ネタバレしてもなお?『ルックバック』について3(批評について③)
※この記事には映画『ルックバック』のネタバレが含まれています。
映画のラストで、実は漫画原作ではバランスボールに座っていた主人公が、椅子に座っている。
冒頭と同じように貧乏揺すりをしながら、再び漫画に向きあっている。
サンドイッチの構造と言って、物語のはじまりと終わりが、同じようなシーンになっていると、観客は物語のはじまりと終わりを感じることができる。
作品の始めと終わりで、同じことと、変化したことがある。
同じことは、創作に向かう姿勢のようなもので、
変わったことは、傷ついても、創作の虚しさを知ってもなお、創作に向かう覚悟である。
ただ見たものを、伝言ゲームよろしく伝えるだけではなく、自分の考えや発見をきちんと踏まえて、発言する、ということ。
ネタバレは「引用」であり、自分なりの「解釈した再生産」の披露が、やっと「感想文」を越えた「批評」になってくるのだと思う。
けれど、きちんと消化して表現しているけれど、結果的にネタバレはしてしまう問題は残る。
感想文や批評を読む人は、そっとその感想文や批評を閉じる「自己防衛」の能力を持たなければ、ネタバレから身を守ることができない時代。
ところで、ネタバレはなぜ悪なのか?
ひとつは、自分でやることの意義が薄れること。人にやられたこと、手垢のついたことは、やっぱり面白くないものである。
この世界で自分だけしか気付いてないんじゃないかこれ?みたいなのは、やっぱり楽しいのである。
また、新鮮な驚き、どんでん返し、思いもよらない展開などは、やっぱり興奮する。
ありきたりな展開を予想して、裏切られたり。そのあたりの巧妙な語り口とか、伏線とか、フラグ回収とか。
しかし、面白い作品はネタバレしてもなお、面白いのだから、むしろネタバレしたあとでも見れる作品こそ、いい作品だ、という評価方法もある。
死んだ作家のものしか読む価値はない、というのと同じようなものかも。

