AI小説執筆は批評家のそれだろうか(生成AIと文学的⑩)
フォークナーが『作家の秘密』でこんなことを答えている。
芸術家は、批評家に耳を貸す余裕がない。作家になりたい人たちは評論を読む。ただ書きたいと思う人たちは、評論を読む暇がない。批評家たちも「これがおれの作品だ」といおうとしている。その機能は芸術家そのものに向けられていない。芸術家は批評家を動かすものを書くのだから、芸術家は批評家よりも一枚うわてなんだ。批評家は芸術家以外のすべての人を感動させるものを書いている。
すなわち、芸術家は「読者+批評家」を感動させるものを書いている。
批評家は「読者−芸術家」を感動させるものを書いている。
芸術家のほうが、より多くの人を感動させている、というわけだ。
AI執筆で小説を書いてみたが、その体験は、多分に批評家のそれだ。
出来上がった物語を眺めて、それについてうんぬん言っているのは、批評家のふるまいだ。
もちろん、そこから、推敲とか、場合によっては自分で書き直すとか、書き足すとか、そういうことはするのだけれど。
「自分でいちから書く」というところには、何かしら大切なことが含まれている。
それは、「自分の記憶から書くこと」とか、「自分の言葉を磨きながら書くこと」とか、「時間をかけて書くこと」とか、そういうことだ、ということを考えてきた。
ただ、文章に私の個人的な、それこそ自涜のような「記憶」が、必ずしも含まれている必要性はない。
また、私の言葉が磨かれようが磨かれまいが、読者には関係ない。自己表現が必ず自己治癒である必要もない。
時間をかけようとしても、時間がないのだから仕方がない。
という点で、私はAI執筆を肯定できた。
新しい道具が出てきた時に、人によっていろいろな反応がある。
ワープロが出現した時、小説は手で原稿用紙に書いてナンボ、と主張した人はたくさんいた。
太宰治や大江健三郎、初期の村上春樹の作品は、原稿用紙に書かれていて、今でもそれを原稿用紙で読むことができる。
村上春樹さんは、途中からマッキントッシュで小説を書かれはじめた。
パソコンに切り替えたから、文体が変わり、物語が変わったのだろうか。
詩人はゆっくりと、鉛筆で詩を書くだろうか。
谷川俊太郎さんは、2009年の時点で、パソコンで書かれていることを、『ひとり暮らし』の中で書かれていた。
意外だった。
詩人のまど・みちおさんが高齢で字を書くのが難しくなったのを見て、2000年代初頭に、将来のためにパソコンに切り替えたようだ。
パソコンに移行したことで、詩の改行やレイアウトの調整がしやすくなったらしい。
欧米の作家達は、タイプライターは漢字変換がないぶん単純な構造で済んだので、かなり昔の人から、タイプライターの人がいる。
手で書くのと、何か変わったのだろうか。
遺伝と共に、環境は人に作用する。
AI執筆でショートカットしていることを自覚しつつ、AIという環境を上手に使っていきたい、と思う。
