『三つの形、三つの喪失。』
「あなたが扉を開けるとき、私はそこにいる。」

「正しかったのか、わからないまま。」

「捨てられてもいない。使われてもいない。」

『風/決断/空』
Ⅰ
私は、もう満たされることがない。
床の同じ場所に置かれたまま、
私はただ、空であり続けている。
かつてここには温度があった。
匂いがあった。
いまは、何もない。
ただ、時間だけが積もっていく。
Ⅱ
玄関の隅に、あいつがいる。
音がしない。
昔は、扉に触れる前から気配があったのに。
いまはただ、そこにあるだけだ。
Ⅲ
私はかつて、風だった。
呼ばれるより先に駆け出し、
世界のすべてに触れていた。
いまは、影だ。
Ⅳ
冷蔵庫の音が、減った。
水の音だけが、夜に一度。
その人は、何かを忘れている。
食べることか、
満たすことか。
Ⅴ
散歩に行かなくなったのは、いつからだったか。
呼んでも来ない日が増えて、
やがて、呼ばなくなった。
それが優しさだと思っていた。
Ⅵ
尻尾がある。
だが、それはもう私ではない。
命令を伝えない、沈黙した毛の束だ。
Ⅶ
その人は、私を見ない。
視界に入っても、焦点を合わせない。
存在は、徐々に輪郭を失う。
Ⅷ
——玄関の手前で、止まっていた。
いや、動けなかったのか。
名前を呼んでも、一歩も来なかった。
あのとき、何も言えなかった。
Ⅸ
——間に合わなかった。
呼ばれても、体は動かなかった。
沈黙だけが、そこに残った。
Ⅹ
埃が、私の内側に積もる。
満たされていた場所に、
時間だけが溜まっていく。
Ⅺ
あいつは、少しずつ外れていった。
輪の中にいないわけじゃない。
だが、中心にはいない。
Ⅻ
役に立たなくなるというのは、
こんなにも静かなものだったのか。
ⅩⅢ
ある日、その人が私の前で止まった。
視線が落ちる。
だが、それは私ではなく、
私の”向こう”を見ていた。
ⅩⅣ
あいつの前に膝をつく。
目が合う。
濁っている。
それでも、まだ、こっちを見ている。
ⅩⅤ
その人が、そばに来た。
気配が近い。
何かが終わる匂いがした。
ⅩⅥ
「……ごめんね」
口に出した瞬間、意味が崩れた。
何に対しての謝罪なのか、分からなくなる。
ⅩⅦ
「……ごめんね、もう、頑張らなくていい」
その声は、優しかった。
そして、どこか軽かった。
ⅩⅧ
頬に、熱が落ちる。
それは水ではない。
生きているものの温度だ。
ⅩⅨ
涙が、あいつの毛に染み込んでいく。
そのとき——
わずかに、動いた気がした。
ⅩⅩ
動かないはずの場所で、
“振ろうとする感覚”だけが蘇る。
体は従わない。
だが、意思だけが逆流する。
ⅩⅪ
——やめろ。
そう思ったのは、あいつに対してじゃない。
自分に対してだった。
ⅩⅫ
水が流れる。
私の表面を、誰かがこする。
積もった時間が、剥がれていく。
ⅩⅩⅢ
軽い。
抱き上げた体が、信じられないほど軽い。
ⅩⅩⅣ
私は揺れる。
匂いが近づき、遠ざかる。
ⅩⅩⅤ
私は元の場所に戻される。
空のまま。
ⅩⅩⅥ
これは正しいのか。
そんな問いは、意味がない。
選んだ時点で、終わっている。
ⅩⅩⅦ
愛は、手放させてくれない。
ⅩⅩⅧ
その夜、その人は床に座り込んだ。
長く動かなかったあと、
私に触れた。
ⅩⅩⅨ
指先が、縁をなぞる。
何も起きない。
それでも、手は離れない。
ⅩⅩⅩ
——まだ、ここにいたい。
ⅩⅩⅩⅠ
「……まだ、あるな」
何が、とは言わなかった。
ⅩⅩⅩⅡ
満たされないまま、私はそこにある。
ⅩⅩⅩⅢ
どう終わるかは、選べない。
ⅩⅩⅩⅣ
それでも、残る。
ⅩⅩⅩⅤ(終)
私は、この家に残る。
風ではなく。
影でもなく。
空でもなく。
——記憶として。
完
