見出し画像

ジャケット、ポップコーン(本の手触り⑤)

音楽はもうほとんどデータになってしまった。
データになってしまった上に、サブスクリプションという問題まで持ち上がってきている。
音楽は基本的に、所有するものではなくなってきている。
本の手触りについて考えているので、音楽の手触りについても考えてみる。

私にとっての音楽の所有は、カセットテープとCDからだ。
CDを買ってきて、そのジャケットにかかっているプラスチックフィルムを取り除く。ディスクは8センチの小さなシングル盤と、大きなアルバム盤があった。
そのCDをトレイに流し込んで再生した。
あるいはCDやラジオの音楽をカセットテープに録音して、エヴァンゲリオンのシンジ君が持っていたようなウォークマンで音楽を持ち運んだ。

ミスチルのCDは今でも持っている。
小さな本になっているアートワークに歌詞が印刷してあって、それを見ながら聴くこともあった。
この頃では環境に配慮してか、プラスチックケースではなく、紙を使ったケースになってきた。

読んでいる間はずっと触れている本と違って、音楽はもともとデータを移し替えたり、読み込んだりしていたので、聴いている間の体験と、レコードやカセットテープやCDの直接の手触りは関係ない。
ただ、儀式のように、購入して聴き始めるまでの手触りはあったが。

この頃、村上龍氏の『ラストワルツ』というエッセイ集を読んだ。
全体的に衰退とか、失われていくものについて考えることが多くなった、年を取った小説家の、いや、人生の先輩の、エッセイだった。
その中に、こんなくだりがあった。

切手サイズのアイコンと、曲名やアーティストなどが表示されるだけで、素っ気ない。
音楽以外のそういった情報はじゃまなだけだという人もいるだろうが、じゃまかどうかは別にして、アルバム・ジャケットが、そこに内包されるコンテンツが醸し出す「ある佇まい」を持っているのは確かだと思う。

村上龍『ラストワルツ』(P99)

***

映画鑑賞の手触りのようなものについて考えても、音楽と同じようなものかもしれない。
映画館の入り口の薄暗い感じ。
映画のチラシを物色し、パンフレットを購入したりする。
映画館の椅子の感触。
ポップコーンやチュロスの匂い。
氷の多い炭酸。
あるいは家の、、、。
体験全体が、映画における手触りだ。

***

リアル書籍は減っていっている。
年賀状みたいに、ペーパーレスが必要だと言われたらぐうの音も出ない。
余裕のある人の、伝統的風物詩(つまり古き良き過去のもの)と言われても仕方がない。

電子書籍にはリアル書籍にはないメリットもある。
電子書籍なら、近くに書店がなくても発売日、というか、発売時間その瞬間に読むことができる。
品切れもない。
レジで書店員さんに、こんな本を読むんだ、と思われることもない。
初々しい書店員さんが本にカバーをつけるのに手間取るのを待たなくてもよい。
もちろんそれはデメリットでもある。
人と人とのコミュニケーションは消えていく。

リアル書籍の存在は消えていくのかもしれない。
その周辺の体験で、代替することを考えた方がいいかもしれない。
村上龍氏は、自身の小説をリッチ化された電子書籍にする試みをされている。(上記『ラストワルツ』p101)
電子書籍の表紙をアニメーションにする。
BGMをつける。
絵本の挿し絵が動く。
リンクを使った表現方法もあるだろう。
ただ、本が、文学が、「これらを使わない、制限されたメディアだからこそ」の存在なのだとしたら、これらはただの余剰になってしまう。
映像や音楽やウェブブラウザにできないことを、本に求めるところがある。
その手触りを、静けさを、求めるところがある。

私は、ということだが。
もう多くの人は、この手触りを、求めていないのかもしれないのだが。


いいなと思ったら応援しよう!