受動的メディアの視聴方法(暇と退屈を埋める文学的⑰)
専門分野や、チャンネルや、一冊一冊の本や、人間の特質や、いろんなものが小さくカットされて転がっている。
食べやすそうなものから食べていく。
そうして退屈をまぎらわすことができる。
昔は大きなくくりで語られていたものも、今では細分化され、専門化され、隣は何をする人ぞ。
そんな「分断」について考えている。
あるいは、同じようなことが語られているのに、ドアが違う。
チャンネルが多様にある。
例えば新型iPhoneの情報が、形を変え、見せ方を変えて多数のチャンネルで語られている。
世界はかように分断され、多様だが、私にとっての世界はひとつ。
そのような私にとっての世界を、環世界という。(『暇と退屈の倫理学』)
個人の受容の中で、何が起きているのか。
本を読むこと、読書は、ある程度、能動的である。
文字を読み、自分の頭の中で読み起こす。
自分の文脈に引き寄せる。
文字から、風景や音や匂いを思い出す。
映像などの受動的メディアで、分断、モジュール化されたものの、無限の選択が可能になったところが問題である。
①人々は「見ているが見ていない」状態をもつようになった。
「読文・読語」は、言葉という二次情報を介するため、脳内変換処理が必要である。
映像は一次情報であり、見たものはそのまま現実と勘違いしやすい。
フェイクニュースの危険性。
無批判に、無思考に、享楽的に、映像を見ることの危険性。
操られやすい。偏見や差別に結びつきやすい。
②刺激が強すぎるものがあること。
音、BGM、絵。
視覚情報は人の情報摂取の9割を占めているらしいが、つまりかなりの認知をハッキングされてしまうということだ。
③そのくせ、受動的メディアは記憶に残りにくい。
情報が多すぎるのだろうか?
ショート動画を次々見せられて、あとで何を見たか正確に言える人は何人いるのだろう?
そこで、新しい視聴者参加方法について考えてみたい。
1.必ずイイネ/ダメネをする。
2.コメントする/他の人のコメントを読む
3.検索して調べるを進めて、深める
4.オウンメディアでアウトプットする
5.履歴をふりかえる。
これらの努力で、①受動的を、能動的に変えることができるのではないか。②刺激が強い、については、しょうがない、そういうものだ、と割り切ることが必要か。ルッキズムや肌の露出、バイオレンス、明滅や派手な色による演出など。ああ、煽られている、と思うこと。③記憶に残りにくいについても、上記の努力で記録して、ふりかえる、で対抗することができるのではないか。
けれども、この新しい視聴方法でも、ザッピング問題は解決しない。
「次々と恋愛対象を変えていく生き方」みたいなことには問題があるだろうか?
本を次々読み替える。刀も抜いていない(齋藤孝『使える読書』)、結論まで読んでいないのに次々と読み替える。
まあでも、「自分自身」という受け皿、軸はひとつなのだから、そこに与えられた刺激としては、別に外部で「結論づけて」「最終回を迎えて」いようがどうしようが、同じか。
それは自分自身で考えたらいい。
物語を自在に乗り換えることについては、そもそも結末がない物語もあるのだ。読み辞めてもなんら問題はない。むしろ読み辞めて、自分で結末を想像する、という、創造的な読書はどうだ。
ただし、それが「一本筋を追えない」集中力が続かない、という、そういう筋力が衰えていることから起こっているのなら問題だ。
飽きても続けられる、こらえ性も、ある程度はないといけない。
個人の強さは必要で、弱体化していたら、すぐだまされる、もっていかれてしまう。
自分の頭で考えられないと、楽しくはない。
「なんとなく退屈だ」(『暇と退屈の倫理学』p272)に抗えない。
