『風だったもの』
私はかつて、庭を駆けまわる「風」だった。
呼ばれるより先に駆け出し、ボールより速く、影より軽かった。
いまは、玄関の隅に沈む「影」だ。
一日のほとんどを、同じ場所で過ごしている。
散歩は数ヶ月に一度。
抱えられて外に出ると、私は一瞬だけ勘違いする。
——まだ、あの頃のままだと。
だが数分後、世界はすぐに重くなる。
足は鉛のように沈み、私はまた眠りに落ちる。
尻尾がある。
立派だった名残が、いまも体の後ろに付いている。
だが、それはもう私ではない。
命令を伝えない、沈黙した毛の束だ。
——ある日、間に合わなかった。
玄関の手前で、私は止まった。
止まったのではない。動けなかった。
名前を呼ばれても、足は震えるだけで、一歩も前に出なかった。
やがて床に広がる匂いと、誰も何も言わない時間だけが残った。
あの沈黙を、私はまだ覚えている。
それから私は、少しずつ家族の輪の外へ押し出されていった。
呼ばれる回数が減り、撫でられる時間が減り、
やがて、誰も私に何も求めなくなった。
不思議なことに、苦しさも一緒に減っていった。
走れなくてもいい。
守れなくてもいい。
応えられなくてもいい。
雨の日は涼しく、晴れの日は床が温かい。
かつての私は、ずっと試されていた。
速く走れるか。
役に立つか。
愛にふさわしいか。
いまの私は、何も試されない。
それは、敗北ではなく、解放に近かった。
こんな終わり方も悪くない。
そう思い始めていた。
あの日までは。
主人が、私の前に膝をついた。
「……ごめんね」
その声には、優しさがあった。
同時に、長い時間を終わらせる決意と、ほんの少しの安堵も混じっていた。
私は理解した。
——ああ、ここまでか。
次の瞬間、頬に落ちてきた。
熱い、水。
それは雨でも、水でもない。
生きているものからしか出てこない温度だった。
その一滴が、私の中の何かを壊した。
静かに終わるはずだったものが、軋みを立てて崩れる。
いらないはずのものが、戻ってくる。
——まだ、ここにいたい。
馬鹿げている。
もう何もできない体で。
誰の役にも立たないままで。
それでも。
動かないはずの尻尾の奥で、
確かに「振ろうとする命令」だけが走った。
体は従わない。
だが意思だけが、若い頃のまま逆流する。
これが執着か。
これが、生か。
人間にとっては慈悲の決断。
だが私にとっては、最後に与えられた最も残酷な贈り物。
愛は、手放させてくれない。
抱き上げられる。
揺れる。
匂いが近づき、遠ざかる。
私は思う。
忘れられて消えるのも悪くなかった。
だが、愛に引き戻されて終わるのも——悪くない。
どう終わるかは選べない。
どうせ決めるのは人間だ。
その不条理ごと受け取ることが、
私たちが最後に与えられる役目なのかもしれない。
視界が閉じる。
世界が、内側に沈む。
私はもう走らない。
私はもう待たない。
ただ、この家の中に残る。
風ではなく、記憶として。
