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生成AIとの小説の共同執筆で私が得たもの、失ったもの(生成AIと文学的⑤)

さて、生成AIと小説を共同執筆してそれをKindle出版したことで、私が得たものと、失ったものについて考察しなければならない。



個人的な話から

まずはじめに、私の個人的な話を。
個人的な話なので、章ごと読み飛ばしてもらってかまわない。

私が小説家になりたいと思ったのは、小学生の頃だ。
佐藤さとるさんの『コロボックル物語』や、お化けの話など、Youtubeもタブレットもなかった当時、紙の本を読むほどに、こんなお話を書けたらいいな、と思い、自分でも紙のノートに鉛筆で小説を書いてみたのがはじまりだ。

小学生の頃、「絵日記」の宿題があり、母と担任の先生がほめてくれたので、日記をつけるのが好きになった。

中学生で井上光晴さんの『小説の書き方』を読んで、大学ノートに3冊日記をつけはじめた。
太宰治さんの『人間失格』に衝撃を受け、同じ文体で日記を書いてみたりした。

高校生で、村上龍さん、吉本ばななさん、村上春樹さんの作品に衝撃を受け、同じような物語を紡ごうとしてみたりした。群像新人賞の一次予選に選ばれたりして、調子に乗った。

大学生でイアン・マキューアンさん、ポール・オースターさん、ベルンハルト・シュリンクさんなどの小説に衝撃を受けた。執筆をしながら、けっこう真面目に講義を受け、サークル活動や、バイトや、失恋や、就職活動。

就職活動に失敗しながら社会人になり、契約社員を経て、周囲に3年くらい遅れて正社員になった。

社会人として器用にやっていけるタチではなかった。
でも、ハックスやマインドセットでなんとかできないかと武装して、そんな風に忙しくしているうちに、小説を書くことからは遠ざかっていった。

小説を読むことからも遠ざかっていったところはある。
でも、心の何処かで文学的でありたいという気持ちはあって、40代を過ぎて、ふと文学的でありたいということを考え始めたのが1年前、それでこのnoteをはじめたのだった。

小説執筆がなくてもよかったが

小説を書く、小説家を目指す、ということが、若い頃の自分のアイデンティティだった。
小説を書くということは他者を見るということだし、他者に開示していくということだ。
そのおかげで、ましな(文学的な)大人になれた、という自負はある。
けれども結局、小説執筆はその後の私の人生にとって必要ないことだった。
作家という人たちは、どうしようもないエネルギーを作品に昇華、そうした創作物を否が応でも生み出してしまう人たちだ。
その苦悩やテーマや思考を、小説という形にして、他人とコミュニケーションをとろうとする人たちだ。
私は日記を書き、ブログを書き、職場になんとかしがみついているうちに、エネルギーを浪費/発散できてきたのだと思う。

けれど、生成AIと出会って、事情が違ってきた。
言ってみれば、長時間労働で創作のエネルギーが吸い取られてしまっていても、小説が書ける時代になってきたのだ。

「執筆」は無意識を連れて来る

小説執筆は時間のかかる作業だ。
しかし、自分で一語一句を刻んでいくことで見えてくる景色がある。

書いていると、自分が自分から離れて、どこか他の場所で書いているような気分になることがある。
このことを村上春樹さんは、井戸に降りる、とおっしゃっている。
自分がオートライトする物語が、私の無意識を連れ出してくれる場合がある。
物語を自分で執筆/書かないことには、現前しない、無意識(のようなもの)がある。
つまり、AI執筆は、自分の無意識を連れ出す機会を逃しているかもしれない。

しかし同時に、私は新しい無意識を見ることにもなった。
それは、AIが膨大に学習したデータ、集団的無意識のようなものである。
ある意味でこれは、過去の創造者たちの無意識を継承している、とも言えるかもしれない。
AIとの共作は、個人の意識を超えた、より大きな創造のサイクルに参加することなのかもしれない。

このプロンプトではどんな物語が現前するんだろう・・・という新しい楽しみが生まれたのである。

「執筆」は責任感を生む

文章をつむぐことで、登場人物と時間をかけて共にその物語を歩くことで、作者としての責任を負う覚悟ができる、というのもある。
自分の中に長時間物語を飼う/引き受けながら生活することで、見える景色が変わってくる/作品に時代の養分が取り込まれていく。

時間をかけないAI執筆は、それだけ魂が抜け落ちていく可能性がある。
対抗策としては、あえて時間をおいて発酵させるとか、推敲(リライト)を何度も繰り返すとか。

それでも、「これはAIとの共作です」と言った瞬間に、たぶんその作品の価値が下がる、というところはある。
AIとの共創とわかったとき、「作者は執筆の努力をしてないんじゃないか」と思って、その価値が下がる。

でも、「時間をかけりゃいいもんじゃない」というのも、また真実である。
画家のパブロ・ピカソがレストランで食事をしていると、一人の女性ファンが彼のもとに駆け寄り、「何か紙ナプキンに描いていただけませんか?お代は払いますから」と頼んだ。
ピカソは快諾し、ものの数十秒でさらさらと一枚の絵を描き上げた。そして、女性にこう言った。
「はい、どうぞ。100万ドルです」
女性は驚いて、「だって、これを描くのに1分もかかっていませんよね?」
するとピカソはこう答えた。
「いいえ、この絵を描くのに、私は生涯を費やしたのです。」

時間をかければいい、というものではない。
しかし、このエピソードは、もうひとつ、画家という一個体が、生涯を費やして辿り着いた地平、という点を指摘してくれた。
AIには生涯がない。

けれども、この「責任」とか「生涯」とかいうのも、ある場合には考える必要がないものかな、というのは、以前書いた。
電話帳でも、読み手が文学的であれば、読み物になる。
結局は読み手の側にも問題はあるのだ。
薬物中毒だったアーティストたち、犯罪者だった者、やがて独裁者になる人間、そういった者たちの作品を読んで、何を考えるか、何を切り取るかは、読み手の側の問題でもあるのだ。
COTEN RADIOの深井龍之介さんの著作『歴史思考』には、社会に影響を与える人たちっていうのは、あんまり偉人じゃなかったぜ、というようなことが書かれてあって、なるほどな、と思った。
読み手としても文学的でありたい、と思いながら、こんなnoteを続けてみている。

「執筆」は過去を呼び覚ます

書くことは記憶(過去)との対話でもある。
自分が忘れていたはずのことを、ふと思い出したりする。
そういう、過去のシーンを繋ぎ合わせて書くタイプの作品だと、自分の過去を振り返ることができる。
それは生き直しであり、過去の清算であり、未来を向くための必要な儀式かもしれない。
(しかし、身を切るばかりの創作をしていたら、クリエイターとして続かないよ、という話もよくある話。)

物覚え、物忘れを意識し始めたので、執筆によって過去をゆっくり呼び覚ます、というのも、極上の愉しみではあるのだ。

「執筆」は言葉を磨く

書くことで、言葉を磨くことができる。
作家は日本語を確認し、磨き、あるいは創造する(夏目漱石さんとかはたくさん造語したらしい)。
読者に言葉の新しい側面を発見させたり、口癖のようにそのセリフを言わせるようになったりするかもしれない(もちろん、やれやれ、好むと好まざるとにかかわらず)。

AI執筆では、作者は自分の言葉を磨くことにはならない(現れた言葉を整頓したりすることはできるかもしれないが)。
しかし、読者に新しい言葉を流通させることはできるかもしれない。

AI執筆は行動的

反面、AI執筆は時間をかけないで完成品が見えるため、その先のことを考えられる、というメリットはある。
労力をかけないので、長時間労働者でも小説を(とりあえず)完成させることができる。
とりあえず具体的に行動してみる、というのは、時に重要なことである。

小説『ASMR』においては、私はちょっとした思いつきを物語にしてみたいと思い立った。
AIは物語の中盤から終盤にかけての提案をしてくれた。
そして、それを文章にして見せてくれた。
主人公はASMRの呪いをなんとかしようとするはずだったが、AIはその「なんとかしようとする」パターンをいくつか提案してくれた。
そしてさらに、もうひとひねりして、私に新たな気付きを与えてくれた(他者による模倣)。

けれども、具体的な行動、の逆には、常にモラトリアムの問題が存在する。
形にしなければ、批判されることもない。
自分が大したことはない、ということに気付くこともない。
AIはハルシネーションも含めて、何が何でも正解を答えようとする性向がある。
質問する私たちのほうも、誤りであっても何であっても、とりあえず納得する傾向にある。

モラトリアムは「猶予期間」というような意味だが、この頃『スマホ時代の哲学』を読んでいて、「ネガティブ・ケーパビリティ」という言葉も知った。
人生100年時代を生きるために、私にとって、逃がした魚のような、「書かれなかった大作」は、希望を持つためには重要なものだったかもしれない。

ちなみに、小説『ASMR』が大作になるためには、「主人公のASMR体質への対処法」とか、「他のASMR体質の新キャラの登場と、コミュニティの形成」とか、「ASMRの模倣の仕方を科学的に探究」などの深堀の可能性もあった。
ただ今回は、「とりあえず完成させて出版する」ということを優先したので、時間のかかることはすべて却下した。
もちろんこれらのことについてAIと探究するのも楽しいだろう。
でもとりあえず完成させて、出版までしてしまった。

執筆という「行為/契機」を、今回の創作では失っているわけだが、物語を完成させることができたおかげで、小説をもっと読みたくなったし、他人のことをもっと観察したり、考えたりしたくなったし、社会問題にも目が向くし、今という時代をより深く見つめようとしたりするきっかけにはなった。
生成AIとの小説の共同執筆で、失ったものもあれば、得たものもあるということである。

今後について

以上、AI執筆で私が失ったものと、得たものについて考察してみた。
今後も、思いついたことをAIと共同執筆していこうと思う。
それと同時に、昔の小説をAIとリライトして出版してみようと思う。

そうしているうちに、一語一語を自分でつむぐ必要がある物語を発見したら──昔のように時間をかけて書いてみようと思う。
そんなことが起きたらいいな、と、かすかに願っている。

(ちなみにこの文章にはAIを用いておらず、もうすでに、一語一語を私自身がつむいだ、「中年男がAIと共に創作と再度向き合い始めた、涙ぐましい物語」という、私小説的な文章と読むこともできる。)

(一応、GPTにこの文章の評価と、「文学的な濃厚版(GPTの表現)」リライトをお願いしてみたが、しっくりこなかった。それは、自分で書いた私の責任感だろうか、愛着心だろうか?もしかしたら読む人にとっては、GPTの文章のほうが分かりやすいのかもしれない。併記することもできるが、冗長になるのでやめておこう。)


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