短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(62) 嫉妬心
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「負けたとは、思ってないの」
バー「情念」で、オーママは身を乗り出す。
エナメルみたいな艶のある、黒いカウンターの真ん中に、両手をついて。
その両手は、派手な着物の袖から出ているにしては、日焼けしていた。
着物は朱色の天狗柄。
肩の部分に天狗の大将みたいなのがいて、
オーママと一緒に眉をしかめ、
オーママと一緒に俺を見つめる。
「殴りかかってこない相手を、殴り返すこと、できないじゃない?」
でしょ?
という目をするオーママに、
なんとなく頷き返して、
俺はウーロン茶のグラスを手にする。
グラスは結露でびしゃびしゃになっていて、
黒いカウンターの、
グラスが直置きされていた位置には、
跡地みたいに水の輪っかができている。
それが白い手に、ふきんでさっとぬぐわれて、
目を上げた俺に、
天狗柄の隣、カウンターの端っこから
ふきんを手にしたチーママが、閉じた唇で笑いかけ、
その光に俺がウーロン茶を飲むのをすっかり忘れて、
グラスを下ろすと、
そこにはいつのまにか
「情念」って字の印刷された紙のコースターが置かれていて、
俺が置いたグラスは「情念」の文字を隠し、
チーママの置いたコースターは、
グラスの水をきゅっと吸った。
「モーリシャスにタコがいなかったのは、
あたしのせいじゃない」
オーママが肩をすくめると、
コロンに樟脳のにおいが混じった。
首筋からは甘いコロン、着物からは樟脳の、鼻をつく香り。
「モーリシャス、いいとこだったし」
天狗は俺をにらんだままだ。
「ぎらぎら太陽、青い海、やさしい男たち」
オーママの目は、バー「情念」の、
羽板でふさがれた、アーチ型の窓に向く。
「タコなしで、2年やれたわ」
オーママの指が、目の下の、皺がつくる影を撫でた。
「タコなしで?」
窓を見つめたオーママに、俺が尋ねると、
そっと頷き返したのはチーママ。
「名前の似た国」
オーママが、つぶやく。
「目指すべきは、タニアだった」
俺がチーママを見ると、
チーママの唇が、声なしで動く。
「タニア」
「シャスじゃなかった」
オーママは、内緒話みたくささやいた。
その晩の客は俺だけだった。
無人のボックス席には間接照明すら灯されておらず、
赤いビロード張りのソファは、
緘口令下の舌くらい沈みこんでいた。
カウンターまわりの黄色い明かりは、
黒いカウンターに映ると、
ヤニ色になった。
オーママは、
薄いケースをかぱりと開き、細い煙草を一本取り出す。
とんとんとん、と、フィルターをカウンターにうちつける
そのしぐさに、
女じゃない感じが出る。
「この子にも」
煙草の先を指で閉じながら、
オーママが、チーママをチラリと見やった。
「苦労をかけたわ」
「いえいえ」
チーママが小さく手を振って、少しあとじさった。
オーママは、煙草に火をつけて、
「なにもかも」
煙を長く吐きながら言う。
「まかせきりでえええ」
チーママは、うつむいて、小さく手を振る。
「いえいえいえいえ」
「なにもかも」
「好きな仕事ですから」
「大変だったと思うわ」
「だいじょうぶです」
小さく手を振る。
「若いのに」
「ほんとに平気です」
「確定申告まで」
「ん?」
チーママの手が止まった。
「確定…」
オーママが言いなおしかけたとき、
チーママは、ずりっと一歩あとじさり、
俺たちに、くるりと背を向けた。
手近の戸棚をこじ開けて、
いきなりごそごそやりだしたチーママを、
オーママは、天狗と一緒にじーっと見つめ、
それから、俺の方に向き直ると、
俺の顔にあたらないように、煙草の煙を大きく吐きあげた。
煙はいったん雲になり、
横に流れていきながら、拡散するから、
さいごまで後を追うことはできなかった。
「2年てのは」
オーママが言う。
「短いようで、長いわね」
丸い灰皿に灰を落としながら、
ねえ、と俺に目で訊いてくる。
「2年てのは」
カウンターの下から、
空のグラスをとりだして、
オーママはそれに、
茶色い液体を注ぐ。
「それなりの長さよ」
言ってから、ぱっと振り向いて、
「ねえ、氷」
オーママはチーママに呼びかける。
チーママは、飛びあがり、
戸棚から冷蔵庫にしがみつく。
がらがらがらがら。
やけに大きな音を立て、
突っ込んだスコップから氷が、
ひとり分には多すぎる分量で、
アイスペールに注ぎ込まれる。
チーママが両手で捧げ持つペールから、
オーママは、ひとつだけ、
指で氷をつまみ出し、
グラスに落とした。
「いったいなにをしてきたのかしら」
グラスを目の高さにあげて、
茶色い液体に落ちた氷を、
外側から眺めた。
「なくても成立できてたなんて」
丸い灰皿には、
いつのまにか、
口紅のついた吸い殻が身を縮めている。
「抜け落ち」
オーママはグラスを揺らし、
チーママは、
ペールをカウンターにそっと置くと、
戸棚の扉の向こうに身を隠す。
扉の向こうから、
ふたたび、
中をひっかきまわす音が聞こえだした。
「あとになって、それが大切だったことに気づく」
「申し訳ありません」
扉の向こうから、チーママが小さく言った。
聞こえないふりをして、
オーママは、
「タコの話よ」
天狗と一緒に、しずかに俺を見つめた。
「燃え尽きて白くなった焚火の
灰の山をひっかきまわして、
その中から燃えさしの赤いのを掘り出して」
オーママが、
2本目のタバコに火をつけた。
「消えてしまった火を、思い出す」
オーママが煙を吐きあげて、
俺は煙に包まれて、
天狗の顔がゆがんだ。
「あたしは燃えさしに、嫉妬する。
負けたんじゃないわ。
勝たなかっただけよ」
「タコに?」
俺は尋ねた。
「ばかね」
オーママは笑った。
「いろいろなものが、消えていった。
それはあたしの領収書みたいなものだわ」
「あると思うんです!」
チーママが、悲鳴のように言う。
「タコの話よ」
オーママが、チーママに、低い声で答える。
「あの時のあたしは飛びたいから飛行機に乗った。
なにもわからないけど、自分の足で飛行機にとび乗った。
あたしはそれがやりたかった。
あたしは、」
オーママは、ふと口を閉ざし、
「あなたは」
俺に顔を近づけるとささやいた。
「過去の自分に嫉妬したこと、ない?」
「え?」
「チャンスをつかみとる」
頬にかかるオーママの息は、煙草のにおいがした。
「むかしはできなかった。
むかしは逃げられなかった。
むかしはのたうちまわった。
今のあたしはそのすべてに、嫉妬するのよ」
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