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思慮深くあること(社会人の武装の仕方㊶)(文学的な弱さ考②)

社会人の武装の仕方」には、
・文学的でありつつ社会に出るために、どんな武装が必要か
・自分が武装してきて重くなってしまった鎧を意識して、脱いでいきたい
というようなことについて書いている。

思慮浅くならぬように

思慮が浅い人間を見ると悲しくなる。
考えが浅い。確認がおろそか。経験が浅いの?

自分もそうかもしれない。
そう人に指摘されると、ひどく傷つく。
考えが甘い!
確認したの?
経験ないの?
だから私は、思慮浅くはならないように生きてきたつもりだ。
文学的とは、思慮浅くならぬためのひとつの方便でもあったかもしれぬ。

受験生時代。
受験マシーンにならないように、ただの暗記は避けた。
入試に「出る問題」より、その先の問題を意識した。

就活時代。
就活マシーンにならないように、他人が欲しがるように自分を演じさせることは避けてきた。
人間味のあるほうへ歩いてきたつもりだ。

普段の会話も、知的であること、文学的であることを目指している。
思慮が浅い、ということと、対極にある生き方を目指しているのだと思う。
そうして、私はマウントを取る。
私は、自分は特別なのだと考える。
私は思慮が深い人間なのだ。
特別感、である。
そうして自己有用感に浸る。

AIが社会に普及しはじめて久しい。
AIは人間のように思考する。
思考を、思慮を、AIに任せることができる。
だが、AIにすべてを任せていると、思慮が浅くなっていく。
レポートを書いてもAI任せ。
チャットの会話もAI任せ。
小説を書いてもAI任せ。
自分で考えない。
そんなんでは操られるぞ!と、思ってしまう。

子ども(思慮浅き者)に見る純粋さ

子どもは思慮が浅い者たちであろうか。
私たちはその純粋無垢に輝きを見出す。
イノセントは尊いものである。
と書きながら、子どもは思慮が浅いのか、純粋無垢でイノセントなのか、と自問する。(大友氏の漫画『童夢』、北欧ドラマ『イノセンツ』なども思い出すが、ここでは引用しないほうが良いだろう。)
学んだから、知ったからとて、高尚とは限らないのではないか。
ともかく、子供の目に、純粋無垢に、何かを見る。
兎の眼(灰谷健次郎)に写る、何かを見る。
人間失格(太宰治)では、純粋なヨシ子と無学な小男の商人が登場するくだりがある。この小説の主人公は思慮深くありすぎ、自ら崩壊していく、とも読める小説である。

 いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
「なんにも、しないからって言って、……」
「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」
 並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや? 相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。

太宰治『人間失格』第三の手記

ようこそFACTへ』(魚豊)では、主人公はこれまでになく思索し、陰謀論へ踏み込んでいく。
それが間違った方向だったとしても、思慮浅いよりはマシだろう?

思慮が深くて失敗すること

人類がやってきたことの中には、思いも寄らない失敗がたくさんある。
それらの失敗は、思慮が浅かったから起きた、とも言い切れないものもある。
考え抜いて失敗する人間の例はたくさんある。
失敗学、というものもある。

『失敗だらけの人類史 英雄たちの残念な決断』では、パリスがメネラオスの妻を奪ってしまう。
ラトナーは、商売の秘密を暴露してしまう。
人類はパーソナルコンピュータという複雑な装置を開発し、2000年問題に思慮深く備えたが、ただの徒労に終わってしまった。

弱さ考』の中で、井上慎平氏は「理性の失敗」について触れている。
愚かさは、理性の失敗である。
けれど、「理性的でかつ愚か」だからこそ、人はつながることができるのではないか。(p271)

落語=芸術は、「これだけはしてはいけない」をやってしまう人間の業を肯定する。
人は愚か者でしかありえない。
人間はそんなものだ。
誰よりもまず、自分が。(p277)
文学的でありたいとは、自分の中にある愚かさや醜さを肯定することでもある。
弱さについて考えることは、文学的でありたいと考えることと似ていると思った。
心を動かしたいとは、自由に感じたいとは、自分の愚かさを肯定することでもあるのだと思う。


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