小説は一人の作家から一人の読者への、個人的手紙のようなもの、なのか?(生成AIと文学的①)
小説って、一人の作家から一人の読者への、個人的な手紙のようなものだと思ってきた。
でも、そうでなければならないと固く規定してしまうと、思考の広がりが、芸術としての深みがなくなってしまう。
ちょっといろいろ考えてみよう。
ゴーストライター
ゴーストライターなど、作者その人が書いていない場合。
この場合、「一人の作家から一人の読者への、個人的な」という部分が違ってくる。
それは、イタズラ手紙みたいなものかもしれない。
その手紙によると、クラスの○○ちゃんは、ぼくのことを好き。
そう思ったけれど、それは誰かのイタズラだった、なんてことが、昔あった。
ショックだったなあ。
分かってたよ。知ってたよイタズラだって。
それでも、動揺し、ときめき、右往左往した私の心の中には、真実の愛の物語があふれだしていた。
それを面白半分で見ていた友達は、私の心の動きに、そのざわめきに、一種のストーリーを見出していただろう。
さて、ゴーストライトされた作品があるとして、イタズラ手紙と違い、こちらはかなりの確率で、イタズラだと分かることは少ないだろう。
手紙と違って小説の場合、小説自体に虚構が含まれているのであって、その虚構に、確かな好意やぬくもりを、あるいはそう勘違いしてしまった自分自身を見出すのなら、それは芸術としては「作用」しているのではないだろうか。
○○ちゃんが私に向けて書いた真実の手紙でなくとも、私の感情は確実に動いており(感動)、その私を眺める人々(実際に周囲に人がいなくとも、そんな私の感動をメタ認知している私自身は観客として必ずそこにいる)は、確実に私の心の動きに気付くことだろう。
この文章は、ゴーストライトを肯定し、推奨するものではない。
しかし、その作品がゴーストライトでないことを、いちいち立証する事は難しい。
作家と読者の信頼関係が重要である。
あるいは、それがゴーストライトだとして、関係ない。このことについては、最後にまた書く。
翻訳作品
さて、ゴーストライトとは違うが、海外の作品が日本語に翻訳されており、それを読んだ私が深く感動する、ということもあろう。
例えばシュリンクの『朗読者』や、マキューアンの『アムステルダム』は、私を深く感動させた。
【作者→翻訳者→読者】という流れの中で、翻訳者は手紙を配達する配達員のようなものであり、手紙そのものは一人から一人への、ごく個人的なもの、と言えるのだろうか。
そこに誤訳や、意訳は含まれていないのだろうか。
『朗読者』と『アムステルダム』は、それぞれ違う言語で書かれており、特に前者はドイツ語だから、私にはまったくもって確認のしようがない。
翻訳の世界も、深いものがある。
『翻訳夜話』『小説の読み方、書き方、訳し方』『翻訳地獄へようこそ』など、深堀りしようとしたらいろいろありそうだが、やめておく。
ところで村上春樹さんの小説に、『ねじまき鳥クロニクル』というものがあって、当初、この小説がアメリカで翻訳刊行された時に、大幅に改編された、という話を聞いたことがある。
当時バブルに湧いていた異色の国ニッポンを好意的に伝えようとしてくれたのだろうか。あるいはセンセーショナルに煽るような目的があったのだろうか。
検閲されたり、途中改編された手紙は、果たして一人から一人への、ごく個人的なものだと言えるのだろうか。
共同制作
複数の人によって書かれた場合。
小説においては、複数人がひとつのペンネームで、共同執筆を行うことがある。
この場合、「個人から個人への手紙」とは言えなくなる。
世界ではコンビで執筆するペンネームは珍しいものではないが、日本ではあまり例がないらしい。(岡嶋二人 - Wikipedia)
漫画や、映画や、演劇など、複数の人間が関与する芸術作品も多くなってきた。
漫画『推しの子』は、原作と作画は別れている。
漫画『ダンダダン』は、編集者と漫画家の相談で作られているようだ。
矢立肇 - Wikipediaというのは、ガンダムで有名なサンライズやバンダイナムコのアニメーション作品企画部が用いる共同ペンネームだそうだ。
主に版権管理のために使われるらしい。
「エンドロールにクレジットされたたくさんの人々の中の一人」も、一人ではない場合がある!
映画には脚本があり、監督がいる。
美術、照明などが作り上げた場所で、役者が演技をする、それをカメラマンが撮る。
編集で、シーンの切り貼りや加工があり、BGMがあり、予告編などのプロモーションがあり、ひとつの作品になる。
そもそも「シーンを撮る」という時点で、借り物を集めてきているような感じがする。
現実はそこにあり、カメラを持ってきてそれを切り取っている。
文章のように、一語一語でその世界を立ち上げているわけではない……。
映画は誰からのどんな手紙なんだろう、とふと思う。
小説は、そんな時代に「一人の作家から一人の読者への、個人的な手紙」ですよ、という愉しみをもたらしてくれるものかもしれない。
そういう親密な関係性が、そういう信頼が、責任が、著名な文学作品にはある。
もちろんそれらは尊い。
それらの存在そのものが尊いし、それらと出会えたこと、それらを経験できたことが尊い。
「あちら側」に、確実に、その人がいるということ。その前提に立って、物語が読めるということ。
これは奇跡であり、とても重要なことのひとつだ。
ただ、文学的のすべてではない。
「あちら側」に誰もいなくても、「こちら側」には私が、あなたがいる。
「こちら側」の私が、得体の知れない何かを読み解いて感動しても、それはそれで文学的なのだ。
