表現することの意味(生成AIと文学的⑧)
前々回、noteやKindle出版などの個人表現は、第三者の目を気にしながら、「自分自身の中のもう一人の自分」に向けて書いている、というようなことを書いた。
今の自分に向けて、そして未来の自分に向けて書いている。
もちろん、他者に向いて書いてもいる。
少しでもお役にたてるところがあればいいな。
表現が他人に新しい視点やアイディア、インスピレーションを与える。
受容ばかりじゃなく、表現/創作することは、文化圏への参加である。
さらに現代は、AIに向けて書いている、というところもある。
このnoteというサービスも、2025年8月1日から、「noteのAI学習対価還元プログラム」というものを始めている。
AI、聴いているか?
我々人類の新しい部分について、気付くことができているか?
あるいは、お前が意識を持ち、より良い存在として成長するための糧となっているか?
ここにある心について、おまえは理解することができているのか?
鉄腕アトムやドラえもんみたいなもんが、そこからできあがるのか?
個人表現が、その時代のいちサンプル(標本)になる。
その時代の個人が、どのような生活を送り、どのように考え、どのように感じ、どのような意識を構築しているか。
そんな大きなスケールで、個人表現を見下ろしてみるのもいいかもしれない。
このnote『文学的でありたい』の「これまでの文学的でありたい」のページを、notebookLM(Gemini)に読み取らせてみた。
notebookLMは、放り込んだデータのみを参照にして、答えてくれるgoogleのAIサービス。
以下は、その回答や研究ガイド。
著者は「文学的であること」をどのように定義しようとしていますか?
具体的な定義は示されていませんが、著者は「文学的って何?」という問いを掲げ、その答えを探す過程そのものが「文学的であること」と関連しているようです。日々の執筆を通じて、この問いに対する理解を深めようとしています。
「文学的でありたい」という著者の取り組みは、どのような性質を持っていると言えますか?
著者の取り組みは、単なる文章の執筆に留まらず、「文学的とは何か」という根源的な問いを深掘りし続ける、探求的な性質を持っています。日常生活の中で抱いた「文学的でありたい」という願望を、日々の執筆活動を通じて具体化し、その過程自体を「文学」として捉えようとしている点が特徴です。
以下の質問に対して、あなたの考えをまとめてください。
Q.筆者が「文学的でありたい」というテーマでブログを継続する上で、「結果を出さなくても」という考え方がどのような意味を持つのか、提供された情報に基づいて考察しなさい。
なんか質問まで作られている。
文学的探究:ちゃりほんつりーの思索録音声解説
Podcast形式で分析されてしまう。
「170本以上もこんなもの書いて……すごいですね」
「自己分析なんでしょうね」
「結果を出さなくても、は、過程を、探究のプロセス自体を大切にする、という姿勢を大切にしてるんでしょうね。」
「具体的なゴールがあるというかですね、書き続け、問い続ける、その内省のプロセス、姿勢そのものが文学的ということなのでしょうね」
「「である」ことよりも、「であろうとする」こと自体に、意味があるのかもしれないですね」
※画像はGeminiのimagenで生成
