フィジカルAI(生成AIと文学的⑭)
AIの言葉は記号接地していない。
AIの考えることは、具現化しない。
なので、フィジカルAI、という話になってきている。
AIが感じる感覚と、人間の感覚との違いはあるのだろうか?
今後、このあたりを考えるために、人間の感覚の再発見などがありそう。
このように考えていくと、私たち人間に残された道は、熟練のうどん職人のように身体や経験を通じて学び、直感力を磨いていくしかないように思えるのです。(p120)
また、個々人の感覚の違い、感覚の学習の履歴=個々の経験、なども注目されそう。
こういうところは、文学作品になり得るのではないか。
文学作品研究の、新たな光が当たる部分になり得るのではないか。
例えば虫になった男が知覚した世界の経験。
名家の出だが、道化を演じざるを得ない子どもの経験。
他人のことを、色で知覚する少女の経験。
名前を盗める猿の経験。
※変身、人間失格、きみのいろ、品川猿。
noteに書かれてあることは、フィジカルを持てる人間が経験した、貴重なサンプルである、とも言える。
AIはここから、人間の経験を学習している。
気味が悪い?
もっと貢献してあげよう?
人間は外部記憶にすべてを残すことで、文化を受け継いできた。
100年後、自分がいない世界に、社会に、何を残せるか。
そんなことを考えたとき、周囲と対話し、語ることの大切さを再認識すると共に、
書き表して残していくことの重要さにも思い至る。
そしてそれを読み取るのは/読み取ってくれるのは、もしかして生身の人間ではないかもしれない。
そら恐ろしい?
ページビューがさほどない、私のようなnoteの場合、AIに読み取られるのは有難い、とも感じるのだが。
ページビューが多いあなたのオウンメディアでも、生身の人間に、正しく受け取られているとは限らないわけだし。
悲観なのか、楽観なのかわからない話だな。
