見出し画像

文学的とは何か(文学とは何か⑱)

文学的であることで、今、ここにいる私《ちゃりほんつりー》はつくられている、と考えている。
それで、これまでの自分自身を振り返り、深掘りする形で、このnote『文学的でありたい。』を書いてみようと思った。

別に文学的でなくとも、生きている人たちもいる。
書き言葉をぜんぜん読まないという人。
小説なんてぜんぜん読まないという人。
文章なんてぜんぜん書かないという人。
世間の文化的なうつろいに興味がないという人。

私には働きはじめてから、本とかそういう深いものから遠ざかっていた時期がある。
それでも生きてはいけたんだよな。(このあたりは、カテゴリー「「文学的ではない」状態とは」とか、「社会人の武装の仕方」になる。)
でも、その生き方ではきっと後悔するな、と思って、今こうして考えてみている。

言葉(文章)を通して考え、情緒を含んだ記憶を手繰り、物語を養分として語らないと、文学的とは言いがたいと思う。
今、「言葉(文章)」「情緒」「記憶」「物語」などのキーワードが浮かんだ。
言葉とは何か。
情緒とは何か。
記憶とは何か。
物語とは何か。
私にとっての「文学的とは何か」を考える上で、これらを再定義すること、深く見つめ直すことは重要だ。
これらのキーワードは、これからの/も、このnoteのみちしるべになるだろう。

文学的、あるいは言葉/情緒/記憶/物語、を扱うには心が必要だ。
では、心とは何か。
最新の関心として、「AIは心を持てるのか?」
心……意識とは何か。
文学的、人間的とは何か。

これもこれからのテーマになるだろう。(これまでには、カテゴリー「こころを知っていくあの頃」「文学は心を扱う」を書いてきた。)

私は、文学的でありたい、と願いながら生きてきた。
そういう志向性を持って生きてきたから、今の私がある。
過去の、文学的に対して無知な私よりは、現在の、文学的を考えるnoteを書いたあとの私のほうが、充実していると感じている。
少なくとも、私は文学的でありたい、あろう、ある、ということで、人生をだいぶ救われてきたのだし、生きてこられたのだと思う。
あの時、あの状況で乗り越えてこられたのは、やっぱり文学的であろうとしていたからではなかったか、と思う。
そんな私の、「文学的である」とはどういうことか。
どういうことで、文学的になってきたのか。
それを紐解くこと。
そもそも、どうして「文学的であろう」と思ったのだろうか。
言葉で書かれた、本の形をした物語を手にしたから、はじまったのだろうか。
とてもとても個人的だと感じるような、物語の手紙を受け取る体験をしたからだろうか。深く愛することができる、物語体験に恵まれたからだろうか。自分でも物語を書こうとしたからはじまったのだろうか。(カテゴリー「創作的な文学的」に、創作について書いてきたが、必ずしも創作しなければいけない、ということではないかもしれない。ただ、創作すると、文学的は深化するのではないか、という感触はある。)
言葉を使って日記を書こうとしたから、はじまったのだろうか。
その都度深く、言葉で物事を、分析的に、哲学的に、感情的に、あるいは感傷的に考えようとしてきたからだろうか。
周囲の人間を大切にしようと思えてきたからだろうか。それだけ愛情を注いでもらって、友人に恵まれ、経済的にもそれなりに、という環境だったからだろうか。
経済的、資本主義、しかし、このnoteを書く以前、30代くらいの頃は、仕事と家庭とに忙しく、文学的とは言えない、軽いエンタメ・ドラッグに埋め尽くされているような、そんな時期もあったのだ。
別に「文学的」を崇高なもの、宗教的な修行を必要とする秘匿みたいな、そんなものにしたいわけではないが、「文学的」は、そうあろうとしなければ振り落とされてしまうような、努力は必要かな、という、そういう感じはする。

そもそも本を読め、というメッセージや言説がなくならないのは、そもそも本を読む、文章を読む、言葉を高度に扱うということが難しいからであって。

文芸評論家の三宅香帆さんが、三宅書店【本を読むモチベを上げるチャンネル】三宅香帆 Kaho Miyake - YouTubeで、毎月の新刊を紹介したり、いろいろな本屋さんをめぐったり、本の読み方についてレクチャーしてくれたりしている。
本が読まれなくなった、と言われる時代だからこそ、本への導線を確保しようという活動に、心打たれる。
旧twitter Xで、三宅氏は以下のように呟いてもいた。

地域に根ざした書店が好きだ、それは美しい本箱じゃなくて、老若男女誰もが入ることができて、それでいて誰もが孤独な時間を棚の前で持つことができる場所でいてくれる書店が好きだ。そんなにお金を使わずひとりでいられる場所なんて、今の時代なかなかない。でも、書店ならそういう場所になり得る。
思えば10代の自分を救ってくれたのはやっぱりそういう場所で、それは学校にも家庭にも求められない、求めるべきではないことなんだよね。だからこそ地域には書店があってほしいと思ってしまう。自分はそういう場所をちゃんとエンパワメントする活動をしていきたい。

https://x.com/m3_myk/status/1972099764838965326

個人書店がたくさん潰れ、ブックオフさえもなくなっていくこの地方の現状に、ちょっとした危機感を覚えたりもしながら、ウェブ上にこんなテキストを打ち込んで公開して、書物ではない、ネット上での新しい言葉の形の可能性を感じたりもしながら。

私は文学的な私で幸せだと思うので、他の人もそうかもしれない、と思うのだが、実はそうではないのかもしれない。
この文学的を、無理強いをするつもりはないが、一定数、文学的を欲している人、必要としている人はいるような気がしている。
それで、文学的を敷延するために、こんなnoteを書いたり、普段の会話の中でも含ませたりしている。
例えば私が再び生まれ直して、今の私のような人間になるためには、文学的であるためのレッスン、特訓や、環境や、思考方法や、教育が必要である。
ということで、「文学的の教育論」も、これからのテーマになるだろう。

三宅氏の『働いているとなぜ本が読めなくなるのか』で触れられている長時間労働者、というのが、私の肩書きのひとつだ。
結構残業は多く、厚生労働省が「病みますよ」という時間を超えている。
限られた時間の中で何かを成そうとする時、ちょっとブーストがかかるあの感じ、ショートカットを見つけようとする、効率化しようとする工夫の愉しさなどもあるからやっかいだ。

文学的と資本主義の共存については、井上慎平氏の『弱さ考』を読みながら、考えている。
たまにしか出会えない、「自分のために書かれた」と思える種類の本である。


いいなと思ったら応援しよう!