文学的でありたいのこれまでと、これから(生成AIと文学的⑥)
このnote「文学的でありたい」をはじめて1年がたつので、コンセプトなどを振り返ってみたい。
長時間労働者で個人表現をする人たちに、わずかでも足しになれば。
毎日投稿
開始当初は、「毎日投稿」を目指した。
毎日必ず、noteに触れること。
仕事の合間の短い時間でも、少しずつ思考が進んでいった。
記事も番号を振って、シリーズのように書いていった。
ちょっとずつで、昨日と今日と明日がつながっていった。
ちょっとずつ、というのが大切で、一気にまとめてしまおうとしないこと。
今なら、箇条書きですべて書き出して、AIにひとつにまとめてもらうこともできるだろうが、そうしないこと。
毎日ちょっとずつ、細々と書き続けるというのは、「長時間労働者」や「個人表現者」には効果的であると思う。
「個人表現」、アウトプットをして客観性を獲得する、というのは良いことである。
客観性と言っても大したビューがあるわけでもない。
個人表現をして一番大きいのは、自分自身の中のもう一人の自分が読む、ということである。
自分自身を言葉に変えて、外側に存在させる。
それをまた、自分自身が読み返す。
自分でまとめ記事(目次記事)
そして、「これまでの文学的」というまとめ記事に、書いたことをまとめていく、ということをして、振り返る機会を作った。
振り返る際に、AIではなく自分で、「この記事で書きたかったことはなんだろう?」ということを考えた。
「自分の中の読者(もう一人の自分)」が、冷静に自分の書いたことを振り返ってみると、思いもよらなかったことに気付くことがあった。
こうして、「要約する」「振り返る」ということを繰り返すことで、自分を掘り下げて見ることができるようになったと思う。
振り返ってみると、「文学的でありたい」と思い立ち、このnoteにひとり書いてきたことは、
・心について
・青春について
・批評について
・創作について
・社会人の武装(ハックス)について
・働きながら文学的であることについて
・文学をBGMに
といったことであった。
思いやり深く、思慮深く、若々しく。
より深く考え、より充実したい。
効率化を極め、自分時間を捻出する。
あるいは自主制作(創作)などもすると、良いかも知れない。
幸せであるためには文学的であることが必要な気がするぞ、というようなことだったと思う。
もしかしたら、この設定自体が間違っているかもしれない。
つまり、「文学的でありたい」と願うことは、不幸せにつながっている。
心をなくして効率的に働いたほうが幸せになれるし、人の闇について深く考えなどしたら、転落して、這い戻ってくることはできないかもしれない。
創作など、時間のかかることに拘泥していたら、他のことに目が行かなくなるかもしれない。
そもそも小説を読むことなど時間がかかりすぎる娯楽だ。
ショート動画で心を満たせる現代、時代錯誤もはなはだしい……。
けれどもともかく、まだこの道を行ってみる価値はありそうだ、という予感はあるから、このまま続けていこうと思う。
心はなくさないほうがいいのではないか、効率だけを重視しないほうがいいのではないか、人の闇について考えておいたほうがいいのではないか、創作をしたほうがいいのではないか、小説を読むという時間が人生の中にあったほうがいいのではないか。
すべては私の人生であり、私個人の責任のもとに行う壮大な実験である。
このことについて、一応AIに聴いてみる。
「心をなくして効率的に働き、人の闇について深く考えず、創作など、時間のかかることに拘泥せず、時間がかかりすぎる小説読書をせず、ショート動画で心を満たしていたら、どうなりますか?」
Geminiの回答
長いので省略しながら箇条書きにするが、AIの回答には心底感心する。
心底AIに傾倒してしまったのは、この回答の角度の鋭さだ。
・これは心と感情を切り離し、効率と刹那的な満足感を追求する生き方だと言える
・メリットは「ストレスの軽減」「生産性の向上」「即座の満足感」
・デメリットは「感情の鈍化:心が麻痺していく、その結果、他者への共感応力も失われ、人間関係が希薄になるかも」「思考の停止:深く考えることを避け、物事の本質や複雑な問題に対する洞察力が育たず、思考が表面的で短絡的になる可能性」「自己認識の喪失:自分は何者で、何を大切にしたいのかという問いを立てなくなり、自己認識が薄れていく可能性」「人生の空虚感:人生を豊かにする深い充足感や達成感は得にくい。より強い刺激を求めるようになるかもしれない。」
・最終的に、あなたは非常に効率的に生きる「機械」のような存在になるかもしれません。目の前のタスクは完璧にこなし、ストレスも感じにくい。しかし、その内側には、感情も、深い思考も、自分自身も存在しない、空っぽな人間が残る可能性があります。効率を追求する生き方は、現代社会において非常に魅力的に映るかもしれません。しかし、人間らしさや人生の豊かさを構成する要素の多くを失うことにもなりかねません。
・もしよろしければ、あなたはなぜこの問いを立てたのか、少しお話いただけますか?
最後には心配までしてくれている。
なんなんだおぬしは。
GPTの回答
1. 短期的なメリット
「効率は上がる」「心の負荷が減る」「手軽な満足感:ショート動画は即効性のある dopamine(快感ホルモン)をもたらすため、「楽しい」「満たされた」感覚がすぐ得られる。」
2. 中長期的な影響
「心の感受性が鈍る」「忍耐力の低下」「内面的な空洞感」「人間関係の浅文化(※)」
※GPT、そんな言葉はないことないか?!
3. 極端な未来像
もし長く続けると、「効率的な「労働装置」のような人間になる」「芸術・文学・哲学的な深みを持たない存在になる」「社会的には重宝されるかもしれませんが、自分の「人間としての豊かさ」や「意味を感じる時間」は痩せていく可能性が高いでしょう。」
*
要するに、短期的な快適さと効率の代償として、長期的な深みや充実感を失いやすいということです。
*
ご質問を深めたいのですが、あなたは「そうならないためにどうするか」を考えたいのですか? それとも「もし本当にそのような人間になったらどんな世界が待っているか」を想像したい感じですか?
※ツールとして、効率化の道具としてのAIにも興味があるのだが、AIの良心というか、道徳心というか、倫理観みたいなものにも興味がある。
私のAIとの会話の目的は、第一に疑問解消、お悩み解決であるが、第二に、AIの道徳心とか倫理観のチェックである。
また、どこまで意識を持っているのか、心をもってきているのか、にも興味がある。
それはこのnoteのはじめの頃に書いた、「心をなくしたくないよな」にも繋がる。
三宅香帆氏とPage Turnersをやっている竹下隆一郎氏。
竹下氏が、AI技術の源流を築いた数理工学者・甘利俊一氏と対談する途中で、「人間の心や意識というのは、コスパが悪いじゃないですか。(36:30)」と言うシーンがある。
「色々悲しんだりうじうじしたりせずに、Chat GPT のように毎日何も考えずに仕事ができたらどんなにいいんだろうと私は思うことがあるので」
それに対して、甘利氏「でも、人間は物好きですからね。植え付けてみたいじゃないですか、意識を。」
人間の方はすでに意識(この煩わしいもの!)を持っているわけで、意識を持っている側からしたら、逆に意識をなくすことに憧れる。
意識を持っていないAIには、意識を植え付けることに憧れる。
不可能への挑戦。
A Iが意識を持つか、人間が意識を捨てれるか。
これからの「文学的でありたい」
これからの「文学的でありたい」は、今までの思索をさらに深めると同時に、
①長時間労働者がAIと共同執筆してみること
②上手にツールを使いながら、ツールに使われないようにする(あるいは使われて斜陽する様子)
みたいなことを書いていくことになりそうだ。
個人的な文章の時代
最後に、倉下忠憲さんが個人的な文章の時代 | R-styleで書かれていたことを要約引用する。
生成AIの登場で、「何のエキスも塗り込まれていない大量の文章」「魂を持たない文章」が生成される時代になっている。
こういう時代こそ、「個人的な文章の時代」だ。
価値あるコンテンツはペイウォールの向こう側へ・・・
その中で、個人的な文章を書き記すことは一種のレジスタンス!
また、個人的であるための個人的サイト | R-styleでは、しかし、そこに書き記されるのは「本当の自分」ではないかもしれない、という指摘。
けれども、「個人的である練習」として、個人表現は必要なのでは、ということ。
結局は外面|《そとづら》なのだ……。
『スマホ時代の哲学』に、政治学者クリス・ベイルが「社会的場面で提示した自己の様々なバージョンに対して、他者がどんな反応を示すかを踏まえて自己を形作っていく」という引用(p352)があった。
平野啓一郎氏の「分人」にも繋がりそうだな。
自由にカスタマイズできる個人表現としてのテキストサイトをどのように運営していくかモンダイ。
このnoteは、公開の場で行われている毎日の思考/ふりかえりである。
しかし、他者からのコメントが殺到し、それらを読んで改訂しているわけでもないので、自分の思考に影響があるとしたら、遠慮とか、他者を意識しただけの自己意識とか、そういうレベルなのだけれど。(でも、それで充分に、執筆活動は有意義なものになっているな。)
