国境の南、太陽の西(終わらない文学的④)
※別れのさみしさと、出会いへの期待の時期で、桜の気配のなか風が強く吹いていて忙しく、その字の通り「心」を「亡くす」ように心せわしくしていたら、noteの毎日更新が途切れてしまった。
毎日投稿していると、「○○日目」みたいにカウントしてくれていて、心地よかったし、尻を叩かれていたのだが、それが途切れてしまった。
余計な肩の荷がおりて、でもそれでやめてしまおうと思うわけでもなく、これからも日々、文学的は続けていこうと思う。
※※チームのようなものを作ることになって、つまり人事のようなこともするようになって、がらにもなく、自分のことだけじゃなく他人のこと、環境のこと、そして成果の見通しなどを考えている。
このnoteに「社会人の武装の仕方」と題して、情報整理、上機嫌みたいなことを書いていたが、人事のこと、他人の動かし方、配置の仕方などについてはあまり考えたことがなかった。そのあたり、三国志とか歴史ものとか、軍を率いて大事をなしたりする物語の中に、答えを求めればいいのだろうか。新しい文学的分野の開拓。
村上春樹の小説に、『国境の南、太陽の西』というものがある。
この小説、私が好きな『ねじまき鳥クロニクル』(そういえば、来月4月、100分de名著に登場するらしい)から分離する形で、生まれたらしい。
この小説のラストは、「広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨(p299)」のイメージで終わる。
雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。
このラストについて、「わかる」「わからない」という話が、批評家の間でされたらしい。
当時、どなたかの評論で読んだ記憶がある。
それで物語は終わっているのか?
ということである。
私にとっては、このラストは非常に印象的で、今も心の中の奥深くに刻まれている。
ところで、今回読み返してみて、最後に、「誰か」がやってきて、背中にそっと手を置く、とあった。
当然「誰か」は「有紀子」であったろうな、と思うのだけれど、これ、「島本さん」かもしれない。
最後まで、隣にいてくれる人によって、人生そのものが変わってしまうような、そんな主人公の寄る辺なさを描いているのかもな、と思った。
そしてその寄る辺なさ、頼りなさ、芯のなさみたいなことは、我々読者にとっても、生涯、そうなのであった。
