『決める側の手』
玄関の隅に、あいつがいる。
昔は、扉を開ける前から気配で分かって、
ドアノブに手をかけた瞬間にはもう、爪の音が鳴っていた。
今は、音がしない。
ただ、いる。
最初に異変に気づいたのは、いつだったか。
正直、はっきりとは覚えていない。
少しずつだった。
散歩に行きたがらなくなって、
呼んでも来るのが遅くなって、
ある日、名前を呼んでも——来なかった。
玄関の手前で、固まっていた。
叱る気にはなれなかった。
ただ、何も言えなかった。
床を拭きながら、俺は妙なことを考えていた。
——これは、どこまでが“仕方ない”なんだろう。
それから、あいつは少しずつ“外れていった”。
輪の中にいないわけじゃない。
でも、中心にはいない。
名前を呼ぶ回数が減った。
撫でる時間も減った。
代わりに、声をかける内容が変わった。
「大丈夫か」
「無理するな」
「動かなくていい」
いつの間にか、“期待”じゃなくて“許可”ばかりになっていた。
それが優しさだと思っていた。
でも違ったのかもしれない。
ただ、諦めていただけなのかもしれない。
——楽だった。
正直に言うと、少しだけ。
もう散歩に連れて行かなくてもいい。
もう世話もそこまで大変じゃない。
そう思ってしまった自分が、確かにいた。
だから、その日、俺は決めた。
いや、“決めてしまった”。
あいつの前に膝をつく。
目が合う。
昔みたいに、真っ直ぐじゃない。
少し濁って、でもまだ、俺を見ている。
「……ごめんね」
口に出した瞬間、自分でも分からなくなった。
何に対しての「ごめん」なのか。
長く生かしすぎたことか。
もっと早く決めなかったことか。
それとも——
今、終わらせようとしていることか。
分からないまま、涙が落ちた。
あいつの毛に吸い込まれていく。
その瞬間だった。
あいつの体が、わずかに反応した。
動かないはずの尻尾の付け根が、
ほんの少しだけ、震えた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そう見えてしまった。
——やめろよ。
心の中で、そう思った。
いまさら。
ここまできて。
そんなふうに、期待させるな。
いや、違う。
期待しているのは、俺のほうだ。
「まだいけるんじゃないか」
「もう少し一緒にいられるんじゃないか」
そんなことを、ほんの一瞬考えてしまった。
あいつのためじゃない。
自分のために。
抱き上げる。
軽い。
あんなに重かった体が、嘘みたいに軽い。
帰りの車の中で、俺はずっと考えていた。
これは正しいのか。
いや、正しさなんてどうでもいい。
ただ、俺は——
この決断を、背負って生きていくしかない。
あいつは選べない。
だから、俺が選ぶ。
それが飼うってことだと、
ずっと前に分かっていたはずなのに。
視線を落とすと、あいつは静かに目を閉じていた。
もう苦しそうではなかった。
ただ、そこにいた。
その姿を見て、俺は思った。
——もしかしたら。
最後まで苦しんでいたのは、
こいつじゃなくて、俺のほうだったのかもしれない。
