短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(80) 人間と金属バット
前回のエモ山👇
そろそろそういう時期だね、と思った。
そろそろそういう時期だ。
そろそろそういう時期だ。
「そうだな」
脳内に、俺は応える。
「そろそろそういう時期だな」
俺が応えると、
脳内は、安心しきって目を閉じた。
ミュートされた脳は無口になり、
俺が感じるのはただの、
身体一面うっすらにじみ出た汗、
しぱぴん仕事で出た汁が、乾く手立てを持たないまま粘化して、
それは俺の汗とノーアイロンワイシャツのアマルガム。
これを尖った細い舌先で、ちろり舐めとって去っていくのは、冷蔵庫からの冷たい空気で、
それで俺のすべてが冷えるわけじゃないけど、
くすぐられるのは悪くないよねって気分で、
汗をくすぐるっていうのは、仕事をくすぐられるようだし、
冷蔵庫は決して俺にはならない。
だって冷蔵庫って、明るいし、
いつも新しい感じもするし、
空っぽだからかな。
俺の台所には窓がない。
俺はときどき開けっ放す冷蔵庫を。
そろそろそういう時期だった。
冷蔵庫からの黄色い光。
それが教えるのは、
きのう食ったもののゴミカスから、ハエが生まれていること。
そろそろそういう時期であること。
ハエはすごく小さくて、速いから、
目の前に飛んできたやつを、捕まえようとして、手を伸ばしても、
俺は結局空を掴んでいる。
それによく見ると一匹じゃない。
あっちにも、こっちにも。
2匹がくっついたまま飛んでるのもいて、
それはたぶん交尾をしている。
黄色い光に、交尾してるやつらが飛び込んだとたん、
俺は冷蔵庫を閉じた。
台所は真っ暗になった。
で、
居間の電気をば灯す。
コンビニで買ってきた食物を、袋ごと座卓に置くと、麦茶のペットボトルが袋に引っかかって倒れた。
ペットボトルは床に落ち、バウンドし、フローリングを転がって、
金属バットに当たってとまる。
金属バット?
野球で使うやつ。
銀色の、真新しいやつが、パソコン机の下に落ちていた。
金属の、バット?
黒い柄をとり、持ち上げると、
その銀色の表面に、ひんやりとまるっこく、天井の電灯が反射した。
濾過課プールで振り回す、タモより若干太い感じのグリップを握り、
反対の手にバットの先を乗せると、
俺の乾いた手のひらで、かすかな音がした。
てぃん。
真昼間の野球場、炎天下のバッターボックス、
真っ白いユニフォームを着た少年が青空に打ち放つホームランが遠い記憶の中に呼び起こされるような、
いや、実際にはそんなもの、俺は見たことがないのだが。
野球などというものと、俺の人生との関係は、
休みの日なんかに大きな公園を歩いてて、ときおり聞こえてくる音。
てぃん。
遠くでその音が鳴ると、
その後、軽い歓声とかまばらな拍手とかが、ふっと湧き、野太い男の掛け声が追っかける。
それらすべては、膜に包まれて、空の高いところに置いてあるような音で、
ひし形に編まれた緑色のフェンスごしに野球場を見ると、
野球少年の脛についた泥が、白いユニフォームにくっきりしている。
そして俺の目は、フェンスに引っかけた自分の手の、親指のささくれにうつる。
そして結局、フェンスの針金が交差する位置だけ、緑色のかぶせものが剥がれちゃったためにそこから錆びちゃって、茶色くなってるところを見ている。
そのくらいの関係。
てぃん。
バットは真新しく、グリップにも胴の部分にも、擦れた跡がなかった。
「これ、なに?」
って聞こうとして顔をあげたら、
パソコン机には誰もいなくて、
いつもならエゴ山が座ってるキャスター付きの椅子は、
机から距離を置き、
腹を開くようにそっぽを向いていて、空だった。
俺はバットを持ったまま、
蒲団を引きはがし、トイレのドアを開け、風呂場も覗き込んで、
最後に台所に行って、冷蔵庫も開けてみたら、
さっきの交尾中のハエが飛び出してきて、
俺は頭を傾けて、その慌てたものを避けた。
バットを持ったまま居間に戻り、
麦茶を拾い上げ、座卓の前にあぐらをかき、
バットは床に転がして、俺はペットボトルを手にする。
蓋を開けると、
ぺきり。
音がして、俺はドキリとする。
それはただ、麦茶の蓋が開く音だったんだけど、
バットの音よりも、やけに近いような気がした。
俺はスマホを出し、
エモツイートをチェックする。
スマホを床に放り投げる。
麦茶はぬるくなっていて、
コンビニ袋から出した肉じゃがのパックからは煮汁が染み出ていて、
50円引きを示す赤いシールに、煮汁のシミがついている。
俺は肉じゃがの白滝と、記憶の中の野球場のフェンスをひき比べる。
白滝は、フェンスより透明。
こたえが出る前に、俺は白滝を食べてしまう。
空っぽの椅子と、
真新しい金属のバットを、
俺はひき比べる。
いないものと、あるものをひき比べる。
だいぶ前のことになるけど、
初めて会ったとき、駄菓子屋でチーママが、バットを持っていたことを思い出す。
けど、チーママのバットは木製だった。
真新しくもなかったし、塗装も剥げた、使い古しだった。
だからこれは、全然違うものなのだ。
目の前を、ハエが飛んでいく。
食い終わった肉じゃがのパックをコンビニ袋に入れる。
カーテンをひらき、ガラス窓越しにベランダを、端っこの影のところまで見たあと、
パソコン机の下を、覗き込む。
椅子をひっぱり戻し、
パソコンを起こして、エモツイートを、もう一度チェックする。
てぃん。
聞こえた気がして、椅子から振り返る。
金属バットは、さっきと同じ場所に転がっている。
金属バットが俺に見せるのは、
フェンス越しに眺めた試合の記憶だけだった。
いないものと、あるものを、俺はひき比べた。
目の前を、平然と、ハエが飛びかう。
そろそろそういう時期だった。
俺は椅子から立ち上がり、
ハエがこれ以上うまれないように、袋の口を、きゅっと結び閉じた。
俺は寝ることにした。
(続きます)
【歌で読む小説】
短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」
第8話 エモバイト
