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母の「あれ?」が増えていった|検査を受けるまで3年かかった話


冷蔵庫には、同じものがいくつも入っていた。
生協から届いた箱は、7箱。
ある日の夕食は、麻婆豆腐、生姜焼き、さらに大量のおかず。

「何がメインなの?」

今思えば、母の「あれ?」は、もう始まっていました。

母の物忘れが増えてきたのは、いつ頃からだっただろう。


たぶん5年以上前。

今振り返ると、

「あれ?」

と思うことは、少しずつ増えていました。

でも、その一つひとつは、

「年齢のせいかな」
「たまたまだよね」

と思おうと思えば、そう思えることでもありました。

だから私も、最初から「認知症」や「介護」という言葉を意識していたわけではありませんでした。

冷蔵庫に同じものがたくさん


実家の冷蔵庫を開けると、
同じような食品がいくつも入っていることがありました。

「これ、この前も買ってなかった?」

そう思うことが何度もありました。

買ったことを忘れて、また買ってしまったのか。

でも、その頃はまだ、

「歳をとれば、そういうこともあるよね」

と思っていました。

生協から届いた7つの箱


ある日、生協から商品が届きました。

その数、

7箱。

「え?こんなに頼んだの?」

びっくりしました。

冷蔵庫にはまだ食べ物がたくさんあります。

それなのに、また大量の食品が届く。

注文したことを忘れて、
また注文したのか。

どのくらい頼んだのか分からなくなっていたのか。

この頃から、少しずつ心配になっていきました。

麻婆豆腐と生姜焼き


母はずっと家族の食事を作ってきた人です。

そんな母が作った、ある日の夕食。

食卓には、

麻婆豆腐。
生姜焼き。
そのほかにも、
唐揚げやフライドポテト…,

「こんなに食べられる??」

「……何がメイン?」

「というか、何料理?」

思わずそう思ってしまいました。

しかも、とにかく量が多い。

どれか一品がおかしいわけではありません。

麻婆豆腐も、
生姜焼きも、 
作れないわけではない。

でも、それを全部一度に大量に作る。

以前の母なら、
こんな献立にはしなかった。

長年、母の料理を食べてきたからこそ分かる違和感でした。

1円玉がたくさん


家には、なぜかビニール袋に入った1円玉が大量にたまっていました。

「どうしてこんなに?」

そのときは
理由がよく分かりませんでした。

今考えると
買い物のとき、小銭をうまく使えなくなっていたのかもしれません。


お札を出すことが増えて、
おつりの小銭がたまっていったのかもしれません。


冷蔵庫。

買い物。

麻婆豆腐と生姜焼き。

大量の一円玉。

一つひとつは小さなことです。

でも、

「今までの母とは何かが違う」

という感覚が少しずつ強くなっていきました。

急に怒り出す


物忘れだけではありませんでした。

それまでなら気にしなかったようなことで、母が急に怒り出すこともありました。

「どうしてそんなに怒るの?」

こちらも戸惑います。

本人には本人なりの理由があったのでしょう。

それだけでは済まず、

子どものように、

「怒らないで!」

と言われたことも。

もちろん、私は怒った覚えはありません。

物忘れそのものより、
母の様子が少しずつ変わっていくことの方が心配でした。

三段重のおせちが2つ


今でもよく覚えているのが、お正月のおせちです。

三段重のおせち料理が届きました。

ところが、

もう一つ届きました。

三段重のおせちが2セット。

「どうしたの、これ?」

母を見ると、

「みんなで食べれば大丈夫よ」

と、笑っていました。

本人は困っている様子もありません。

いつものように笑っています。

三段重のおせちなど、今まで食べたことがありません。

母を見ながら、私は心配になりました。

それまでバラバラだった小さな

「あれ?」

が、一つにつながったような気がしました。

「これは一度、誰かに相談した方がいいのではないか」

そう思うようになりました。

初めて地域包括支援センターへ


おせち事件のこともあり、
妹と二人で、地域包括支援センターへ相談に行きました。

何をどう相談すればいいのかも、よく分かりませんでした。

ただ、

「母の物忘れが増えている」
「買い物や料理の様子も以前とは違う」

そんなことを話したのだと思います。

そこで、

「まずは、かかりつけ医に相談してみてください」

と言われました。

なるほど。

まず病院に相談すればいいんだ。

そのときは、そこから先へ進んでいけるような気がしました。

でも、実際はそんなに簡単ではありませんでした。

かかりつけ医では認知症検査をしていなかった


かかりつけ医に相談しました。

ところが、その病院では認知症の検査は行っていませんでした。

そこで、認知症検査のできる医療機関への紹介状を書いてもらうことになりました。

あとは母に検査を受けてもらえばいい。

そう思いますよね。

ところが、ここからが大変でした。

「私は大丈夫」


母は検査を受けることを断固として拒否しました。

「一度調べてもらおうよ」

と話しても、

嫌だ。

行かない。

私は大丈夫。

何度話しても拒否されました。

そこで、

「お父さんも一緒に検査してもらおう」

と話したこともありました。

母だけを「検査が必要な人」にしなければ、行ってくれるかもしれないと思ったのです。

でも、それでも母は拒否しました。

それどころか、

父の方を心配するのです。

「お父さんが心配だわ」

というように。

そして自分については、

「私は大丈夫」

と言う。

家族から見ると心配なことがいくつも起きている。

でも本人は、自分には問題がないと思っている。

どうすればいいのか分かりませんでした。

相談してから検査まで約3年


結局、

地域包括支援センターに初めて相談してから、母が実際に認知症の検査を受けるまで約3年かかりました。

今振り返ってみても、

「3年もかかったんだ」

と思います。

でも当時は、その3年間を「何もしていなかった」わけではありません。

心配する。

話してみる。

拒否される。

しばらく様子を見る。

また何か起きる。

もう一度話す。

また拒否される。

そんなことの繰り返しでした。

家族が心配していても、本人が受診を望まない。

そこには、家族だけでは簡単に解決できない難しさがありました。

介護は「今日から始まります」と始まるものではなかった


私にとって親の介護の始まりは、

「○年○月○日から」

とは言えません。

冷蔵庫に同じものが増えた。

7箱届いた生協の箱。

不思議な献立。

たくさんたまった一円玉。

突然怒るようになった母。

2つも届いた三段重のおせち。

母は笑っていた。

そして私たちは、

「大丈夫かな」

と思った。

そんな小さな「あれ?」の積み重ね。

そして妹と地域包括支援センターへ。

すぐに何かが解決したわけでもありません。

それで検査まで約3年。

その間にも、母との生活は続いていました。

今なら思います。

家族が「何かおかしい」と感じたとき、それ自体が大切なサインなのかもしれない。

そして、すぐに答えが出なくても、相談しておくことには意味がある。

あの頃の私は、そこから親の介護についてこんなに考えることになるとは思っていませんでした。

ましてや、それが自分の仕事や働き方、これからの人生まで考えるきっかけになるとは。

まだ知りませんでした。

私たち家族の介護は、

母の小さな「あれ?」に気づくところから、ゆっくり始まっていきました。

[続く]


ここまで読んでくださってありがとうございました😊



🍀この記事は
 母の介護に至るまでの過程を
 思い出し、整理しながら
 書いています🍀

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