ハウ ルラ ポ (Haw rura po) 声を運ぶ子 第三章

夏の道は、匂いで満ちていた。
濡れた草の匂い。
日に温められた土の匂い。
川から上がる冷たい匂い。
父の背の毛皮に残った煙の匂い。
私は父の後ろを歩いた。
春の終わりに村を出てから、いくつもの水を越えた。浅い川では裾を濡らし、深いところでは父に手を引かれた。山道では、根に足を取られないよう、父のかかとだけを見て歩いた。
父はあまり話さなかった。
けれど黙っていても、父の中で言葉が動いているのが分かった。
ときどき立ち止まり、遠くを見る。
風の向きを確かめる。
誰かの足跡を見つけると、腰を落として長く見る。
父の沈黙は、空っぽではなかった。
怒りと、不安と、私を連れてきた後悔が入っていた。

第三章 夏 『声を渡す子』
「疲れたか」
昼の終わり、父が聞いた。
「疲れてない」
「嘘をつくな」
「少し疲れた」
「少しではないだろう」
「たくさん疲れた」
父は、そこで初めて少しだけ笑った。
それは、昔の父の笑いに似ていた。
家へ帰る前に犬をからかったときの、あの軽い笑いに。
けれど、すぐに消えた。
「もう少しで着く」
「シャクシャインのところ?」
「まだだ。まず、別のコタンへ寄る」
「どうして」
「いきなり大きな火へ近づくと、声は燃える」
父はそう言った。
私は、祖母の火を思い出した。
夕方、私たちは川沿いのコタンに着いた。
そこは私の村より大きかった。家の数も多く、干し棚には魚が並び、子どもたちの声も多かった。けれど、笑い声は短かった。知らない顔が来たと分かると、人々の視線が一斉にこちらへ向いた。
父は手を上げ、名を告げた。
私は父の少し後ろに立った。
母に直された首もとが、急に苦しくなった。
大人たちが集まった。
囲まれているわけではない。
けれど、逃げ道が少なくなったように感じた。
男たちの腰には刃があり、女たちの手には作業の途中の道具があった。みんな、こちらの言葉を待っている。
父は、川に杭が立ったことを話した。
下流も、浜も、干し場も、和人が決めようとしていることを話した。
米が少なく、酒が多く、鉄が悪くなっていることを話した。
こちらの言葉を、聞くふりだけしていたことを話した。
父の声は低かった。
けれど、低い声ほど疑われることもある。
話し終えると、ひとりの老人が言った。
「それは、おまえがそう思っただけではないのか」
父は黙った。
別の男が言った。
「和人の言葉を、どこまで聞いた。こちらの思い違いかもしれん」
「思い違いではない」
「ならば証を出せ」
父の背中が固くなった。
そのとき、父は私を見た。
その目には迷いがあった。
私を出したくない。
けれど、私を出すしかない。
私は一歩前へ出た。
人々の視線が、今度は私に集まった。
「子どもか」
誰かが言った。
別の誰かが、鼻で笑った。
「子どもが何を聞いたというのだ」
私は、喉が乾くのを感じた。
父の後ろに戻りたかった。
祖母の火のそばに戻りたかった。
母が首もとを直してくれる家へ戻りたかった。
けれど、春の川の音が耳に残っていた。
杭が土へ入る音。
和人の笑い声。
佐吉の息。
祖母の声。
私は息を吸った。
「春の川で、和人が言いました」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
老人が目を細めた。
「何を」
「まず、細い男が言いました」
私は、その声をまねた。
和人の言葉。
石がぶつかるような、硬く速い音。
川を指したときの息。
杭を打つ男へ命じたときの低さ。
下流と言ったときの、少し笑うような響き。
広場が静かになった。
私は続けた。
杭を担いだ男の笑い。
土を踏む音。
杭が打ち込まれる音。
一度。
二度。
三度。
そして、荷を背負った若い男の声にならなかった息。
佐吉。
その名を言いそうになって、私は止めた。
佐吉という名は、言わなかった。
知らぬ者たちの前で名をつければ、その息が、ひとりの和人のものになってしまう。
けれど、その息だけは置いた。
私は、聞いた順番のままに戻した。
水の音。
枝の折れる音。
和人の声。
飲み込まれた息。
杭の音。
笑い声。
最後に、杭が土へ入る音をもう一度まねた。
一度。
二度。
三度。
誰も笑わなかった。
さっき鼻で笑った男も、もう笑っていなかった。
老人がゆっくり言った。
「この子は、意味を知っているのか」
父が答えた。
「知らぬ。だが、音を覚えている」
「作り話では」
私は、その男を見た。
「作り話なら、もっと良い声にします」
広場の端で、誰かが小さく吹き出した。
父が私をにらんだ。
けれど、老人は笑わなかった。
むしろ、さっきより真剣な顔になった。
「もう一度、下流と言ったところを言え」
私は言った。
「その前」
私は戻って言った。
「そのあと」
私は続けた。
老人は隣の男を見た。
その男は少しだけ和人の言葉が分かるらしかった。顔色が悪くなっていた。
「間違いないのか」
老人が聞いた。
男は答えた。
「この子の言った通りなら、川だけではない。干し場も、舟を寄せる場所も、あちらが決めるつもりだ」
広場がざわめいた。
「やはりな」
「ここまで来たか」
「こちらを分けて、ひとつずつ縛るつもりだ」
「シュムクルの者にも知らせねばならん」
「メナシクルとの争いはどうする」
「争っている間に、川を取られるぞ」
声が重なった。
怒りの声。
恐れの声。
疑う声。
誰を信じるべきか分からない声。
私はその全部を聞いた。
声が多すぎて、頭の奥が熱くなった。
言葉が、虫の群れのように耳の中へ入ってくる。
誰の声も消えない。
消えてくれない。
私はふらついた。
そのとき、誰かが私の肩に手を置いた。
父ではなかった。
振り返ると、見知らぬ女が立っていた。髪に白いものが混じり、目の鋭い人だった。
「火のそばへ座りなさい」
女は言った。
「そのまま立っていると、耳が焼ける」
私は驚いた。
祖母と似たことを言ったからだ。
女は私を家の中へ連れていった。炉のそばに座らせ、木の椀に水を入れてくれた。私はそれを両手で持った。手が震えていた。
「名は」
女が聞いた。
私は名を言った。
女はうなずいた。
「私は、シラリカ」
その名も、私は覚えた。
名を言うとき、シラリカは少しだけ間を置いた。
自分の名なのに、誰かの名を借りているような置き方だった。
「よい耳だ」
シラリカは言った。
「でも、よすぎる」
「どうすればいいの」
「水を飲め」
私は椀を見た。
「それだけ?」
「まずは、それだけ」
私は少しだけ笑った。
シラリカは笑わなかった。
けれど、目の奥が少しやわらかくなった。
外ではまだ大人たちの声が続いていた。
その中で、何度もひとつの名が出た。
シャクシャイン。
春に聞いたときより、ずっと近くなっていた。
火のそばの低い名ではなく、人々を動かす名になっていた。
その夜、私たちはそのコタンに泊まった。
大人たちは遅くまで話していた。私はシラリカの家の隅で横になったが、眠れなかった。外から入ってくる声を、耳が勝手に拾ってしまう。
「シャクシャインへ知らせる」
「知らせるだけでは足りない」
「コタン同士で争っている場合ではない」
「オニビシの者は信用できるのか」
「信用できぬからこそ、言葉を運ぶ者がいる」
「誰を行かせる」
「この子は」
そこで父の声が強くなった。
「だめだ」
私は目を開けた。
「子どもだ。今日だけでも十分だ」
老人の声がした。
「子どもだから通れる道がある」
祖母と同じことを言う。
でも、祖母の声とは違った。
祖母の声には、私の額に置いた手の温かさがあった。
この老人の声には、道具を選ぶ冷たさがあった。
父は怒っていた。
「この子を道具にするな」
その声を聞いて、胸が少し痛くなった。
父は私を連れてきたことを、まだ悔いている。
でも、連れてきた。
私が聞いてしまったから。
私が忘れられないから。
シラリカが静かに言った。
「道具かどうかは、この子の耳が決めることではない」
外の声が止まった。
「だが、聞いたものはもう戻らない」
父は答えなかった。
外の声が、しばらく途切れた。
私のすぐそばで、シラリカが身を起こす気配がした。眠っていなかったのだ。
「眠れないのか」
「声が、入ってくる」
「閉じても?」
「閉じても」
シラリカは少し黙った。
「私も、そうだった」
私は暗がりでそちらを見た。顔は見えなかった。
「昔の話だ」
それだけ言って、シラリカはまた横になった。
私は、その「昔」を覚えた。
意味は分からない。けれど、声の底に、川底の石のようなものが沈んでいた。
私は、寝床の中で拳を握った。
聞かなかったことにはできない。
忘れたことにもできない。
ならば、私はどうすればいいのか。
その答えは、翌朝来た。
朝早く、使いの者が到着した。
彼はシャクシャインのもとから来たという。背は高くないが、足が速そうな男だった。額に汗があり、目は眠っていなかった。
広場に人が集まった。
男は告げた。
「話し合いの場が持たれる。各コタンから、耳の確かな者、口の確かな者を寄こせとのことだ」
耳の確かな者。
口の確かな者。
人々の目が、私に向いた。
父が一歩前へ出た。
「この子は行かせない」
使いの男は私を見た。
「子どもか」
私は、その言い方に腹が立った。
「子どもです」
自分でそう言った。
「でも、聞いた言葉は子どもではありません」
使いの男の眉が少し動いた。
広場が静かになった。
私は父の袖をつかんだ。
父は私を見た。
「行きたいのか」
私はすぐには答えられなかった。
行きたいわけではない。
怖くないわけでもない。
シャクシャインのところへ行けば、もう家へ戻る道は前と同じではなくなる気がした。
でも、春の川の音が耳に残っていた。
杭が土へ入る音。
和人の笑い声。
佐吉の息。
祖母の声。
「行く」
私は言った。
父は目を閉じた。
長い沈黙のあと、父はうなずいた。
「ならば、私も行く」
使いの男は短く言った。
「急ぐ」
その日、私たちはさらに奥へ向かった。
夏の光は強かった。草は濃く、虫の声は耳を刺した。私は歩きながら、昨日の大人たちの声を何度も頭の中で並べ直した。
必要な言葉と、必要でない言葉。
火へ置く言葉と、道へ出す言葉。
まだ、その分け方は分からなかった。
夕方、広い河原に着いた。
そこには、いくつものコタンから来た人々が集まっていた。顔つきも、衣の模様も、声の調子も少しずつ違った。互いに警戒し、互いに近づこうとしている。
まるで、別々の川がひとつの流れになる前のようだった。
その中心に、男がいた。
私は、遠くからでも分かった。
あれが、シャクシャインだ。
大きな声を出しているわけではなかった。
誰かを押さえつけているわけでもなかった。
ただ立っているだけで、人々の言葉が彼のほうへ流れていった。
父が私の肩に手を置いた。
「頭を下げろ」
私は頭を下げた。
けれど、目は上げていた。
見たかった。
春から何度も聞いた名が、どんな顔をしているのか。
シャクシャインの目が、私に向いた。
まっすぐだった。
大人が子どもを見る目ではなかった。
刃を見る目でも、道具を見る目でもなかった。
火のそばに置かれた言葉を見るような目だった。
「その子か」
シャクシャインが言った。
父が答えた。
「川で和人の言葉を聞いた子です」
「名は」
私は名を言った。
シャクシャインはうなずいた。
「聞いた言葉を、そのまま戻せるか」
「できます」
「怖くてもか」
私は少し黙った。
「怖いと、声が震えます」
「震えてもよい」
彼は言った。
「曲げるな」
私はうなずいた。
人々が集まった。
メナシクルの者。
シュムクルの者。
どちらにも近づきすぎない者。
和人と長く交易してきた者。
和人を信用しない者。
アイヌ同士でも、傷つけ合った記憶を持つ者たち。
その前で、私は春の川で聞いた言葉を戻した。
ただ話すのではない。
声の形を戻した。
和人が川を指したときの音。
下流と言ったときの響き。
笑った者の息。
杭が土へ入る音。
そして、笑わなかった若い男の、飲み込んだ息。
佐吉という名は、ここでも言わなかった。
名は、まだ渡す時ではなかった。
けれど、その息だけは置いた。
言い終えたとき、河原に川の音だけが残った。
シャクシャインはしばらく何も言わなかった。
やがて、彼は周りの人々を見た。
「聞いたか」
誰も答えなかった。
「これは、一つの川の話ではない」
シャクシャインの声は低かった。
けれど、遠くまで届いた。
「川を分け、浜を分け、コタンを分け、人を分ける。分けられたものは、ひとつずつ縛られる」
人々の顔が変わった。
シャクシャインは続けた。
「こちらが互いの名を罵っている間に、向こうは川に杭を打つ」
誰かが歯を食いしばる音がした。
「まず、知らせる。まだ聞いていない者へ。まだこちらを見ていない者へ」
その言葉は、河原の空気を変えた。
怒りは消えなかった。
不信も消えなかった。
けれど、ばらばらだった声が、同じ方角を向きはじめた。
私は、その瞬間を覚えた。
刃より遅く、火より静かで、けれど水のように広がるもの。
私が戻した声は、ひとつもこぼれ落ちなかった。
話し合いが終わったあと、シャクシャインは私を呼んだ。
父が一緒に来ようとしたが、シャクシャインは首を振った。
「少しだけだ」
父は不安そうだったが、離れた場所で待った。
私はシャクシャインの前に立った。
近くで見ると、彼は秋の山のような人だった。
大きいだけではない。
あちこちに傷があり、風を受け、雪を知っている山。
「おまえは、よく聞く子だ」
シャクシャインが言った。
「聞こえてしまいます」
「それは、よいことばかりではない」
「知っています」
「まだ知らぬ」
その言い方は厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
「聞いた言葉は、おまえの中に残る」
私はうなずいた。
「人の怒りも、嘘も、死ぬ前の声も、残る」
死ぬ前の声。
その言葉だけが、耳の奥で重くなった。
シャクシャインは、私に小さな木片を渡した。
祖母が持たせてくれたものとは違う。細く削られ、指で触ると小さな溝があった。
「これは何ですか」
「忘れすぎぬためのものだ」
「忘れられません」
「なら、沈めるためのものだ」
私は木片を握った。
小さい。
けれど、重かった。
「これから、おまえに言葉を運んでもらうことがある」
「どこへ」
「まだ決めていない」
「誰へ」
「こちらの言葉を、まだこちらへ向けていない者たちへ」
私は、メナシクルやシュムクルという言葉を思い出した。
父たちが火のそばで言っていた、争いの名。
「私は子どもです」
「そうだ」
シャクシャインは言った。
「だから、見落とされる」
私は黙った。
「怖いです」
そう言うと、シャクシャインはうなずいた。
「怖いまま聞け」
「強くなくても?」
「強い声ばかりでは、遠くまで届かない」
私は木片を握りしめた。
そのとき、遠くで父が私の名を呼んだ。
シャクシャインは言った。
「戻れ。父を安心させろ」
私は頭を下げた。
離れようとしたとき、彼がもう一度言った。
「曲げるな」

私は振り返った。
シャクシャインは、それ以上何も言わなかった。
それで十分だった。
夜、河原ではいくつもの火が焚かれた。
人々はまだ互いを疑っていた。けれど、昼よりは近く座っていた。火と火の間を、言葉が行き来していた。
怒りの言葉。
ためらう言葉。
謝れないまま置かれる言葉。
まだ橋にはならない。
けれど、川へ投げ込まれた最初の木のようには見えた。
私は父の隣で、シャクシャインにもらった木片を握っていた。
父が聞いた。
「何を言われた」
「曲げるな、と」
父はしばらく黙った。
「重い言葉だ」
「うん」
「持てるか」
私は木片を見た。
「分からない」
正直に言うと、父はうなずいた。
「それでいい」
火が、ぱちりと鳴った。
私は夏の夜の音を聞いた。
川の音。
虫の声。
遠くの人の笑い。
まだ消えない不信。
それでも少しずつ近づこうとする足音。
春、私は川の名を覚えた。
夏、私は人の声を渡した。
けれど、渡した声がどこへ行くのかは、まだ知らなかった。
その夜、まだ誰も歌っていないはずの声が、遠い川下から、歌の形をして近づいてくるのを聞いた。

