ハウ ルラ ポ (Haw rura po) 声を運ぶ子 第二章

春の川は、まだ子どもの声をしていた。
雪どけの水は細く速かった。石にぶつかるたび、白い泡を立てて笑う。川べりの土はやわらかく、踏むと足の裏まで冷たさが上がってきた。
柳の芽は薄い緑で、空は冬より少しだけ高かった。
私は祖母に手を引かれ、川へ行った。
「よく聞きなさい」
祖母はそう言った。
私はうなずいた。
聞くことなら、誰よりもできる。
鳥の羽が空を切る音も、母が針を布に通す音も、父が嘘をつく前に一度だけ息を止める音も、私は聞き分けられた。
祖母は川の前に立つと、頭を下げた。
「ここは、ただの水ではない」
祖母の声は、川の音より低かった。
「魚の道だ。カムイの道だ。私たちが、少しだけ借りている道だ」
私は川面を見た。
水は光っていた。
まだ鮭の季節ではない。けれど、川はもう何かを待っているようだった。
祖母は、川の名を教えてくれた。
一度聞けば忘れない。
私はその名を、胸の奥に置いた。
山の名も教わった。
風の名も教わった。
火へ置く言葉も、魚へ返す言葉も、人へ渡す言葉も、それぞれ違うのだと教わった。

第二章 春 『川の名を盗む声』
私が川の名を小さく口にしたとき、上流のほうで枝が折れる音がした。
私は顔を上げた。
祖母も気づいていた。けれど、すぐには動かなかった。
風の音。
鳥の声。
雪どけの水音。
その隙間に、知らない足音が混じっていた。
和人だった。
三人いた。
ひとりは細い男で、腰に刀を差していた。ひとりは荷を背負い、もうひとりは木の杭を肩に担いでいた。
私は祖母の袖をつかんだ。
細い男が、川を見て何かを言った。
その言葉は私には分からなかった。けれど、音は覚えた。硬く、速く、石が石を押しのけるような響きだった。
細い男が、川を指した。
杭を担いだ男が笑った。
荷を背負った若い男だけは、笑わなかった。
彼は川を見て、それから祖母の足もとを見た。何かを言いかけた。
けれど、細い男が短く命じると、その声は喉の奥へ戻った。
その飲み込んだ息も、私は覚えた。
杭を担いだ男が、土を足で踏んだ。
私は、その足の置き方が嫌だった。
川べりを歩くとき、祖母は音を小さくする。父も、母も、村の者はそうする。水の道を踏み荒らさないように、足を置く。
和人の男は、土が自分の下にあるのが当然だというように踏んだ。
祖母が低く言った。
「戻るよ」
「でも」
「見るな」
見るなと言われると、私は耳で見た。
男たちは話していた。
細い男の声。
杭を担いだ男の笑い。
荷を背負った若い男の、声にならない息。
杭が土へ打ち込まれる音がした。
一度。
二度。
三度。
その音を聞いた瞬間、川の声が少し変わった気がした。
私は振り返った。
祖母は私の手首を強く握った。
「見るなと言った」
「でも、あれは何」
祖母は答えなかった。
ただ、川の名をもう一度、小さく言った。
祈りではなかった。
呼びかけでもなかった。
奪われそうなものを、急いで胸に戻すような声だった。

その日の夕方、父は交易から帰ってきた。
けれど、戸を開ける音から違った。
戸が重かった。
父の足も重かった。
肩にかけた荷だけが重いのではない。
声になる前の何かを、父は背負っていた。
母が火のそばに椀を置いた。
「食べて」
父は座ったが、椀に手を伸ばさなかった。
祖母が聞いた。
「どうだった」
父は答えなかった。
長い沈黙のあと、父はようやく口を開いた。
「鉄が悪い」
母の手が止まった。
父は、荷の中から小さな鉄を出した。
私にも分かった。
よい鉄を見たことは多くない。けれど、その鉄には音がなかった。父が指で弾いても、鈍く沈むだけだった。
「米は少ない。酒は多い。鉄はこれだ」
祖母は鉄を見た。
「足りないと言ったのか」
「言った」
「向こうは」
「笑った」
父も笑った。
喉の奥で、刃がこすれるような音だった。
「若い手代がいた」
父は鉄を見たまま言った。
「昼間、川にいた男かもしれない。荷を背負っていた」
私は顔を上げた。
「笑わなかった人?」
父の目が私へ向いた。
「見たのか」
私は黙った。
祖母も私を見た。
父は低く言った。
「その男は、鉄を包む前に一度手を止めた」
短い間があった。
「悪い鉄だと、知っている手だった」
母が小さく言った。
「でも、渡したの」
「渡した」
父は鉄を置いた。
「名前を呼ばれていた。佐吉」
私はその名を覚えた。
佐吉。
春の川で、笑わなかった若い男。
悪い鉄を包む前に、手を止めた男。
知っていて、渡した男。
その夜、家の中の火はなかなか大きくならなかった。
父はしばらく黙っていた。
やがて、祖母が聞いた。
「川のことは」
父の顔がさらに暗くなった。
「川に杭が立った」
母の手が、今度こそ完全に止まった。
祖母は灰をならしていた細い棒を置いた。
「見たのか」
「見た。あれは、ただの印ではない」
「誰が」
「松前の者ではない。商人の手の者だ。だが、後ろに誰がいるかは分からない」
父の声は低かった。
私は寝床にいるふりをして聞いていた。
大人たちは、私が寝ていると思うと、言葉を隠すのを少し忘れる。
「こちらの網を、あの下流へ入れるなと言った」
「なぜ」
「そこはもう決められた場所だと」
母が言った。
「誰が決めたの」
父は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
私は、昼間の杭の音を思い出した。
一度。
二度。
三度。
川の声が変わった、あの音。
祖母が言った。
「こちらの言葉を聞いたのか」
「聞くふりはした」
「ふりか」
「ふりだ」
そのとき、父が和人の言葉を少しまねた。
私には意味が分からなかった。けれど、昼間に川で聞いた音と同じ並びがあった。
私は目を開けた。
その音を覚えている。
昼間の細い男が言った音。
今、父がまねた音。
同じ言葉なのに、昼間と夜では少し違った。
昼間の和人の声には、笑いが混じっていた。
父の声には、怒りが混じっていた。
でも、言葉の形は同じだった。
私は毛皮の中で、その音を何度も繰り返した。
石のような言葉。
杭を打つ前に言われた言葉。
こちらの網を入れるなと言った言葉。
意味はまだ分からない。
けれど、忘れない。
翌朝、私は父のあとを追った。
父は浜のほうへ向かっていた。私は木の陰を選び、足音を殺した。祖母に教わった歩き方だった。狐ほど静かではないが、子どもにしては上手いと自分では思っていた。
父は途中で止まった。
「出てこい」
私は木の陰で息を止めた。
「聞こえている」
仕方なく出ると、父は怒っていなかった。
困った顔をしていた。
「なぜ来た」
「昨日の言葉を知りたい」
「言葉?」
「和人が言った言葉。父がまねた言葉。川に杭を打つ前の言葉」
父はしばらく私を見た。
「おまえ、聞いていたのか」
「寝ていた」
「寝ながら聞いたのか」
「うん」
父はため息をついた。
そのため息には、怒りよりもあきらめが多かった。
「忘れろ」
「忘れられない」
「忘れろ」
「忘れられない」
父の顔が少し変わった。
私は、聞いた言葉をそのまま口にした。
昼間の和人の声をまねた。
そのあと、夜の父の声をまねた。
同じ言葉の形で、違う息を入れて。
父の目が細くなった。
「もう一度言え」
私は言った。
父は周りを見た。誰もいないことを確かめると、しゃがんで私と目を合わせた。
「その言葉を、どこで聞いた」
「川で」
「誰が言った」
「細い男。刀を持っていた」
「他には」
「杭を持った男が笑った。荷を背負った若い男は、川を見ていた」
「その男は、何か言ったか」
「言いかけました」
「何を」
「分からない。声になる前に、飲み込みました」
父は黙った。
「その息も、まねられるか」
私はうなずいた。
言葉ではなく、喉の奥に戻っていく短い息。
言いたいことを、言わないまま押し殺す音。
私はそれをまねた。
父の顔が、さらに険しくなった。
「佐吉か」
「分からない。でも、同じ人だと思う」
「なぜ」
「手を止める音と、息を飲む音が似ていた」
父は目を閉じた。
それから、小さく言った。
「聞きすぎる」
「聞こえる」
「だから怖い」
その言葉で、私は少しだけ泣きそうになった。
父は続けた。
「他には」
私は思い出した。
言葉の意味ではなく、音の順番をたどった。
鳥の声。
水の音。
枝が折れる音。
和人の声。
杭の音。
私は、聞いたままを言った。
父の顔から血の気が引いた。
「その言葉を、他の者の前で言うな」
「どうして」
「おまえは、聞いてはいけないものを聞いた」
「でも、聞こえた」
「聞こえたなら、なおさら黙れ」
父の手が、私の肩をつかんだ。
痛くはなかった。
けれど、父の手が震えていた。
「その言葉は、川だけの話ではない」
「どういうこと」
「下流の川も、浜も、干し場も、次に決めると言っていた」
決める。
誰が。
何を。
昨日、祖母は川の名を呼んだ。
奪われそうなものを胸に戻すように。
でも和人は、名を呼ばずに杭を打つ。
父は立ち上がった。
「戻るぞ」
「どこへ」
「シャクシャインのところへ伝える者がいる」
私は胸の奥が熱くなった。
その名は、前にも聞いた。
火のそばで低く置かれた名。
大人たちの背中を固くする名。
「私も行く」
「だめだ」
「言葉を覚えている」
「子どもだ」
「でも、父は聞いていない。私は聞いた」
父は何も言わなかった。
私は続けた。
「細い男の声も覚えている。笑った男の声も覚えている。杭を打つ音も覚えている。下流と言ったときの声も覚えている。父が伝えるより、私が言ったほうが同じになる」
少し迷ってから、私は付け加えた。
「佐吉の息も、覚えている」
父は、怒ると思った。
怒らなかった。
ただ、とても悲しい顔をした。
「おまえは、まだそんな役目を持たなくていい」
その言葉を聞いたとき、私は初めて、役目というものが重いのだと知った。
持ちたいと願うものではない。
けれど、耳に入ってしまったら、もう置いて逃げることもできない。
その日の夕方、父は村の男たちと話した。
私は家の中にいた。
でも、聞こえた。
父が私のことを話す声。
信じられないと言う男の声。
子どもを巻き込むなと言う母の声。
黙って火を見ている祖母の息。
やがて、祖母が言った。
「この子は、もう聞いてしまった」
それだけで、家の中の声が止まった。
父が低く言った。
「危険だ」
祖母はしばらく答えなかった。
火が、ぱちりと鳴った。
「危険でない道など、もう残っていない」
私は、戸の陰で息を止めた。
祖母は私がそこにいることを知っていた。
知らないふりをして、私に聞かせていた。
「川の名を覚えた子だ。人の言葉も覚える」
母が言った。
「まだ小さい」
祖母は答えた。
「小さいから、通れる道もある」
沈黙が落ちた。
その音で、私の胸の中の何かも鳴った。
次の朝、私は父とともに村を出た。
母は泣かなかった。
泣くかわりに、私の首もとを直し、小さな袋を持たせた。中には干した魚と、祖母が削った小さな木片が入っていた。
「これは何」
私が聞くと、祖母は言った。
「火を思い出すためのもの」
「火は持っていけないよ」
「だから、思い出す」
祖母は私の額に手を置いた。
「忘れようとするな」
「忘れられない」
「なら、曲げるな」
私はうなずいた。
父が先に歩き出した。
春の空は明るかった。
川は雪どけの水を運び、鳥は高く鳴いていた。
世界は、何も知らない顔をしていた。
けれど私は知っていた。
川に杭が立った。
和人は、川の名を知らずに、川を決めようとしている。
その言葉を、私は聞いた。
聞いたなら、運ばなければならない。
私は振り返った。
祖母が火の煙の向こうに立っていた。
母はその隣で、こちらを見ていた。
母の手は胸の前で固く結ばれていた。
私は、祖母に教わった川の名を小さく言った。
今度は、道を開くために。
そして父のあとを追った。
シャクシャインの名が待つ方へ。
その背後で、川に打たれた杭が、もう一度だけ鳴った気がした。

