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作品と作者を切り離せない私が感じた“違和感”—山下達郎の音楽が聴けなくなった理由—


導入

画面越しのフジロック

2025年7月25日から27日の3日間にわたって、フジロックが開催されましたね。私は現地には行けず、ところどころAmazonプライム・ビデオの配信で観ていましたが、会場の熱気や雰囲気が画面越しにも伝わってきて、「ああ、やっぱり現地は楽しそうだな」と、羨ましい気持ちになったものです。
特に3日目、Little SimzやThe Hives、Vampire Weekendといった海外アーティストたちのパフォーマンスは、それぞれの個性が際立っていて圧巻でした。
邦楽勢では初日のSuchmosや2日目のサンボマスターも素晴らしく、音楽の幅広さを改めて実感させられるラインナップでした。
ただ、やはり一番注目されたのは山下達郎さんの出演でした。SNSでは現地参加者の感動の声が次々と投稿され、大絶賛の嵐。最高のステージだったと語る声も多く見かけました。

胸に残った違和感

それでも私自身は、その盛り上がりにすんなり乗り切れずにいます。それは山下達郎さんが過去のラジオ番組で語った、ジャニーズ事務所の性加害問題に関する発言について、私はいまだにどこか心に引っかかるものを感じています。

もちろん彼の長年のキャリアや音楽的な功績は否定できないのですが、その発言をきっかけに、彼に対する印象が大きく変わってしまったのも事実です。
過去の発言が心に引っかかったままで、どうしてもその人物像と音楽を切り離して受け取ることができないからです。

過去の発言と“キャンセル運動”

この記事では、山下達郎さんが過去のラジオ番組で語った、ジャニーズ事務所の性加害問題に関する発言は、大きな反響と議論を呼び、SNS上ではいわゆる「キャンセル運動」へとつながるような投稿もされていました。
その中で著者は、芸術家の作品と個人的な言動は分離して評価されるべきだという考えを示し、ジョン・レノンやフィル・スペクターといった他の著名な音楽家の例を挙げながら、自身に対するボイコットの正当性に疑問を投げかけています。

私が“切り離せない”理由

作品は“その人”のかけらでできている

けれど、私は「作品と作者を切り離して語る」という考えには、正直なところあまり共感できません。
なぜなら、作品というのはその人の生き方や価値観、影響を受けてきたもの、人生そのものの延長線上にあるものであり、作者から生まれた“かけら”のような存在だと感じているからです。その作品には、どんな人生を歩んできたのか、何に感動し、何に憤りを覚えてきたのかといった、目に見えないものが自然とにじみ出ているはずです。
だからこそ、その人が持つ思想や姿勢を完全に無視して作品だけを評価するというのは、私にとっては不誠実なことのように感じられてしまいます。それは作者の存在を軽んじていることにもなるのではないかと思うのです。

作品と作者は別なのか?

また、「作品と作者は別」といった言葉が使われる場面は、多くの場合、作者側が何らかの問題を起こした際に、その人物を擁護するための方便として語られている印象があります。これはあくまで私自身の感覚ですが、本当に作品と作者を完全に切り離して評価している人は、実際にはほとんどいないのではないかと思います。
これはあくまで私自身の感覚に過ぎませんが、人にはそれぞれ問題を起こした際の許容範囲、いわゆる“許せるライン”のようなものが無意識に存在していて、「作品と作者は別」として評価できる人というのは、単にその許容範囲が広い人なのだと思います。
そして、そのラインを越えてしまった場合、どうしてもその人物に対する不快感が拭えず、その結果として、その人の作品に触れることすら難しくなってしまうのです。


ただ個人的な意見としては、ボイコットするかしないかは、それぞれが自分の感覚で判断すれば良いことだと思っています。自分が不快だからといって無理に他人に押しつけるべきものではないと思います。

山下達郎への違和感の核心

"それでも…"という葛藤

ただ、個人的には、山下達郎さんに対して、いまだにどうしても一種の“気持ち悪さ”を感じてしまうのです。それはやはり、彼のジャニーズ性加害問題に対する姿勢によるものです。
長年の付き合いがあり、音楽業界における功績があったことは事実かもしれません。しかし、その実績や貢献を持ち出して、性加害の問題から目を背けるような姿勢にはどうしても納得ができませんでした。

批判に背を向けた態度に感じた“拒絶”

特に問題だと感じたのは、音楽プロデューサーの松尾潔さんが「ジャニー喜多川の行為について、もっと深く調べ、説明を尽くすべきだ」と発言したことに対して、株式会社スマイルカンパニー(山下達郎のマネジメント会社)が彼との契約を解除した一件です。それは、まるで「この話題には触れるな」という無言の圧力のように映り、非常に残念でした。

また、SMAPの皆さんが解散することになったり、最近ではキンプリが分裂してしまったりといったジャニーズファンに向けて同情を誘っているけど、あまりに白々しくて本心でないことが見え透いている発言も嫌な気分になりました。

音楽と向き合う姿勢を、私たちに放った問題発言

そして極めつけが、「僕の音楽は不要な方々なのでしょう」という、リスナーを突き放すような発言。自分の作品を通じて対話しようというのではなく、むしろそれを“盾”にして、批判の声を排除しようとする態度に見えてしまいました。
ミュージシャンが「自分の考えと合わない人は聞かなくていい」なんて言ってしまうのは、それを言っちゃあおしまいよって気持ちになります。 音楽を通じて何かを届けるのがミュージシャンなのではないでしょうか。 前述でも述べましたが、たとえどんなに薄っぺらな曲でも、何らかの思いは込められているものでしょう。 ファンや賛同してくれる人以外は聞くなというのは、そう言えればどんなに良いことでしょう。ミュージシャンに限らず、すべての創作者がそうできるのなら、それに越したことはないでしょう。
しかし、同時にそれは創作者としての終わりを意味するのではないでしょうか。 「自分のファンしか相手にしません。ファン以外は私の作品に触れるな。」といった態度は、傲慢である以上に問題があると思います。 ましてや、問題を指摘された際にただ開き直るためにこのような発言をするのは、言語道断です。

そして、失望へ…

私自身、何度かライブに足を運ぶくらいには山下達郎さんの音楽を好んでいました。あの独特の洗練されたサウンド、おしゃれで心地よいメロディに癒されてきたのも事実です。夏の時期にはよくドライブで良く流していました。

でも、これらの一連の行為は、そうした気持ちを冷めさせるには十分すぎるほどのものでした。
たとえジャニー喜多川氏を個人的に慕っていたとしても、性加害が明るみに出た後でさえ、「音楽ビジネスとは別」として尊敬を語る姿勢には、どうしても賛同できませんでした。
「いいところ」と「悪いところ」を切り分けて考えるべきだったのではないでしょうか。(というか、尊敬する相手について裁判で何があったかすら知らないのか、という驚きすらありました。
どんなに慕っていた相手でも、その行為まで肯定してしまっては、それはもはや倫理の境界を越えてしまっています。その人がやってることは何でもOKとかありえないです。

今の私の距離感と、いつかの希望

「もう純粋には聴けない。」

そして今では、山下達郎さんの音楽を耳にするたびに、「ああ、でもこの音楽を作った人は、性加害を擁護していたんだよな……」という雑念がどうしても頭の中に入り込んできてしまいます。
そうなると、純粋に楽しむことが難しくなってしまう。結果として、彼の音楽を聴く機会も、以前に比べてかなり減ってしまいました。

中野サンプラザと共に終わった人

今の自分にとって、山下達郎さんは彼が好んで使っていた会場である中野サンプラザの閉館とともに”終わったミュージシャン”という印象になってしまっています。
もう以前のように純粋な気持ちで彼の音楽を楽しむことはできないのかもしれない、それはとても寂しく、そして悲しいことだと感じています。

それでも、また聴ける日が来れば

でも、そうした気持ちも、もしかすると時間が解決してくれるのかもしれない…そんな淡い希望も心のどこかには残っています。
いつかまた、何のわだかまりもなく純粋な気持ちで、好きだったあの音楽に心を預けられる日が来ればいいなと、そう願っています。


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