「実質賃金-1.3%」昇給しても苦しい家計の処方箋
先月、給与明細を見て思わず二度見しました。基本給は去年より1万2千円上がっているのに、口座に振り込まれた手取り額は、なぜかほとんど変わっていない。「あれ、昇給したはずなのに……」そう感じたのは、きっと私だけではないはずです。
実は2025年、日本の実質賃金は前年比マイナス1.3%。しかも4年連続のマイナスです(出典:労働政策研究・研修機構〈JILPT〉)。昇給しているのに生活が苦しい——それは気のせいでも、あなたの家計管理が下手なわけでもありません。今日は「昇給と物価上昇のズレ」の正体と、不安の中にも希望が持てる具体的な処方箋を、データと私自身の体験を交えてお伝えします。
昇給しても目減りする、という衝撃データ
まず数字を見てください。厚生労働省「毎月勤労統計調査」とJILPTの分析によると、2025年の実質賃金指数(現金給与総額ベース)は前年比マイナス1.3%。名目賃金(実際に支払われた給与)は1人平均月35万5,941円、前年比プラス2.3%と、数字の上ではちゃんと増えているんです。それなのに、物価上昇率がそれを上回ってしまったために、実質的な購買力はマイナスになってしまいました。
さらに衝撃的なのは、これが一時的な現象ではないということ。実質賃金がマイナスになったのは2022年から数えて4年連続。しかも2014年から2025年までの12年間で、実質賃金が前年比プラスになったのはわずか3回(2016年+0.8%、2018年+0.2%、2021年+0.6%)しかありません。つまりこの10年以上、多くの働く人にとって「昇給=生活が楽になる」という感覚は、統計的にはほとんど実現していなかったということです。

一方で明るい兆しもあります。2026年に入ってからは風向きが変わりつつあり、3月の実質賃金は前年比プラス1.0%と3カ月連続でプラス圏を維持しています(第一生命経済研究所調べ)。物価上昇率が鈍化してきたことが主因ですが、原油価格や為替の動向次第では再びマイナスに転じるリスクも指摘されており、まだ「安心していい」とは言い切れない綱渡りの状況が続いています。
給与明細を二度見した、あの夜のこと
正直に書きます。私は昨年、会社員として3%の昇給を経験しました。人事担当者として「今年はいい昇給率が出せた」と社内発表した張本人でもあります。でも、その半年後、スーパーで卵1パックの値段が前より40円高くなっているのを見て、レジ前で一瞬固まりました。
家に帰って、妻に「今月ちょっと厳しいかも」と言われたときの、あの気まずさ。電卓を叩きながら家計簿アプリを開き、去年の同じ月の支出と見比べてみると、食費だけで月8,000円以上増えていました。給与は上がったはずなのに、貯金額はむしろ減っている。「昇給したのに、なぜ苦しいんだろう」——その疑問が、この記事を書くきっかけになりました。
人事の仕事をしていると分かるのですが、多くの企業が「賃上げしました」と胸を張って発表する数字の裏側で、社員一人ひとりの生活実感はまったく別のところにあります。会社側の「頑張って昇給させた」という達成感と、社員側の「それでも生活が楽にならない」という実感の間には、大きな溝があるのです。私自身、その両方の立場を味わったからこそ、これは個人の家計管理の失敗ではなく、もっと構造的な問題なのだと確信するようになりました。
なぜ昇給と物価上昇はズレるのか、構造を分解する
ここで一度立ち止まって、なぜこのズレが起きるのかを整理してみます。
まず物価側。2025年の消費者物価指数の上昇率は年間で約3.1%でした(第一生命経済研究所試算)。食料品やエネルギー価格の高騰が続き、4人家族の家計負担は2025年だけで年間約15.3万円も増加したと試算されています。2026年はこのペースがやや鈍化し、負担増は4人家族で約8.9万円と予測されていますが、それでも「負担が減る」わけではなく「増え方が緩やかになる」だけなのが実情です。
一方の賃上げ側。2026年春闘では連合の最終集計で賃上げ率5.01%と、3年連続で5%を超える高水準を記録しました。数字だけ見ればかなり頑張っているように見えます。ですが、ここに落とし穴があります。春闘の数字は主に大企業・組合のある企業の集計であり、中小企業や非組合員の実態を必ずしも正確には反映していません。加えて、昇給には社会保険料や税金の増加も伴うため、額面の昇給率がそのまま手取りの増加率になるわけではないのです。
つまり、「昇給しているのに苦しい」と感じるのは、あなたの感覚がおかしいのではなく、①物価上昇のペースに賃上げが追いついていない期間が長く続いてきたこと、②春闘の平均値と自分の実感の間にギャップがあること、③額面と手取りの差、という3つの構造が同時に働いているからです。これはあなたの能力不足や家計管理の甘さではなく、日本経済全体が抱える構造の問題だと、まず知ってほしいと思います。
「うちの会社は大丈夫」ではなかった、中小企業のリアルな数字
私がコンサルティングで関わる中小企業の経営者からも、この数年「賃上げしたいけど、正直きつい」という本音をよく聞きます。実際のデータもそれを裏付けています。
帝国データバンクの2026年度調査によると、2026年度に賃金改善を見込む企業は63.5%と過去最高、5年連続で前年度を上回りました。中小企業の従業員給与の増加率見込みは平均4.53%と、実は大企業(4.49%)とほぼ同水準か、むしろ上回っています。「賃上げできない大企業と頑張る中小企業」という、これまでのイメージとは違う構図が見えてきます。
その一方で、賃上げが難しい企業に理由を聞くと、55.1%が「自社の業績低迷」を挙げています。原材料費や人件費の上昇分を取引価格に転嫁できず、賃上げの原資そのものが作れない中小企業が一定数存在するのも事実です。この課題に対しては、公正取引委員会と中小企業庁が「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」を整備し、下請け企業が労務費上昇分を取引先に価格転嫁しやすくする取り組みを進めています。私が支援先の経営者にこの指針の存在をお伝えすると、「知らなかった、使ってみたい」という反応が非常に多いのが実感です。

個人でできる3つの防衛策、データで見る効果
ここからは、今日から始められる具体的な処方箋です。まずは個人でできることから。
1つ目は「自分の市場価値を定期的に確認すること」です。転職市場では、企業側が人材確保のために積極的な賃金提示をするケースが増えています。帝国データバンクの調査でも、企業が賃上げを行う理由の1位は「労働力の定着・確保」(74.3%)でした。つまり企業は「人が辞めることを何より恐れている」状態です。今の会社に留まるにしても、年に一度は転職エージェントに登録して市場価値を確認するだけで、社内での昇給交渉の材料になります。
2つ目は「資産形成でインフレの影響を相殺すること」です。物価が上がるということは、現金や預金の実質的な価値が目減りするということでもあります。新NISAのつみたて投資枠を使えば、非課税で長期的な資産形成が可能です。仮に毎月3万円を年利5%で15年間積み立てると、元本540万円に対して評価額はおよそ800万円前後になる試算もあります(あくまで一例で、元本割れのリスクもあることは前提です)。すべてを投資に回す必要はありませんが、「現金だけで持つことのリスク」を知っておくことは、これからの時代の必須知識だと感じています。
3つ目は「小さくてもいいので収入の柱を増やすこと」です。副業を認める企業は年々増えており、月1〜2万円でも収入源が複数あることは、物価上昇局面での心理的な安心感に直結します。

企業・人事ができる3つの処方箋、賃上げの原資をどう作るか
ここからは人事担当者や経営者の方向けに、組織としてできることをお伝えします。私自身、人事コンサルタントとして中小企業の賃上げ設計に関わる中で、次の3つが特に効果的だと感じています。
1つ目は「賃上げ促進税制の活用」です。2026年度は大企業向けの制度が廃止される一方、中小企業向けの賃上げ促進税制は継続されています。前年度より給与総額を一定以上増やすことで、増加分の最大45%程度を法人税から控除できる制度で、活用していない中小企業がまだ多いのが実情です。顧問税理士に「うちは対象になりますか」と一度聞いてみるだけでも価値があります。
2つ目は「労務費の価格転嫁指針を武器にすること」です。先述の公正取引委員会の指針は、下請け企業が発注元に対して労務費上昇分の価格交渉を行う際の後ろ盾になります。「値上げをお願いしにくい」という心理的ハードルを下げるための、いわば公式のお墨付きです。
3つ目は「賃上げを評価制度とセットで設計すること」です。一律の昇給ではなく、生産性や成果と連動した昇給テーブルを作ることで、限られた原資でも「頑張った人に報いる」実感を社員に持たせることができます。これは私が支援先で実際に取り入れて、離職率の改善につながった手法でもあります。単に「賃上げ率○%」という数字を追うのではなく、その原資をどう作り、どう配分するかの設計こそが、これからの人事の腕の見せどころだと思います。

まとめ、昇給しても苦しい時代を「攻略する」視点
ここまで、実質賃金が4年連続でマイナスという厳しい現実から、その構造、そして個人・企業それぞれの処方箋までをお伝えしてきました。
改めて強調したいのは、「昇給しているのに苦しい」と感じるあなたの感覚は正しく、それは個人の能力や家計管理の問題ではなく、日本経済全体が抱える構造的な課題だということです。ただし、2026年に入って実質賃金がプラス圏に戻りつつあること、中小企業の賃上げ意欲が過去最高を記録していること、そして個人にも企業にも使える具体的な制度や手法が存在することもまた事実です。
苦しい時代を「ただ耐える」のではなく、データを味方につけて「攻略する」。給与明細を二度見したあの夜の私に伝えたいのは、まさにこの一言です。不安の中にも、確かな希望はあります。
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