アレクサンドル・コイレ『プラトン』 「第2章 『メノン』」

プラトンの著作『メノン』というタイトルのものがある。この『メノン』の問いはこうだ。

人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることのできるものなのであろうか、それともできないものなのであろうか。そして、もし、教えることのできないものであるならば、ひとはそれをどのようにして自分のものにすることができるのであろうか。それは訓練によってであろうか。またもしそうでないとしたら、それはどこから私たちのところにやってくるのであろうか。それは生まれつきの素質として人間に具わったものなのであろうか。それともまたなんらかほかの出どころがあるのであろうか。

p.18

ふと、書店に並んだリーダーシップ、様々なメタ認知スキル、モチベーション、グリッド=やりぬく力、などの本のタイトルを思い出す。これらはみな、厳密には違うものだけれども、「徳性」に近いものではなかろうか。すなわち「ひとに教えることのできるものなのであろうか」という問いがしっくりくる力のように思える。自主性なんかもそうだ。

ソクラテスは、そんなの知らん、という。てか、その共通項は何かと問い返す。徳の徳たるゆえん、徳の本質、これを答えてみよ、とメノンに問い返す。メノンはそれを「人びとを支配する能力」だというけど、ソクラテス的にはそれはたくさんある能力のうちからやっぱり自分につごうのいいものを拾い上げたに過ぎないという。メノンは繰り返し、その定義を投げかけるが、ソクラテスは跳ね返す。

で、メノンはキれて、それがなんであるか定義できないことがらをひとはどうして探求することができるだろうか(いや、できはしまい)、またもしそれを探り当てたとしても、探求していたものがそれだということがどうしてそのひとにわかるのでしょうか、と言ってしまう。

でも、ソクラテスは、それをまとめると、こういうことじゃないかという。

いわく、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」──。

『メノン』岩波文庫、pp.45ー46

ソクラテスは、USBにデータを流しこむように教育するのではなく、人間はなんども生まれ変わっているから、それら本質をすでに知っているはずだが、転生の過程ですべて忘れて生まれてくるから、その都度の生の中でかつて獲得したものを思い出す(想起)する、というのが学ぶということなのだという。その想起を補助するのが、自分の問いかけなのだという。

ソクラテスは、知識は教えられるが、徳は知識ではない、という。メノンは混乱する。

リーダーシップや主体性という徳性のようなものは、知識ではない。おそらく。だとすれば、教えられない。教えられるかのように出版されている本は、ソフィストまがいだろう。

ただ、とはいえ、徳性が身につかないというのも違う。身についている人はいるのだから。

メノンの他に、アニュトスという人物がその問答に加わる。

それについてのアニュトスの意見は意外に、素朴なものである。

彼が言わんとするところは、徳性というものはまずそれを実行することにより、また両親や先人のなしたことを模倣することによって身につけられるものであって、それはひとが子供らに礼儀作法を教えようとする際にその作法を実際にやってみせることによって教えるのとちょうど同じものである、ということである。

p.28

ソクラテスはこれに対して、次のように曖昧に答える。

しかしながらソクラテスは、まだ徳性を規定するためのあらゆる可能性を究めつくしてはいないのではないか、ということを指摘する。たとえばとくに徳性というものを「正しき思いなし」(オルテー・ドクサ)、つまり正確な知的吟味をへて確認されたものではないが体験などを通して一応の正当性を得ているひとつの確信ないし信念というべきもの、と考えることができるのではあるまいか。

p.29

すっきりしない終わり方である。実践の模倣で教えられるんじゃないか、という意見について、いわば、さっきの主体性とか、リーダーシップだったら教えられそうだ。模倣と実践で。それはやっぱり徳性とは違うか。ソクラテスが言ってるのは、おそらく、それらリーダーシップや主体性を兼ね備えて、人の上に立つことのできる人が持つ高次の性質、それが「正しき思いなし」なのだろう。それはだから今風に言えば、パーパスとかエシックスとか、そういうことになるのかもしれない。パーパス・ウォッシュとか、あるけれどもね。

コイレは、徳の議論をうっちゃって、学問論の方に話をずらしているように思う。

メノンには考えるということがわかっていない。つまり彼はそれを学んだことがないのだ。なんとなれば、考えるということ、つまり正しく考えるということは、真理に即して正確に推理するということであって、このことこそまさに知識を成り立たせるものだからである。

p.33

「正しき思いなし」とは学問の領域では「真理に即して正確に推理する」であるし、政治の領域ではどうだろう。

コイレは、メノンに厳しい。

メノンには考えるということがわかっていない。それはほかでもない、真理が彼にとってたいして重要なことではなかったからである。しかし、考えるということ、真理を探求するということ、魂を目覚めさせて、そこに忘れられていた知識を想起するということ、こうしたことはなまやさしいことではない。それはきわめて容易ならぬことであって、忍耐強い努力を必要とする。考えるにあたって、ひとつの愛、すなわち真理への情熱が必要なのはまさにこのためなのである。

p.34

メノンはでも、好人物であり、知識も豊富だった。決して、教育の無い人ではない。でも、だからこそ、真理への愛ではなく、「彼の求めていたものは、暮らしの上での「善きもの」、成功、富、権力といったようなものだったのである」(p.35)

あるいはこう言った方がよいかもしれない。つまり、メノンが「徳」とか、「徳の生活」とか、生きがいのある生活とか言うものは、まさに、普通一般の人びとが──アニュトスも含めて──その名で呼んでいるもの、すなわち「いろいろな善きもの」すべての所有、ということなのだ。それゆえ、彼にとって、「徳を教える」ということは、私たちをこの欲求の目標へと連れて行ってくれるような手段を教えるということなのである。

pp.35ー36

コイレは、さらに進めて、ソクラテスの示したアイロニーを素直に理解すべきではないという。徳は教えられない、とソクラテスは字面ではいうが、実は「教えられうる」のである。

コイレは、ソクラテスの逆説を、こう読む。

徳は教えられうる。それは知識であるから。

p.37

どのようにして?まさにソクラテスが、メノンに見せるために、召使の少年に幾何学を教えたように。この「教えられうる」の「うる」が重要だ。メノンは、その教えが示されていたのに、教わらなかった。最後に、コイレは、くどいように注釈をつけている。

徳は知識であるから、もろもろの学問が教えられるような仕方によってしか教えられない。すなわち、学ぶ側からの発見しようという努力が大切であって、教師から押しつけられたものを練習することによっては学ばれない。つまり真の知識は「内側から」であって「外側から」ではないのである。

p.37




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