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電子の手触り(本の手触り⑧)

Kindleのページめくりアニメーションは、紙の本のページをめくっているかのようで気分が上がるが、ないほうが高速でめくれる。
リアル書籍の、紙の繊細な薄さをめくる親指が、タップかスライドに代わる。
なんとなく、スライドのほうが好きである。
iPadのほうが、Kindle端末よりも速くめくることができるし、雑誌や漫画などの画像タイプの電子書籍も読みやすい。
けれど、iPadは液晶なので、電子ペーパー形式のKindleのほうが、目は疲れない。
こうした微妙な読書体験の違い(手触りの違い)は、ちょっとしたことだが、気になる時は気になってしまう。

Kindleなどの電子書籍端末なら、大量の本を持ち運べる。
ただし、そのおかげで、1冊に集中できず、常に浮気な心が働いたりする原因にもなる。
小さい頃、旅行の移動用に、何冊かの本を厳選して持っていったものだ。
家族と会話をしなくていいようにするためとか、斜に構えたときもあった。
『イン・ザ・ミソスープ』は、旅先で読了した気がする。
どの本を読むべきか、大きくなるにつれて、その土地に少しでも関係のある本を選んでみたりするようになった。
どこで読んだか、というのも、読書の手触りのひとつである。

電子書籍だと、すべての手触りは同じである。
Kindle PaperWhiteなら、硬いプラスチックの手触りである。
iPadでは、鉄の手触りである。
カバーで違う手触りにすることができるが、重くなるのでやっていない。

電子書籍なら、印刷や流通の手段が必要ないので、自分で出版することができる。
個性的な、その本その本の手触りはないが、有名な作家と肩を並べることができる。
素晴らしい時代になったものだ。

note作家さんなどもいるが、アイコンや画像などで、それぞれの個性を出されている。
電子の時代の手触りの違いは、SNSの活用とか、別の付加価値によってもたらされている。

本の中身は、テクストである。
結局、テクストをどう読み込むかが重要なので、どのビーグルで運ぶか、どの手触りの箱に入れるか、というのは、主題ではない。
ミームや思想のキャリーとしてのテクスト。
その外側の、本の手触り。
魂はそこにない。
では、どこに魂は宿るのだろう?
例えば我々は、お墓を作ってきた。
そこに主はいない。
あるいは死んだ人の魂は、自分自身の中にある。
今日、初詣でに行った。
祈る自分の中に、神はいるのかもしれない、と思った。
でも、祈る対象として、そこに確かな存在を感じられる何かがなくてはならない。
実在するもの、リアルで存在するものの価値は、そういうところにあるのかもしれない。
(すべて電子デジタルで)、と思っている人にとっては、実際のモノや手触りが必要だなんて、なんてアナログで古い人なんだろう、と思うのかもしれない。

ごりゅごさんがPodcastしていたことなのだが、リアル書籍があるほうが、本を読まなきゃ、ということを思い出したり、積ん読していても、そこから立ち上がってくる何かがある。
電子書籍は、リマインダーとか、何か、別の方法で思い出さなければ、購入したことさえ忘れてしまう時がある。
この頃、Kindle PaperWhiteの電源を切った時に、表紙を表示させ続ける機能を使って、1冊だけ、電子書籍の存在感を、現実世界にとどめ続ける、ということをしている。
電子書籍を、「佇んでいるひとりの人間(江藤淳)」のように、感じるための、ひとつの工夫である。


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