『空の皿』
私は、もう満たされることがない。
かつては、毎日同じ時間に音がして、
金属が触れ合う軽い響きのあと、
柔らかな重みが私の上に置かれた。
温度があった。
匂いがあった。
そして、すぐにそれは消えた。
舌が触れるたびに、世界が削られていくようだった。
それでも最後には、きれいに空になる。
それが、私の役目だった。
今は違う。
床の同じ場所に置かれたまま、
私はただ、満たされないままでいる。
最初の数日は、何も起きなかった。
その人は、私を見なかった。
視界の端に入っても、焦点を合わせない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
時間だけが、ゆっくりと積もっていく。
やがて、部屋の匂いが変わり始めた。
食べ物の匂いが減り、
代わりに、動かない空気の匂いが増えた。
その人は、食事の回数を減らした。
いや、減らしたのではない。
忘れているだけだった。
冷蔵庫の開く音がしない日が続く。
水だけを飲む音が、夜に一度だけ響く。
私は空のまま、それを聞いている。
ある日、その人が私の前で立ち止まった。
視線が、初めて落ちてきた。
だが、それは私を見ているのではなかった。
私の“向こう側”を見ていた。
「……ああ」
その声には、名前がなかった。
ただの、漏れた音だった。
それからまた、何日も何も起きなかった。
埃が、少しずつ私の内側に溜まる。
かつて満たされていた場所に、
今は時間だけが積もっていく。
満たされないことよりも、
必要とされないことのほうが、静かだった。
ある朝、違う音がした。
久しぶりに、冷蔵庫が開いた。
しばらくして、足音が近づく。
その人は、私の前にしゃがみこんだ。
しばらく、何もせずにいた。
ただ、見ていた。
今度は、確かに私を。
「……洗わないとな」
そう言って、手が伸びた。
触れられるのは、いつ以来だろうか。
水が流れる音。
表面をこする感触。
積もっていた時間が、剥がれていく。
だが、それだけだった。
何も乗せられないまま、私は元の場所に戻された。
再び、空。
ただ、少しだけ違っていた。
その日、部屋にもう一つ音が増えた。
電子レンジの、短い作動音。
温められた何かの匂いが、わずかに漂う。
だが、それは私には来ない。
テーブルの上で消えていく。
それでいい。
私は理解している。
私はもう、あの役目には戻らない。
それでも——
空のまま、ここに置かれている。
捨てられてはいない。
使われてもいない。
ただ、残されている。
その事実だけが、わずかに形を持つ。
夜、その人が床に座り込んだ。
長く動かなかったあと、
ふと、こちらに手を伸ばした。
指先が、私の縁に触れる。
軽く、なぞる。
それだけで、何も起きない。
満たされることも、音もない。
それでも、その人はしばらく手を離さなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……まだ、あるな」
何が、とは言わなかった。
だがその言葉は、私の内側に落ちた。
空のままの場所に。
満たされないまま、私はそこにある。
そして、その人もまた——
少しずつ、満たされないまま、生き始めている。
