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ハウ ルラ ポ (Haw rura po) 声を運ぶ子 第四章 


秋の川は、刃の色をしていた。
カムイチェプが帰ってきた。
銀の背が、水の中で光っていた。
流れに逆らい、石に体を打ちつけ、それでも上へ上へとのぼっていく。
私は川を見るたび、胸の奥が痛くなった。

春に杭が立った川。
夏に言葉を運ぶ道になった川。
そして秋、鮭たちが帰ってくる川。
川は、いつも同じ顔をしているようで、少しずつ違った。

水の音も、風の湿りも、岸に残る足跡も、季節ごとに変わる。
けれど、どの季節の川にも、ひとつだけ同じものがあった。

第四章 秋 『折れそうな橋』


道だ。
カムイチェプの道。
人の道。
言葉の道。
私はその道を、何度も渡った。
夏の終わりから、私は父と、時にはシラリカと、時にはシャクシャインの使いの者とともに、いくつものコタンを回った。

メナシクルの者にも会った。
シュムクルの者にも会った。
どちらでもないと口では言いながら、どちらかに怒りを持つ者にも会った。
私の役目は、聞いた言葉を運ぶことだった。
けれど、運んだ言葉が、いつも道になるわけではなかった。
あるコタンでは、私が話し終える前に男たちが怒り立った。

「今すぐ下流へ行く」
「杭を抜く」
「和人を捕らえる」

別のコタンでは、誰も信じようとしなかった。

「シャクシャインは、こちらを利用しようとしているだけだ」
「メナシクルの言葉など信用できるか」
「シュムクルが先にこちらを裏切ったのを忘れたのか」

怒りに火がつくこともある。
疑いに火がつくこともある。
恐れに火がつくこともある。
私は、だんだん分からなくなった。

聞いたままに戻せばよいのだと思っていた。
曲げなければ、それで届くのだと思っていた。
でも、届いたあとで、人はそれぞれ違うものを燃やす。

ある日の夕方、私はシャクシャインに聞いた。

「言葉を運んでも、橋にならないことがあります」

シャクシャインは川を見ていた。
鮭の背が、夕日の中で光っていた。

「ある」

それだけ言った。

「では、どうすればいいのですか」
「声が高くなりすぎたら、言葉はもう届かない」
「では、黙るのですか」
「黙るだけでは、刃が抜かれる」

シャクシャインは私を見た。

「歌を知っているか」
「祖母に少し」
「なら、使え」
「歌で争いが止まるのですか」
「止まらぬかもしれん」

シャクシャインは静かに言った。

「だが、刃を抜く前に一呼吸だけ置けることがある」

一呼吸。
それだけのために、山を越え、怒る人々の中へ入るのか。
そう思った。
けれど、その一呼吸がなければ、人は簡単に死ぬのだと、私はもう知りはじめていた。

その秋、私たちは山のふもとにある小さなコタンへ向かった。
そこには、二つの血筋が寄り合って住んでいた。
昔は仲が良かったらしい。
けれど、狩場をめぐる争いと、和人との交易をめぐる不信が重なり、今では同じ火のそばにも座れなくなっていた。
道中、父はほとんど話さなかった。
シラリカは、秋の草を踏みながら私に言った。

「今日は、声を戻す日ではない」
「では、何をするの」
「息を聞く」
「息?」
「怒鳴っている者も、息をしなければ声は出ない」

私はシラリカを見た。

「息が合えば、声は少し変わる」

そのコタンへ着いたのは、夕暮れ前だった。
空は赤く、山の影は長かった。
家々の前には鮭が干され、煙が低く流れていた。
けれど、人々の顔は険しかった。
私たちが着いたとき、広場ではすでに言い争いが起きていた。
片方の男が叫んだ。

「おまえたちが和人に先に話を売ったのだろう!」

もう片方が怒鳴り返した。

「そちらこそ、商人から酒を受け取ったではないか!」
「黙れ!」
「そちらが黙れ!」

私は足を止めた。
怒りの声は、耳の中で跳ねた。
ひとつひとつは聞き取れる。
でも、多すぎる。
声が重なり、胸の奥で石がぶつかるようだった。
父が私の肩をつかんだ。

「下がれ」

けれど、シラリカが首を振った。

「今だ」
「今?」

私は思わず聞き返した。
今は、一番だめな時に見えた。
男たちは刃に手をかけ、女たちは子どもを家の中へ押し込んでいる。年寄りたちも止めようとしているが、声は届いていない。
シラリカは私の耳もとで言った。

「声が高すぎる」

その言葉で、私は広場の音をもう一度聞いた。
怒鳴り声。
それを押し返す怒鳴り声。
火のそばで泣きそうになる子どもの息。
止めようとして、途中で消える老人の声。
誰にも届かない女たちの小さな呼びかけ。
確かに、どの声も高かった。
高く、硬く、ぶつかり合っていた。

「低い声を置け」

シラリカが言った。
低い声。
祖母の声。
火のそばの声。
川の名を呼ぶ声。
私は、シラリカを見た。
なぜ、知っているのか。
なぜ、こんなにも正しく、低い声の置き方を知っているのか。
シラリカは私を見返さなかった。
広場の、怒鳴り合う男たちのほうを見ていた。

「昔、置けなかった」

低い声で、そう言った。

「だから、知っている」

私は、それ以上聞かなかった。
聞けば、彼女の喉が、今この場で必要な低さを失う気がした。
私は前へ出た。
父が止めようとした。
けれど、私はその手をすり抜けた。

広場の真ん中まで行くと、足が震えた。
誰も私を見ていなかった。
それぞれが、それぞれの怒りだけを見ていた。

私は息を吸った。
春の川で聞いた和人の声を、口にしようと思えばできた。
けれど、今日はそれではない。
言葉を置けば、また誰かの怒りに火がつく。
正しい言葉でも、人を押し倒すことがある。
私は口を閉じた。
声を戻すのではない。
今度は、息を置く。
そして、歌い出した。


はじめは、声が震えた。
祖母から教わった短いウポポ。
川へ向けるものではなく、人が輪になって息を合わせるための歌だった。
意味のすべてを私は知らなかった。
けれど、手の動きと、足の拍と、息の置き方は覚えていた。
声を低く置く。
私はもう一度、同じ節を繰り返した。
怒鳴り声の残りが、広場の端で揺れた。
誰かが「やめろ」と言いかけた。
でも、言葉は続かなかった。
私は歌い続けた。

火のそばで、ひとりの年寄りの女が顔を上げた。
その人の目が、私ではなく、歌の方を見た。
やがて、低い声が重なった。
ひとり。
またひとり。
別の家の入口からも、声が加わった。
女たちだった。
それから、老人たちだった。
男たちは戸惑っていた。
刃に置いていた手が、少しずつ緩んでいく。
怒りは消えない。
けれど、息が変わる。
ばらばらに突き出していた声が、歌の拍の中で、ほんの少しだけ同じところへ戻ってくる。
けれど、ひとつだけ。
広場のどこかで、拍を取りかけて、止まった喉があった。

……けれど、歌はゆるめなかった。
私は歌いながら、涙が出そうになった。
歌は、戦を止める魔法ではない。
和人の杭を抜く力もない。
死んだ者を戻す力もない。
でも、今この一呼吸だけは作れる。
刃を抜く前の、一呼吸。
歌が終わったあと、広場は静かだった。
完全な静けさではない。
まだ誰かの息が荒い。
誰かの喉が怒りを飲み込んでいる。
子どもが、家の奥で小さく鼻をすすっている。
でも、さっきとは違った。
先ほど叫んでいた若い男が、目を伏せた。

「……和人のところへ、先に行ったのは事実だ」

彼は言った。
隣の者が驚いて見た。
若い男は唇を噛んだ。

「だが、売ったのではない。酒をすすめられ、話を聞かれた。何を聞かれているのか、そのときは分からなかった」

向かいの男が言った。

「こちらも同じだ」

声はまだ硬かった。
けれど、怒鳴り声ではなかった。

「干し場のことを聞かれた。どこに魚を干すか。どの川を使うか。どの道を通るか。世間話だと思った」

シラリカが小さく息を吐いた。
父も、刃から手を離していた。
私は、ようやく自分の膝が震えていることに気づいた。
広場の中央で、二つの血筋の老人が向かい合った。
長い沈黙があった。
やがて、片方の老人が言った。

「互いに謝るには、古い傷が多すぎる」

もう片方がうなずいた。

「だが、今は川のほうが先だ」
「シャクシャインのもとへ、二人出す」
「こちらも二人出す」

それだけだった。
握手もなかった。
涙もなかった。
抱き合う者もいなかった。
ただ、刃は抜かれなかった。

その夜、そのコタンでは小さな火がいくつも焚かれた。
大きな宴ではなかった。
和解と呼べるほど、簡単なものでもなかった。
けれど、昼に刃を抜きかけた者たちが、同じ広場に座っていた。

互いに近づきすぎず、離れすぎず。
火と火の間に、まだ黒い夜があった。
でも、その夜の上を、ときどき言葉が渡った。
私は疲れ果て、火のそばで膝を抱えていた。
シラリカが隣に座った。

「よくやった」

私は首を振った。

「歌っただけです」
「それが必要だった」
「でも、怖かった」

シラリカは火を見た。

「怖い声だから、低く置けた」

私は手の中の木片を握った。
シャクシャインにもらった木片。
忘れすぎぬためのもの。
沈めるためのもの。
その木片の溝に、指先が触れた。
そのとき、ひとつの息が戻ってきた。
歌の中で、拍を取りかけて、止まった喉。
低い声は、あれだけ重なったのに。
ひとつだけ、合わさらなかった。
誰の喉かは、分からなかった。
顔も、見ていない。
私はそれを、責めなかった。
惜しみもしなかった。
歌え、と願った。
その人は、歌わなかった。
歌わないことも、その人のものだった。
私は、その息を運ばなかった。
シラリカにも、言わなかった。
佐吉の息を置いた場所に、もうひとつ、息を置いた。
名のない息だった。

私はふと、秋の歌を作りたいと思った。
まだ歌にはならなかった。
でも、言葉のかけらは胸に集まっていた。

 キムンカムイ。
 ヌプリ。
 カムイチェプ。
 ウポポ。
 モシリ。
 オイナ。

山から来るもの。
川をのぼるもの。
人が受け取り、返すもの。
そして、忘れてはいけない話。
私はそのかけらを、胸の奥にしまった。

翌朝、私たちはシャクシャインのいる河原へ戻った。
代表として選ばれた四人の男が一緒だった。昨日まで互いを疑っていた者たち。まだ距離はあったが、同じ道を歩いていた。
それだけでも、不思議なことだった。
河原に着くと、シャクシャインはすぐにこちらを見た。
私の後ろにいる四人を見ると、彼は短くうなずいた。

「刃は抜かれたか」
「抜かれませんでした」
「それでよい」
「歌いました」
「そうか」

それだけだった。
褒められると思っていたわけではない。
けれど、少し物足りなくて、私は言った。

「歌では、杭は抜けません」

シャクシャインは私を見た。

「杭を抜く者は別にいる」
「歌は、何の役に立つのですか」
「昨日、刃は抜かれなかった」

私は黙った。

「それ以上の役に立つ日もある。それだけの日もある」

川のほうで、鮭が跳ねた。
水が光った。

「おまえは、声を渡す者だ」

シャクシャインは言った。

「けれど、声は言葉だけではない」

私は手の中の木片を見た。
その溝をなぞると、昨日の歌の低い拍がまだ指に残っていた。

そのとき、馬の足音が聞こえた。
和人ではない。
アイヌの使いだった。
息を切らし、泥を跳ね上げ、河原へ駆け込んできた。
場の空気が変わった。
使いの男は、シャクシャインの前で膝をついた。

「松前の者から使いが来ました」

シャクシャインの顔から表情が消えた。

「何と言っている」
「争いを終えるため、話し合いの場を設けたいと」

周りの者たちがざわめいた。

「話し合い?」
「今さらか」
「罠ではないのか」

私は、背中が冷たくなるのを感じた。
話し合い。
和解。
宴。
その言葉は、まだこのときの私には、完全には怖いものではなかった。
でも、声の奥に何かがあった。
私は使いの男を見た。
彼は、さらに言った。

「酒を用意する、と」

その瞬間、祖母の声が耳の奥でよみがえった。
酒は、道を開くこともある。
道を閉じることもある。
私はシャクシャインを見た。
彼は黙っていた。
周りの大人たちは、それぞれの言葉でざわめいていた。

「受けるべきだ」
「いや、危ない」
「これ以上戦えば、冬を越せない」
「話し合いで終わるなら」
「信じられるのか」

声が重なった。
私は、夏の河原を思い出した。
ばらばらの川が、ひとつの流れになる前の音。
けれど、今の音は違った。
どこかに、薄い氷が張っているようだった。
その下で、黒い水が動いている。
シャクシャインは、ゆっくり口を開いた。

「聞く」

誰もが黙った。

「だが、酒の匂いだけで和解とは思わぬ」

彼の目が、私に向いた。

「おまえも来い」

父がすぐに声を上げた。

「なりません」

シャクシャインは父を見た。

「宴の表には出さぬ。裏で聞かせる」
「危険です」
「だからこそ、耳がいる」

父の顔がこわばった。
私は、何も言えなかった。
行きたくない。
けれど、聞かなければならない。
この秋、私はそういう道を何度も渡ってきた。
シャクシャインは私に言った。

「怖いか」
「怖いです」
「ならば、よく聞ける」

私は木片を握った。
秋の風が河原を吹いた。
鮭の背が、水の中で光った。
上へ上へとのぼっていた。
傷つきながら、それでも道を知っているもののように。

橋は折れなかった。
けれど、次に渡る橋は、もっと細い。

そしてその先には、冬が待っていた。
その冬の奥で、まだ見えない酒の器が、かすかに鳴った気がした。


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