっているのではないが,この日本の方式がきわめて特異で個性に富んでいる事実は,皮肉も添えて「そうだ,しかりである」としか応えようがない。



男尊女卑ではないとは否定できまい
着衣や靴の寸法と同じにはあつかえない問題である
皇室の伝統は網野善彦も指摘するように,その葬儀や埋葬のしかたを時代ごとに柔軟にかえてきた。というか,変えざるをえない時代の流れに即して漂ってもた。それを明治維新を前後する時期に,大昔,古代でなければなかったような大墳丘を建造し,ここに天皇夫婦を死後埋葬してきたし,これからに備えて準備している。
補記)ちなみにこういう事実も付記しておく。
武蔵野陵(昭和天皇陵)の造営や維持管理などの諸費用は,国の予算(国家予算)である皇室経済法に基づく宮廷費などの国費から支出されている。
武蔵野陵と国家予算の仕組み,法的根拠は,日本国憲法第88条--皇室財産はすべて国に属し,皇室の費用は予算に計上して国会の議決が必要--および皇室経済法に基づき,皇室の費用はすべて予算に計上され,国会の議決を経て国費(国家予算)から支出される。
該当する予算である「陵墓の造営や維持管理,施設の整備など」は,宮内庁が管轄する「宮廷費」などの皇室費や関連予算に含ませてある。東京都八王子市にある武蔵陵墓地(前掲画像)に造営された昭和天皇の武蔵野陵では,当時の工事費として約26億円が充当された。
以上のごときにすでに,孝明天皇から明治天皇・大正天皇・昭和天皇にまで継承されている,おげさではなく大型の陵墓建造が「天皇夫婦のための墓地」として継続されている。
現代が古代なのか,それとも,古代が現代なのか?
まさか,こんな修辞のなかに,西田幾多郎風の哲学表現『自己矛盾の絶対的統一』が当てはまり,すべりこむわけなどありえない。だが,日本の天皇・天皇制には,なんらかの超絶的な存在価値があるなどと確信しえている「関係者たち」が,確かに本気で「生きて:居る」のかもしれない。
墓を造るのは生ける者たちであって,死者そのものではないことは,当然過ぎていうまでもないけれども,あらためて断わっておく文言たりうる。
ところで,「伝統的」というしきたりを守りたいならば,この本当の歴史的経緯に忠実に即して変幻していく〈自身の今後〉を,まずもって予定し考慮しておく余地があった。
これまで「平成の前天皇」が披露してきた《皇室戦略的な行動》の記録は,以上に筆者が要求する案件をかなえやすい環境をととのえてきたと思いたいが,実際のところはその点はまだ十分に確認ができていない。
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【付 記】「本稿(13)」の続編(14)は以下である。
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【参考文献】
