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私たちが人間である限り解き明かせないもの──『脳はなぜ「心」を作ったのか』読書感想文

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感想

以前に読んだ、『よくわかる人工知能』の対談者の一人、前野さんの著書。

「私はどこにあるのか」
議論のしがいがある、良いテーマだと思う。

著者の主張はこうだ。

自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして「意識」は全てを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受けれいて、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかで無知な存在。さらに、意識の中で最も深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない

自律分散演算するもの=(本書の中の例えでいう)小人=ニューラルネットワークの結果が、人間の行動を決めているという部分はとても理解できる。
人間の意識のすべては、脳の中にある仕組みが計算して排出された結果である。うんうん。ふつーにそう思う。物理で説明できる世界。

でも一つ疑問がわく。
では、その脳の中の「小人が並行して計算しているもののうち、どれを優先するか」は、どうやって決めるのか?

(1)生物的な本能
(2)親個体から引き継いだ個性
(3)その人の経験による記憶・学習

今まで人間として生きてきた経験則からして、大きくはこの3点が関与していると私は思う。
……うーん。この3つが関与しているのであれば、その主体が脳内の無意識下にある「小人」であったとしても、十分に「私」という存在を認めても良い気がするんだけどなあ。
さらにそれによって「エピソード記憶」を所持しているのであればなおさらもうそれを総合的にひっくるめて「私」として捉えればいいんじゃないだろうか。つまりそれが脳のもたらした受動的な結果であれなんであれ「私」があるのだからそれでいいんじゃないだろうか……。

本書の中でとりあげられている松本元(脳科学者)による"心の分類"の、「知」「情」「意」は先ほどの(1)〜(3)の3点の濃淡で決められる。
「記憶・学習」は(3)のみ。
「意識は「知」「情」「意」「記憶・学習」の総体である」ということだから、それはイコール「私」。やっぱりそれこそがクオリアの正体であり「私」なんじゃないか。


ちなみに心を持った人工知能ができるか否かという議論については、
私は、前提として「意識」を持つ生物にあるはずの(1)(2)が全く欠けた状態にある人工知能にいくら学習と記憶をさせても、独自に考えさせても、「意識」の働きは生まれないと思っている。
「意識」はあくまで身体性をもって数十億年かけて地球環境に適応してきた生命の成せるコト。だから、情報学習から成る人工知能にそれが生じることはあり得ないのではないか(例えロボットを介して身体性を手に入れても(1)(2)はインプットできないし)。


下記の部分はなるほどなと思った。

物理世界は、そうならざるを得ない結果としてそうなったのに対し、生命情報世界は、そうであれば都合がいいようにデザインされた結果だ。
〜中略〜
脳の中の法則が物理法則と似ている必然性はない。

p.110

脳の仕組みや構造は物理学で説明できる(今は説明できなくても、この世に在るものだから事実として絶対に解明できると私は思っている)。
けれど、「意識」に関しては、人の身体という媒体を介している以上、都合の良い解釈や歪んだ解釈は絶対にしているはずだというのは、絶対にそうだと思う。
そして、私たち自身がその主体であるからこそ持ち得る錯覚が「クオリア」や「意識」の解明を永遠の謎にしているんだろう。
つまり、人間が人間である限り、人間という身体性を持っている限り、解き明かせないんじゃないだろうか。
(だからもしかすると今後AIが身体性を持たない知者の視点でその謎を「物理学」と「生命学」に分解して、錯覚を加味して解き明かしてくれるかもしれないね)

「私はどこにあるのか」

この謎に決着がつかないのは、視点がどうこう、考えかたどうこうの話じゃなくて、私たちが人間だからなんだろう。

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