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攻略本問題、ネタバレしても『ルックバック』は面白い(批評について④)

ネタバレしても面白い作品こそを楽しもう、という、死んだ作家にしか興味がない、みたいな、芸術作品の選抜方法もあるのかもしれないけれど、というようなことを、前回書いた。

テレビゲームは攻略本を片手にやったほうがいいのか問題。
あっちでもない、こっちでもないと、汗水垂らしてムダな遠回りをしながらやるほうが、ゲームを攻略した時の喜びもひとしおである。
しかし、ゲームというものに費やせる時間というものにも限りがある。時間のムダをやっている暇はない。けれども、ゲームはしたい。最低限の時間でゲームをクリアしたい。そうなると、攻略本が必要になる。
攻略本を使っても、ゲームをしているという瞬間は味わえるわけで、ゲームをやっていない、というわけではないから、幸福な時間は得られるわけだ。

「他人の感想や批評」は、あるいは作品を見た時に、そこを見逃さないための攻略本のようなものになるかもしれない。
さて、可処分時間が少ないあなたは、攻略本を選ぶだろうか。

倍速で映像作品を楽しむ、という冒涜と、ネタバレ感想を読んでから楽しむ、という冒涜は、どっちのほうが罪が重いだろうか?

このようにネット上にあふれた「感想文」であるが、「感想文だけで作品を読む」ことも可能になってくる。
オリジナルではなく、「オリジナルの周辺」に触れることだけで、その作品を読むことが可能になる。

なんでそうまでしてその作品を読む必要があるのか?
ひとつ目は、話題についていくためだろう。
教養としての芸術鑑賞である。
アレ見た?見た見た、というために、その作品を、とりあえずは知っておく必要がある。
博学を箔にして身に付けるためには、さも、良い作品と出会い、味わい、理解できる俺、を演出しなければならない。
ふたつ目は、コンプリート感覚、読むべき作品と見定めた作品に、「読了」という印をつけるためだろう。
そして、読むべき作品が、なんとこの世に多いことか。

ところでさっき、「オリジナルではなく、"オリジナルの周辺"に触れることだけで、その作品を読むことが可能になる」と書いたが、これは、「作家の魂そのものではなく、"作家の魂の周辺の言葉"に触れることで、その作品を読む」と似ている。
私たちは、作家の魂そのものに触れることはできない。
触れることはできないので、その周辺の言語で代替する。表出された作品で代替する。

けれども、作家の魂そのものは、作家自身にもどこにあるのやら、ほんとにあるのやらもわからない代物である。
作家自身も、それを目指して言葉を尽くしている。
漫画のコマを尽くしている。
セル画を尽くしている。
筆を尽くしている。
せめて、オリジナルのその刻字に、筆致に、Gペンの傷跡に触れよう。
そこにこそ、作家の努力の跡があると思う。

さて、noteには、「#ネタバレ」というハッシュタグがあって、これをつけると、記事の最初に、「記事にネタバレが含まれる危険性があります」と、お知らせしてくれる。
これは便利な機能だ。
ネタバレを受け入れるかどうか、自分で選ぶことができる。

さて、映画『ルックバック』についてである。
ネット上の「ジャンプ+」で無料で全ページ公開されて、1日でかなり読まれ、SNSなどで拡散されたらしい。
そのあと、映画化され、当然予告編などが公開される。
劇場公開され、感想がネット上に上がっていく。
アマゾンプライムで配信されるようになる。

なので私は、この話がどういう話なのかを知っていた。
ふたりの少女が創作に向かう。
京都アニメーションのような悲劇が起こる。
それでも前を向いて歩き出す。

見終わった後、何も知らずにこの作品を味わいたかった、とは、思わなかった。
ネタバレしても、映画『ルックバック』は面白かった。
純粋な少女たちの成長譚。
声優、音楽、アニメーションの心地よさ。
作中の事件の衝撃と、それが共鳴する現実との狭間。
創作についての、根源的な問いかけ。
そのどれもが、素晴らしかった。


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