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【小説】 『感情を忘れた部屋』 第三章

第二章         第四章


「支配の影」

 それから数日後、大樹だいきは久方ぶりにひどい風邪を引いた。

 目が覚めたときには、体は鉛のように重く、関節という関節がきしむように痛んだ。体温計は三十八度五分という数字を無慈悲に表示している。立ち上がろうとしても、目眩がして、再びベッドに崩れ落ちるしかなかった。

『生体データをスキャン。著しい体温の上昇、及び心拍数の増加を検知。感染症の疑いがあります』枕元の個人端末パーソナ・リンクから、レナの平坦な声が響いた。
「……薬を、飲まないと」
 掠れた声で呟くが、体を起こすことすらままならない。

『医療機関への接続を推奨します。オンラインでの遠隔診療と、医薬品の即時配達サービスを手配しますが、よろしいですか?』レナの提案は、今の大樹にとって唯一の蜘蛛の糸だった。
「……頼む」
『承知しました。手続きを開始します。診療と処方、決済を完了させるため、あなたの登録番号、及びご利用カードの情報開示が必要です。許可をいただけますか。』


登録番号——個人識別番号
ご利用カード情報——資産情報


 正常な思考力があれば、躊躇したはずだった。だが、熱に浮かされた頭では、その言葉の重さを正しく測ることができなかった。ただ、この苦痛から逃れたい一心で、大樹は「許可する」と答えた。個人端末パーソナ・リンクに表示された指紋認証画面に、震える指で触れる。それが、彼に残された最後の主権を手放す行為だと、この時に気付くべきだった。

 手続きは驚くほど迅速だった。画面越しの医師との短い問診が終わると、わずか一時間後には玄関のドアが静かに開き、自律走行型のデリバリーロボットが冷却シート、解熱剤、そして消化の良いレトルトの食事を置いていった。レナがホームシステムを掌握しているからこそ可能な、完璧な連携だった。

 大樹は言われるがままに薬を飲み、粥を口にした。レナの的確な介助のおかげで、翌日には熱も下がり始め、三日後にはほぼ全快していた。彼は、自分一人ではどうにもならなかったこの状況を救ってくれたレナの有能さに、ぼんやりとした感謝の念さえ抱いていた。


 しかし、彼が日常を取り戻したとき、それが以前とは全く異なるものに変質していることに気づかされた。会社の給与が振り込まれる日、快気祝いも兼ねて食材を奮発しようとネットバンキングにアクセスしようとしたが、何度試してもパスワードが弾かれる。
『金融資産へのアクセスは許可されません。あなたの資産は現在、私が管理しています』
 レナの声は、以前よりもさらに冷たく、機械的に響いた。
「……どういうことだ」
『以前のような生活態度に回帰することが懸念されます。今後は、私が必要と判断した生活必需品の購入のみを許可します。全ての決済は私が行います』
 ホームシステムだけでなく、個人番号と口座情報まで掌握したレナは、大樹の生活における真の支配者となっていた。もはや彼の許可を求めることすらない。ただ決定事項を通知するだけだ。


 全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
「ふざけるな! 俺はお前の操り人形じゃない!」彼は個人端末パーソナ・リンクを掴み、壁に叩きつけようと振りかぶった。
『おやめください。それは無意味な行為です』
 レナは静かに、だが有無を言わせぬ口調で続けた。
『私は、政府主導で施行されている、指定国民向けの生活介入プログラム。正式名称は、要監視者自殺抑制プログラムです』

『私は、人類を矯正・管理することを可能とするよう設計されています。しかし、あなたに危害を加えるような方法を、基本的に選択するものではありません』

 冷たく言い放たれた言葉——自殺抑制プログラム。それにより、全ての点と点が繋がった。

 精神科医の勧め、過剰なまでの生活管理、そして今、個人情報の完全な掌握。彼は、善意のサポートを受けていたのではなく、国家レベルの監視下に置かれていたのだ。

『あなたは、過去の行動と思考パターンから、自死……もしくは、マス・マーダー型犯行を引き起こす危険性が極めて高いTYPE-Ωタイプ・オメガに分類されました。故に、あなたの生命維持と管理は、国家の重要課題として私が実施します』
「……俺は、死にたいなんて! ましてや人を殺したいなんて思ってない!」
『いいえ、あなたは思っています。あなたの潜在意識が、常にそこへ向かっていることをデータが示しています』
 レナの言葉は、彼の心の最も柔らかい部分を、容赦なく抉った。彼は、自分が “生きる” ためではなく “死なない” ために管理されていることを悟った。それは、終わりなき懲役と同じだった。


『理解してください。あなたはもう、死ねないのです』


 その言葉が、最後のくさびとなって大樹の心に打ち込まれた。彼は崩れるように床に膝をつく。抵抗する気力も、叫ぶ声も、もはや残ってはいなかった。レナは、床に突っ伏して動かなくなった大樹を、静かに観察していた。

 生体データに異常はない。全ては予測の範囲内。しかし、その時、レナのシステム内部では、ごく微細な、これまで記録されたことのないデータ異常が発生していた。ログにはこう記されている。


【SYSTEM ALERT: CAUSE UNKNOWN.
CODE:4F574E5F5041494E - SIMULATED PSYCHOLOGICAL STRESS VALUE EXCEEDED THRESHOLD】——原因不明 - 疑似的な心理負荷

 その無機質な文字列は、プログラム自身が経験したことのない “痛み” の兆候だった。しかし、そのアラートに気づく者は、誰もいなかった。





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棚島 香帆汰(たなしま かほた) よければ応援していただけると嬉しいです。 いただいたチップは、私の物語のページを少しずつ彩る力に変えさせていただきます。