昔のことを思い出す時に、自分のことを傷つけない(文学的な弱さ考④)
昔のことを思い出すときに、たぶん私は自分のことを傷つけている。
君はダメだったねとか、なんでこんなこともできなかったんだろうねとか、あの頃の自分はバカだったなとか。
まあそのようにして、自分の愚かさに塩を塗り付けて、自分を傷つけているような気がする。
この思い出し方は、常にある上昇志向が問題にあるような気がする。
人間は常に成長していかなければならないから、昨日の自分は今日の自分より愚かである。
そして、今日の自分は、明日の自分より愚かである。
井上慎平氏の『弱さ考』では、そのような思考回路に対して、疑問を呈していた。
まばゆい可能性の海としての未来。今ならはっきり言える。
未来は祝福されすぎ、過去はおとしめられすぎている。
もちろん、成長そのものは否定しない。
自分の成長を実感するには、過去の自分よりどれだけ伸びたかを確認する必要があるため、過去の自分と比較することも否定しない。
でもそうじゃなくて、過去の自分も、今日の自分も、そして優れた未来の自分も、同じように尊い(てえてえ)と思いたい。
過去には自分はおらず、未来にも自分はいない。
現在にしか自分はいない。
過去をふりかえって自分を卑下して傷つけたり、
明日の自分を思って、「足りない」今の自分を責めたりしたくない。
どんな風な気持ち心持ちで、過去を振り返れるのかっていう話。
***
この頃、上手く過去の自分を振り返れていないなあ、と感じ、ライダー・キャロル氏の『バレットジャーナル 人生を変えるノート術』を読み返してみた。
ちょっとしたヒントを得られた部分を引用する。
振り返りは、過去の失敗についてあなたを厳しく罰するためのものじゃない。あなたの実体験に埋め込まれている豊富な情報を収穫し、あなたの未来を肥沃にするために利用するのだから。
(…)
それぞれの季節が、僕たちに変化をうながす。僕たちは生き、学び、適応する。
(…)
ある季節に成長したものは、ほかの季節に腐敗する。やみくもに過去にしがみついていれば、季節はずれの思い込みにとらわれてしまう。そんな真似を続けていれば、いつも満たされず、むなしくなり、実体があるものを渇望するようになってもおかしくない。
充実した人生を送るには、有意義な人生を探究する行為を習慣として身につけ、経験の質が変化していくことを受け入れねばならない。
