段取り、中断、少しずつの集中(社会人の武装の仕方⑰)
Aというプロジェクト。
Bというプロジェクト。
ひとつずつ終わらせていく。
しかし、それがかなわず、宙ぶらりんがどんどん、たまっていくようなこともある。
人間関係のしがらみ、情念などもそうだ。
澱のようにたまっていくことがある。
手塚治虫さんはいくつかの連載を掛け持ちして、目なら目だけ、口なら口だけペン入れしていったという。
脳は、完全に原稿が終わったと認識できないので、ずっと集中できるらしい。
終わらないでずるずる続くような感覚も、天才にかかれば別のものになってしまう。
手塚治虫さんのようにすれば、嫌な「作業」となってしまった仕事も少しずつ雪解けていく。
でも、この方法では、自分が何をやっていたか、わからなくなる。
覚えていないことが多い。
凡人の私は、集中力が続かない。
なので、飽きないように、いろんなことを少しずつしてみる。
例えば、本を何冊も並行して読んでみる。
混乱する。
だめだ、これでは意味がない。
ひとつのことに集中して腰を据える時間は大事だ。
年に一度、ビル・ゲイツ氏などは、集中読書の時間をとっているらしい。
ネットや世間との接点を一切遮断して、読みたい本を何冊か選んで。
電話は悪だ。
せっかく集中してやっていても、作業が中断される。
メールなどがありがたい。
こちらから取りにいくほうへ。
通知も悪だ。
集中力が妨げられる。
通知はゼロにしようと努力している。
仕事場での声掛け、コミュニケーショも大事だ。
こちらから声を掛けにいくほうは、やりやすいが、作業に集中しているときに話しかけられると、いらっとする。
しかし、こちらから声を掛けにいくとき、相手は作業に集中しているときかもしれない。
それで、いらっとされているかもしれない。
そもそも、私に声を掛けられたら、いらっとするのかもしれないが、それはそれで置いておこう。
向こうから何か言ってくれば、なるべく真摯に耳を傾けるようにしている。
家でも集中してなにかしたくても、声をかけられたら応じるようにしている。
我が家の反抗期の子どもは、自分がしていることを邪魔されるとひどく荒ぶる。
わかる気はする。
書斎特集の雑誌で、映画監督の大森さんだったか、書斎はいつも開けっ広げ、オープンで、外とのつながりを閉ざさない、そういう周囲のノイズも創作活動に役に立つ、というようなことをおっしゃられていた。
三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ時に、他者のノイズを取り入れる方法のひとつである読書、について考えた。
中断されることを恐れないために、ふだんから段取りを意識する。
ひとつの仕事の中にも段取りはある。
どの階段まで登ったか。
そこでなら中断できる。
齋藤孝さんの『段取り力』という本は、仕事をはじめたばかりの私にとっては、ためになった、新鮮な本だった。
村上春樹さんは、長編小説を毎日10枚ずつ書くという。
工場のような正確さ。
分断をどう乗り越えているのだろう?
睡眠やなんやで分断されると、その作品や場面や登場人物の感情との糸が切れやしないか。
書いていても、読んでいてもそうである。
物語と離れて、また近づいた時に、また同化できるかどうかは保証がない。
読むときはそこに不動のテクストがあるが、書くときは、形にしておかないと消えてしまいそうで、ついつい寝る間を惜しんで創作してしまう。
10代後半の創作はそうだった。
それは楽しかったが、身体を壊した。
今なら死んでしまうだろう。
かと言って、すぐに工場生産のようにはなれない。
でも、創作するなら、このように自分の創作を飼い慣らさなければならない。
noteを毎日少しずつ投稿している。
このnoteがひとつの大きな「物語」として、睡眠や長時間労働による分断後も、無事、還ってくることができている。
無事、巣に還ってくることができるのなら、佐々木俊尚氏の「少しずつの集中」を繰り返していける。
