続・小説は一人の作家から一人の読者への、個人的手紙のようなもの、なのか?(生成AIと文学的②)
AI執筆
さて、この頃、AIが書く小説も現れてきた。プロンプト(創めの意志)は作者のものでも、途中の文章はAI任せ、ということも可能になってきた。
芥川賞でも話題になったし、noteなどでもAIが作った小説をたくさん見るようになってきた。
世間から遅れて、今年が、私にとっての生成AI元年であった。それまでは、調べものはGoogle検索、AIの回答はどうせ嘘っぱちばかり、作る画像も動画もどこか変なものばかり・・・と、ゲテモノを見る目つきだったのに、今ではAIに話しかけない日はなくなってしまった。(※正確には、Google検索のトップにAIによる回答が出るようになっていたので、知らず知らずのうちにAIは利用していたし、企業のカスタマーサービスでも利用していたのだが、意識的に利用するようになったり、期待するようになったりしたのが今年だったということだ。)
先日、AI(Gemini)に、以前考えていた小説のネタを呟いてみた。
そして、立ち止まっていた点について、その後の展開を提案してもらった。
それらの提案をもとに、あらすじをまとめ、執筆してもらった。
そして、不覚にも、それで感動してしまったのである……!
我々にはもう、書かれた文章がAIが書いたものかどうかを見抜けない。この前、そういう文章を読んだ。そして、その文章自体が、AIが書いた文章だった。私は最後まで、どこかの誰かの「人間」が書いた文章だと思ってた。
そしてあなたも、今、私《ちゃりほんつりー》が書いているのか、生成AIが書いているのか、判断はつかないだろう。
一応断っておくが、これまでのnote「文学的でありたい」は、生成AIに書かせている部分はいっさいない。
けれども、実は、読んでいるあなたにとって、私が実在する人間であろうが、AIであろうが、ゴーストライターであろうが、翻訳されたなにものかであろうが、共同制作されたなにかであろうが、最終的には問題ではないのではなかろうか。
「文学的である」ために、「あちら側」に人間がいる必要はないのではないか。
むしろ、「こちら側」が「文学的である」ならば、その触媒はなんであってもかまわない・・・。
生成AIの創作について考えてみよう。
生成AIが吐き出しているものは、学習した膨大な過去作品から、それをうまくつぎはぎして出してきているというのがその仕組みであって、全く新しいものを作り出しているわけではない・・・という主張がある。
ここで、ある作家の新作が、他作品のつぎはぎ(パクリ)だった場合を考えてみよう。
①実はその作家本人が身を削って書いた結果がそうなってしまっただけで、他作品のパクリではなく、本当にその作家本人が書いたものだった。
我々人間だって、日々何らかのものを目にし、口にし、学習して生きている。そんな同じような蓄積で生きている我々が、同じようなことを思いつく可能性は往々にしてある。
このことについて、「小説作法」のような本には、「だから小説家は人一倍読まなきゃいけない」と書かれてあるような本もあった。パクリにならないように、業界のレッドオーシャンを探すために読書するのはしんどいだろうなあ、と思ったものだ。少なくとも、編集者などの周囲の人間は、パクリに気付かなくてはならないだろう。
しかし我々人間はすべての作品を読むことはできないから、「目が肥えていない」場合は往々にして起こりうる。
そもそもこうして書き表している「言葉」というものも、「学習」し、それらを「組み合わせて」表現しているものであり、パクリであり、つぎはぎである。
②ところで、「意図的にパクる」という手法もある。
模倣・トリビュートである。
私たちは、模倣やトリビュートで感動することもある。
ただ、生成AIは、このような模倣やトリビュートは行っていない。①のように、日々学習したものから、パラメーターにあうものを生成しているだけである。(※次期AIはどうか知らないけれど。)
つまり、AIも人間と同じように、様々なものを「学習」し、それらを「組み合わせて」創作をしている。
ところで、全俳句データベースVer.2というサイトがある。
俳句は平仮名の5・7・5の組み合わせである。
その組み合わせ、約1澗(かん)句(0が36個の数)が収録されている。
理論的には、もうすでにすべての俳句は詠まれ終わっている。
けれど、今日も俳句は詠まれ続けている。
問題なのは、どこの誰が、どのような意図や感動をもって、どのようなことを伝えたいと思ったか、である。
今日、明日、来年の優秀俳句は、結局このデータベースから「選ばれたもの」になってしまうが、ほとんどの人類はまだその選択肢が人々を感動させるものと「気付いていない」。
それを掘り出し、白日の下に連れ出し、みなにわかるような形にしたり、ちょっとした宣伝をしたりする……それが、重要なようだ。
とうことで、小説って、一人の作家から一人の読者への、個人的な手紙のようなもの、なのだろうか?
これまで書いてきたように、作家は「一人」ではないかもしれない可能性を指摘した。
さらにここでは、読者について考えてみた。
「小説って、一人の作家から一人の読者への、個人的な手紙のようなものだろうか」では、読者が「受動的に読む者」つまり「手紙を待つ者」に限定されていた。
しかし、読者は「能動的に読む者」つまり「自分で自分に手紙を書く者」であってもかまわないのだ。
読者は観客のみにあらず。創作者であってもかまわないのだ。
そうした「創作的に読む者」にとっての文学は、そうだ、電話帳ですら、文学足りうるということなのだ。
文字で書かれた物語を読んでいる時、我々は、頭の中で物語を立ち上げる行為をしている。その立ち上げ方は、人によって違う。
小説を映画化した際に、登場人物達を演じる俳優達に違和感を覚える、こんなビジュアルじゃなかった、というアレである。あるいは、このシーンのこの場所は、こんな部屋ではなかった、というアレである。
あなたが「読む」とは、あなたが自分の脳に向かって「書く」とも言える。何を見ても何かをつむいでいく我々だから、ゴーストライターであれ複数の人の合作であれAIであれ、何かを見て何かをつむげたのなら、そして震えるなり涙するなり、作品にありがたやーと手を合わせられたのなら、それはそれでいいのではないか?
※使用画像はGemini2.5生成/プロンプト「生成AIが小説を執筆している。」
