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どうせ死ぬまでの暇つぶし?(暇と退屈を埋める文学的㉙)

どうせ死ぬまでの暇つぶし。
駅で待っている列車(『暇と退屈の倫理学』p240)は、死という名前の列車・・・?

もうこの人生に、ある程度は満足している、という人もいるかもしれない。
①ある程度の高みを知れた(ジェットコースターのてっぺん)、
②飽きてきた、マンネリを感じる、
③早く結末が見たい・・・

「文学的でありたい」は、上記のうちの2つについては考えてきた。

①ある程度の高みを知る。
人間の心を昂ぶらせ、感動し、自然と涙が出たり、自然と身体が動いて小躍りしたりする、そんな物語に出会う、そんな記述に出会う、そんな物語に憧れて、それが現実の世界でもドラマとなって立ち現れる、最後には自分で物語を書いたりする、人生をふりかえる、人生のすばらしかったことについて記録する、自ら創作する、あるいは既存の物語世界に遊ぶ(2次創作)、
文学を人生のBGMとして聴きながら、そんな素晴らしい人生の彩り方があるのだということについて考えてきた。

②飽き、マンネリズム。
社会をメタ的に眺める視座を手にして、その構造に気付いたりする、そういう鋭敏さをもつことも文学的であること。文学は人生全体を物語という形で提示する、そこに隠された何ものかを顕現したりする。
けれどもそのリピート、リピート、リピート、いつしかマンネリ化して、あるいはパターンに気付き、トカトントンしたりしてしまう。
物語の批評を繰り返すうちに擦れてきて、心が何も感じなくなってしまう無感動、そんなものに負けないためのもっと大きな批評、あるいは心の持ちよう。
「社会人の武装の仕方」では、作業をパターン化して、「心」を殺して生産性を上げ、そういう冷たいシステムがしっかりすれば、生活は安定し、社会的地位をもち、家庭をもち、その上で娯楽を享受する余裕はできる、
けれど「心」を殺してしまうのはダメだ、長時間労働で働きながら、なぜ働いていると本が読めなくなるのか、ショート動画や単純明快で安っぽい物語に隷属することなく、働きながら知的で文学的で心をなくさない方法をと考え、このnoteを始め、ちょっとずつの読書や創作を日常生活の中に組み込み、そうした「武装」をして、息を吹き返そうとした。
この「武装」に放り込める情報は、記録し、保管し、あとで考えたりできる、そういう武装をしていないとなあということを考えた。

③については、文学は挑戦はできるが、その世界については、宗教の分野であろう。
誰しも死からは逃れられないが、なんとなく退屈だ、早く結末が見たい、などと思えるのは豊かさのおかげで、
死を甘やかすな!
死は厳しく、寒く、死別したその人とは二度と会えないのだ、
死者は風になって存在しているとか、オカルトで霊としてこの世に残るとか、呪術とか、自分自身すら幻想だとか。
死を甘やかすな!
今を生きろ。(映画『いまを生きる』また見たい。)

この先も、まだ楽しいことはきっとある。
そういう、かすかな希望みたいなものは、ある。
そう感じられる感受性は持ち合わせている。

世界には思考を強いるものや出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。

『暇と退屈の倫理学』p409


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