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nom99
労働と労働の隙間(暇と退屈を埋める文学的②)
労働と労働の隙間に、「暇」がある。
暇な時、私たちは自分自身になろうとする。
労働の時間は、食いぶちを稼ぐための時間で、本当の自分は、労働と労働の隙間にある、と思っている。
でも、労働の時間も、この頃楽しい。
子どもたちが巣立てば、家でごろごろばかりしていても仕方がない、と思うかも知れない。
労働はなまやさしいものばかりではない。
嫌な人とやりあわないといけないこともあるし、
どうしてこんなことをしなければいけないの、という雑事な仕事をすることもある。
評価されるのも苦しい。自分はもっとできるはずであるし、できるはずであると評価されたらされたで、プレッシャーの中、また仕事をしなければならない。出世をあきらめて、道楽に走っている人たちが、ねたましいこともある。
立場が上になると、下の者を教育しなければならなくなる。部下の失敗は上司の責任である。クレーム対応ほどいやなことはない。
けれども、労働が楽しい、充実している、と思えることもある。
寒い雨続きの中で、日差しがあたたかい、というように、ふと労働があたたかい、心地よい、幸せを感じる、という時がある。
働き方改革というが、ホワイトすぎると面白くないという若者がいるらしい。
働いている状態がブラックだが、それをブラックだと感じない時もあるかもしれない。
少なくとも昭和平成の私たちは、あの狂騒を、あの熱狂を、楽しんでいたこともある。
今でこそ丸一日の休日などをもらえるようになり、勤務時間を記録して、超過勤務をしないように気をつけるようになり、長時間労働はなりを潜め、「少」時間労働を目指すようになってきた。
AIなどの登場も、人類に「暇」をもたらす契機になっている。
