ハウ ルラ ポ (Haw rura po) 声を運ぶ子 第一章
火のそばへ入る前に(あらすじ)
川に杭が打たれた春、人の声を忘れられない少女は、和人たちが土地と川を奪おうとする言葉を聞いてしまう。
彼女は父に連れられ、シャクシャインのもとへ向かい、聞いた声を人々へ渡す役目を負う。夏、声は人を動かし、秋、歌は刃を抜く前の一呼吸を作る。だが冬、和解の形をした宴で言葉は曲がり、シャクシャインは少女へ最後の声を託す。「私の命を運ぶな。声を運べ」。
これは、刃の行方だけを語る物語ではない。奪われても消えなかった声を、火のそばから次の季節へ。春へ、夏へ、秋へ、冬へ。

第一章 序 『火のそばの名』
私には、人の声が残る。
一度聞いた声は、耳の奥から消えなかった。
祖母が火に向かって置いた祈りも、父が交易から戻った夜に飲み込んだため息も、母が泣かずに針を落とした音も、すべて残った。
言葉だけではない。
息を止める音。
喉を鳴らす音。
笑う前に、ほんの少しだけ声を濁らせる音。
そういうものまで、私には聞こえた。
だから大人たちは、私を気味悪がった。
聞かなくてよい。
忘れなさい。
子どもは、そんなことを覚えるものではない。
何度もそう言われた。
けれど私は、忘れられなかった。
祖母だけは笑った。
「耳がよすぎる子は、火に近く座りなさい」
「どうして」
「火が、少し食べてくれる」
そう言って、祖母は私をいつも炉のそばに座らせた。
火は、よく鳴った。
薪の割れる音。
脂のはぜる音。
灰が崩れる音。
祖母が祈りを置く前に、息をひとつ整える音。
私はそこで、川の名を覚えた。
山の名を覚えた。
風の名を覚えた。
カムイへ置く言葉と、人へ渡す言葉の違いも、覚えた。
祖母は、名を大切にした。
川の名を呼ぶとき、祖母の声は少し低くなる。
山の名を呼ぶとき、背筋が伸びる。
火へ向かうときは、言葉の前に必ず沈黙を置いた。
私は、その沈黙も覚えた。
私の名も、火のそばに置かれていた。
祖母は、私の名を長く呼んだ。
父は、短く呼んだ。
母は、怒るときだけ、最後まで呼んだ。
その名を、ここではまだ言わない。
まだ、渡す時ではないからだ。
和人の言葉も、残った。
はじめは意味など分からなかった。
石がぶつかるような、硬く速い音だと思った。
何度も聞くうちに、私はその石の並びを覚えた。
同じ言葉でも、声によって違った。
笑いながら嘘をつく声。
酒をすすめるときだけ甘くなる声。
こちらの言葉を聞くふりだけする声。
それから、言葉を出す前に、息を飲む声。
けれど、足音は同じ方へ進んだ。
川のほうへ。
浜のほうへ。
私たちの名がついている場所のほうへ。
私は、その声を胸の奥にしまった。
しまえば守れるのだと思っていた。
けれど、火のそばで祖母が言った。
「聞いた声は、いつか道へ出る」
「どうして」
「中に置きすぎると、おまえが焼ける」
私は火を見た。
火は答えなかった。
ただ、ぱちりと鳴った。
だから、シャクシャインの名も覚えた。
その名をはじめて聞いた夜、父は歌わずに帰ってきた。
いつもの父なら、戸を開ける前から分かった。
外で犬をからかい、荷を下ろし、母に声をかけ、私の頭を大きな手で撫でた。
その夜の父は違った。
戸を開ける音が重かった。
足音も重かった。
肩にかけた荷よりも、声になる前の何かを背負っていた。
火は赤かった。
母は針を持ったまま動かなかった。
祖母は灰をならしていた。
「シャクシャインのところにも、話が行った」
父がそう言ったとき、家の中の空気が変わった。
その名は、ただの人の名ではなかった。
怒りを立たせる名だった。
沈黙に背骨を入れる名だった。
離れていた火を、同じ風の中へ向ける名だった。
私はその名を、耳の奥にしまった。
そのときはまだ知らなかった。
声は、しまっておくだけでは守れない。
火のそばに置いた名も、いつか誰かへ渡さなければならない。
まさかその名の最後の声を、私が運ぶことになるなど、まだ知らずに。

