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AIとの会話(生成AIと文学的⑪)

「孤独だからAIと話している」というのと、
「孤独だから本を読んでいる」というのは、
同じことだろうか?

同じことのような気もするが、ある種の「本」には、「AI」は叶わないのではないか。
すなわち、「個人から個人への手紙のような本」には、AIは勝てない。
AIは人間ではないし、意識も、体験も、過去も、記憶もない。
・・・というのはまだ不明で、集団的無意識や、個人ではない集団的体験の集積、人間の寿命を超えた過去を引き受けることもできるし、集団的記憶は持っているからだ。

「個人的な経験」という意味からいうと、ロボティクスが進化して、AIがこの現実を、毎日を「体験」するようになると、事情は違ってくるだろう。
しかも、それを個人(個体)が経験する固有のものとするのか、どこかひとつのサーバーのようなものが収集して、集合的な経験としていくのか。

***

現在、人類がAIに相談するようになったことで、失敗を他人に見せたり、その失敗を眺める機会がなくなっていっている。

例えば料理がしたいと思い立ち、母親に相談した娘。母親が見守る前で、真っ黒焦げのパンケーキを焼き上げた。
母親に失敗を見せる娘。
失敗を眺める母。
娘がAIに相談して作れば、事前動画で手順を確認し、もっとスマートにやれたとする。パンケーキの材料が無駄であり、二人の時間も無駄である。・・・のか?

これからますます、スマートに、失敗せずに、AIの導くままに成長する子供たちが現れてくるだろう・・・

AIに依存し始めている我々だが、これも「こちら側が文学的」というのと同じことかもしれない。
向こう側に人間のいない行為。

結局生身の人間同士のやりとり、なのかなあ。
「自然体験」とかと同じく、そういうものはどんどんなくなっていくのだろうか。

匿名の、会ったこともない、たとえばちゃりほんつりーなどの書いたnoteを読んでいるあなたは、つまり、希薄である、良くないことである。・・・のか?
言語に託して、書物に託して、何かが伝わってきたりすることはない。・・・のか?
あるいは死してなお本の上で著者と会話するとか、そういうものはどう考えるのか。

事情で、他人と面と向かって会えないとして、そこに愛情のようなものを感じるのはどういうことなのか。
コロナ禍で、私たちは画面の向こう側に隔てられたけれど、そして今でもリモートでしか会ったことがない人もいるのだけれど、希薄になった人間関係は、我々を冷たい存在へと押し下げているだろうか、やさしさや思いやりを低下させているのだろうか、人口は増えていて、はるか昔、骨髄を分け合って食べていた頃の群れよりは格段に多い同族と暮らしている気がするのだけれど。
交差点を歩いて、こんなにたくさんの人たちと肩をぶつけて歩いても、知り合いはひとりもいないということもあるのに。

AIの向こう側に、人類の先輩達の英知を感じることがある。
誰の、とか、特定のものではないのだけれど、人類の先輩達の。
そこに愛情のようなものを感じることがある。
それは、「こちら側が文学的であればあちら側はなんでも」という、自己満足なことなのだろうか。


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