既視感は文学的ではない(批評について⑩)
既視感は、文学的ではない。
つまり、マンネリズムということ。
どこかで見たことのあるキャラクター。
どこかで見たことのある展開。
常に新しいことを求めるのが文学である。
未知を現前させ、既知にしていくのが文学である。
その経験も、パターンも、人物造形も、語り口調も、同じではない。
・・・のか?
新しくないと、感動できないというのは、消費者のエゴではないのか?
いやしかし、人類は、着実に進歩している(と思いたい/思っていないと生存してゆけない)。
昨日より今日、今日より明日の人類にとって、文学も新しくなっていかないわけがないのである。
批評は、オマージュや同時代の作家や他の作品について言及する、
だけでなく、社会の風潮や人々の考え方、倫理や哲学、事件や社会情勢などなどを考えながら、書かれる。
あるいは人類の進歩について、吟味している。
我々は、この道を歩んでいってもいいものかどうか?
平成文学総括対談|第8回 批評はどこへいくのか|重里徹也・助川幸逸郎 | 未草によると、現代は文芸批評の地位が凋落している。
アニメやゲームを論じた文章は需要があるが、文学については需要がない。
現代は、文学自体を必要としていない人が多いのかも知れない。
村上春樹氏も、『職業としての小説家』の中で、「習慣的に積極的に文芸書を手に取る層は、総人口のおおよそ5%くらいではないか(p70)」と言っている。(それでも心配はしていない、本好きの人がちゃんと本を読んでくれさえすればそれでいい、とも言っている。)
上記「批評はどこへいくのか」の中では、文学の不人気とともに、批評家の視野が狭くなった、というようなことも語られている。
小林や吉本、江藤など、森羅万象に博学、関心をもっている批評家がいない、というようなことが語られている。
そして、これからは、「文学を通してしか、社会とかかわれない人間」の、「本気で小説と向き合う言説」が求められていくだろう、と締めくくられている。
