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アニメと文学(文学とは何か⑬)

アニメと文学について。
前回、映画と文学について書いた。
アニメも映画の一部かもしれないが、創作方法が若干違うので、アニメと文学、について考えてみる。

映画は、自然に目に映る風景を「撮影」することで作ることが出来るが、旧来アニメはゼロから作らなければならない。
絵を描かなければ、現れない。
描いた絵を連続で映写しなければ、現れない。
そのあたり、「書いて、読まれなければ現れない」文学と似ているかもしれない。
描いた絵という媒介を通して伝えるところも、文章という絵を媒介として伝える文学と似ているかもしれない。

ただ、このあたり、変化はあって、CGが現れ、アニメのような実写も出てきたし、撮影した現実風景に、何らかを加味する映像も増えてきた。
実際の人間の動きをトレースして、3Dアニメーションを動かすこともできるようになってきた。

アニメも映画も、視聴者に作用する仕方は同じである。
音があり、映像があり、時間がある。
視聴者は、見ていれば勝手にお話は進む。

文学は、読まれなければ立ち現れない。
あるのは文字記号ばかりである。
読者はそれを読んで、自分の脳内で立ち上げなければならない。
著者の意図するものと、全く違ったものを立ち上げてしまう可能性もある。
ただし、そこに創造性を見出すこともでき、テキストをもとに、自分なりの文脈やバックグラウンドで読んでしまう、その読みの中に自分自身の無意識などを読むことも出来る。

現代人が古典を読む時、当時の人と同じようには読めない。
けれど、新しい読み方ができるかもしれない。
古典を読んで、現代的な文芸批評をすることも、新しい地平を見る方法かも知れない、と思う。

新海誠さんのアニメが好きである。
新海さんは、小説も書かれている。
映像が主戦場だが、そこで描けなかった思念、思い、気持ちみたいなものを描かれている。

ここでは、小説(文学)は、映画の下部構成員である。
あるいは、周辺である。
メディアミックスなどと言われるが、主題歌の音楽が売られ、パンフレットで静止画とかインタビューとかが売られ、小説で脚本が売られる。
ハブの中心となるのは、アニメ映画である。
文学とは、映画の周辺なのであろうか。

※ただし、このnoteでの広義の「文学」は、映画や演劇や漫画も含んでいる。「文学的である」とは、「芸術的である」も内包していると考えている。そんな自信がある。予感がある。ただ、便宜上、今回は、「文学」を、狭義の、文字だけの芸術として扱っている。


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