常識を超えるスピード、驚くべき速さ(社会人の武装の仕方㊸)
MacBookAirを買って、6年がたつ。
いまだにIntel CPUである。
Neoというノートが出たりして、そろそろ新しいMacを考える。
記事のタイトルは、MacBookProの宣伝文句からとっている。
常識を超えるスピード、驚くべき速さ。
昔話をしよう。
ワープロをお年玉で買った時、テキストを打つのにも遅れて表示されるような、そんな時代だった。
インターネットが現れて、ホームページというものが現れた。
JAVAとかAdobe Flashとかのプログラムが走っていた頃、処理速度は重要だった。
ぬるぬる動くデザインウェブサイトを見るのに、より速いパソコンが必要だった。
そのうち動画が興隆した。解像度の高い動画を再生するのに、より速いパソコンが必要だった。
テキストを主戦場とする私のようなものにとっては、この頃、速いパソコンに対して、そこまでの必要性は感じない。
それでも、アプリケーションの起動が速ければ速いほどいいな、いろんな動作が速ければ速いほどいいな、とは思う。
それは、時間の短縮になり、工期の短縮になり、結局は、時間を儲けられる結果になる。
けれど、起動を待ったりする時間は、"いとま"は、無駄な時間なのだろうか?
私は早食いである。
食事の時間がもったいない、と思ってきた。
ディティール嫌いである。
できれば方程式や法則、構造のみに注目したい。
それを手に入れれば、ディティールは必要ない。
方程式を覚えれば、何百、何千という問題を問いて、点数をとって、定期テストではほめられて、受験に勝つことができた。
人間は愛し合って憎しみ合って、最期には死ぬものである。たいていの物語はそういうものである。ぜんぶ読む必要はない。時間の無駄である。そういう展開じゃない物語を持ってこい。
CMの時間は無駄である。
でもCMの時間に、トイレに行ったり、これまでのストーリーについておしゃべりをしたり、感想を言い合ったり、今後の展開を予想したりしていた。
CMを迎合するのは、そういう"いとま"のためと言っても、結局は資本主義、消費主義に迎合することになる、あるいはマスメディアを褒め伸ばす/くすぐりおだてる/ちやほやする結果になるので、別の負の側面もあるのだが、適度な休憩は必要なのではないかということが言いたい。
夜行バスは、人間が目を瞑っている「無駄な時間」の間に、人間にそれと気付かせずに移動させることができる。
新幹線や飛行機は高速で移動し、移動時間自体を短縮する。
そのうちワープみたいなものができて、本当に、「移動時間」というものがなくなるかもしれない。
ところで、我々は移動時間に何をしているのだろうか?
風景を見て、自分が移動している実感をもつ。
A地点とB地点の間のルートを確認する。
フリーレンの勇者ヒンメルは、道中、いろんな人を助けた。
いろんな風景を、仲間と共に楽しんだ。
移動は楽しめる対象だ。
人生において、楽しめるものはそう多くはない。
楽しめるものを切り捨てるのは、豊かな人生とは言いがたいのではないか。
ミヒャエル・エンデの『モモ』には、せかせか働いて、時間を貯金する大人たちが出てきた。
あの本を読んだのは小学生の頃だった。
あの頃嫌っていた大人に、たぶん自分はなっている。
「逆張り」したらいいのではないか。
速いパソコンを買わず、遅いパソコンを使い続ける。
速い移動を選択せず、ゆっくり移動する。
CMにも苛立たない、スローな視聴を選ぶ。
食事はゆっくり噛んで食べる。
時短時短と言わずに、スローに生きる余裕を持つ。
『弱さ考』では、「過程そのものを楽しもう」と書かれていた。
